『煙の行方ビビ編13』
甲板の階段をゆっくり登った。ゾロの足下で木板がぎいと軋みを上げる。気配を殺そうとしたつもりはないが、思う以上にその音が空間に響いた気がした。 「寝れねぇならつきあうか?」 そうは言ってしまったものの手に酒があるわけではない。例の酒はおそらくはナミの一番のお宝の中.に注意深くしまわれてしまっただろう。こと酒の問題に関して言えば警戒されているのは俺だろうし。手元にあるものと言えば問題の輪だけ。 手がうっすら汗ににじむ。緊張のあまりか台詞だけが先にでてしまった形になってしまった。 だが。 そのゾロの焦りにナミは気が付かなかった。 泣いているわけではない。項垂れているわけでも怒っているわけでもない。 ただナミはそのまま蜜柑の木を眺めながら木箱の上に座り脇の手すりにもたれていた。 雨よりも涙よりも細かい波のしぶきに浮かぶように、海に洗われた木箱の上に片膝を抱えてナミは座っていた。 何と声をかけて良いのか判らずゾロはただナミの横に立ちつくした。ナミはゾロを見もしなかった。こう言う時に何をするべきかをゾロは知らない。言葉にも詰まりただ立っていると唐突にナミがつぶやいた。 「変な日だったわよね。変なおばさんに拉致されて、監禁されて、みんなが来てくれたのになにがなんだかわかんないままに解放されて。」 独り言のように。ナミは始めた。 「あの人が何がしたかったのか今でも全然わかんない。この若くてぴちぴちの可愛らしいナミちゃんにヤキモチでも妬いたのかしらね。」 台詞に抑揚は少なく舌先だけで、心に映るだけの語れぬ思いは並べられない。一番心に引っかかるキーワードには触れないまま。言葉は宙を滑る。 「監獄も久しぶりだったわ。」 「ワニのところ以来か?」 「あんたじゃあるまいし、一人の頃なら入れられてもちゃんと逃げおおせたわよ。」 にやりと振り返った顔は逆光に浮かんで目の下のクマもそのまま。尖った顔が浮かぶ月の下、なにやら凄絶な気配が満ちている。 「そうかい。」 ナミが自らが話しているうちはまだ大丈夫だ。 思いは何らかの糸口から吐き出されるから。 ゾロはナミを眺めていた。ただ声のかけ方も判らずに眺めていた。 ふと気が付くとナミの指先には火のついていない煙草が一本挟まれていた。紙のフィルターに巻かれた軽く曲がり気味の長めの一本。 「そいつ・・・お前が吸うのか?」 「ううん。これはさっき貰ったヤツよ。ベルメールさんが好きだった煙草・・・・。本来なら吸ってあげるのが供養なんでしょうけどね。火をつけない煙草はまぁまだ好きなんだけどな。煙の香りはホントの事言うとちょっと苦手。」 ふふっと自嘲的な笑いも浮かんでいる。 理由を尋ねて欲しいのだろうか?そうまでナミのことを考えていてもその心模様を配慮して考えることはゾロは苦手だ。事実ばかりを無造作に並べてしか答えられない。 「そういえばお前が吸ってるのって見たことねぇな。」 「あんたもね。」 「吸えねぇわけじゃないが修行の邪魔なだけだ。別に無理してるわけじゃねぇ。」 ゾロらしい返事にナミはふっと唇だけ両端をあげた。そのまま下ろしていた脚を上げ両膝を抱えて小さな猫の子のように丸くなった。 「・・あんたらしいわね。あたしは・・・吸えないのよ。」 初耳だった。いくらナミでも相手の全てを知っているなどとは言えるはずがない事をゾロは知っていたが、それでもこのはすっぱで小悪魔な面を隠さない大酒呑みにそんな弱点があるとは思いもしなかった。 「駄目なのよねぇ。 どうしても煙草の煙はベルメールさんの最後と重なるみたい。子供の頃はもっとひどかったんだけど・・。未だに煙草の匂いを嗅ぐと身体が金縛りにあったみたいに動悸がして吐き気が強くなって、体が冷たくなって周囲が見えなくなるの。何か起こるって訳じゃないんだけど、体がもの凄く辛い。 これと一緒の銘柄なんて最悪よ。どんなに遠くでも絶対に判る。本当に動けなくなるの。」 ナミは指先の煙草をゆっくり弄ぶ。 「煙草が悪いんだとかあわないとかじゃないんだって。 ただ・・子供の時に心が受けた傷が体を縛るらしいわ。思い出が多ければ多いほど、良ければ良いほど、強ければ強いほど、裏返ると余計に心が辛くなってついには馴染みの深い物を見ても心を閉じてしまうのだって。昔そう言われたわ。」 手の中の煙草は玩ばれて少しずつ緩んでいる。 コイツの隠しポケットのある胸にマッチは常備されているはずなのに。 煙草に火をつける・・そんな簡単な行為がナミにはどうしても出来ない。 「ああ・・・?そういやいいのか?コック・・・。」 ふと基本的問題に気が付いた。もしナミがこの欠点を隠してもあのコックは本能的におそらく見破るはずだ。馬鹿だがその配慮のさりげなさに自分が届かない物を感じている。 「あ?うんサンジ君のは平気みたい。愛のなせる技かしらね?」 くすくすとからかうナミの口調は子犬が跳ねるようにゾロに絡む。 「・・・・・・そうかよ。」 「嘘よ。でも平気。うん平気なの。あたしも不思議だった。信頼・・なのかな。出会えたのがアーロン達の件が終わってからだから良かったのかも。銘柄の違いだけじゃなくってね。」 「ほう。」 ナミの言いたいこと、これは判った。ルフィがサンジが二人揃って、魑魅魍魎を一つ吹き飛ばしてしまったというわけだ。 腕を組んだままのゾロが、ふんと安堵を込めて鼻白んだような気配があった。 ゾロのこう言う所は好きだな、とぼんやりナミは思った。押しつけにならず、だが見ている。ナミの独り言に近い呟きをただ聞いてくれる。答えや弁解など要らないのだ。指導されても説教されても今は辛い。みさご・・彼女が放った仕掛けにまんまと踊らされてナミは心底クタクタになってしまった。 ただ・・このまま甘えても今のゾロは絶対ただ聞いてくれる。本能に似た理解がナミを満たしている。 「昔から無理すれば我慢はできたのよ。どこでも。どんなときでも。潜入するには重大な欠点だったからね。ちゃんと鍛えたのよ。どんなにつらくてもね。身体と心を切り離して・・これで結構大変だったのよ。 なのにあんた達とココヤシ村を出てからは平気になったわ。自分でも不思議だった。この煙草に出会うまでは殆ど忘れていられた。」 指でくるくると端の解れた煙草をもてあそびながら自慢げに言ってくすくすとナミは笑った。独り言をただ吸い込んでくれるゾロに甘えることが出来て自分でも少し落ち着いたようだ。一人で立つ癖に、こう言う時にはまるで無防備に甘えてくるナミの重さを決して負担に感じない・・どころかもっと関わりたくなってしまう甘さだ。 「でも匂いと記憶は完全には切ることができない。 あたしにとっては切ないくらいに懐かしい匂いでも、きっとこの煙草を吸うことはできないと思うわ。 だから貰ってきたこの煙草もこのまま供えてあげるしかないわね。」 後に続くほんの僅かに自虐を含んだ笑い。身内との別れの辛さは時が経つ事に鮮やかに懐かしく昇華されていくが・・それでも残された者は少し切ない。ゾロにもそんな相手が居た。大切な人を失う感覚はそれぞれ個人の物だがそれでも寂しさだけは共感できる。 ゾロは黙って手を伸ばした。ナミの手の中の煙草をすっとつまむ。手に持ったそれを軽く歯でくわえる。大刀すら構える口元に小さな煙草が妙に似合った。 「おい、火。」 「え・・?」 驚きながらナミがゆっくりと胸の間からマッチをそろりと出すとゾロは反対の手でそれを受け取り火を付けた。 しゅぼ・・じりじりと燃える音が煙草に移っていく。 紙の燃える音の後で懐かしすぎる煙が現れた。ゾロは軽く一息だけ吸って吐く。吐き出された匂いにナミはめまいがしそうだった。じっと見る事が出来ずに下を向いたらゾロの腕が優しくナミを背後から引き寄せた。 「辛かったら寄りかかれ。」 ナミを煙の強い薫りが包んだ。だがそれと同じ空間に自分を支えてくれるゾロの匂いがする。その温かい腕と胸があり心音まで聞こえる。二つの薫りのうち一つにナミは責められ、一つはナミを護っている。それはいつもの混乱を呼び込む前に穏やかに感情の出口を作った。 体は警報を鳴らす。だが同時に抱えられた腕は気持ちが良い。いつもの腕といつもの温かさ。眩暈しそうな混乱を渡るようにその腕に自分の腕を巻き付けてみた。 「これで、立ち会ってる事にさせて貰うぞ。」 一息の後ゾロが言った。 「え?」 「ナミ。お前の腕、貸せよ。」 煙草をくわえたままゾロはナミの左腕をとった。細い腕に光るログポースと金のすり切れた輪が光る。 「預かりもんだがな。やるよ。」 ゾロはナミの左手首を取った。腹巻きの中からごつい指がそっと取りだしたのは預かりものの金環だった。その細い金の環をナミの細い指先にあてる。 「指、伸ばせよ。」 「え?」 「このままじゃはいらねぇ。」 言われたままに指が伸びた。言われるままに動きながらナミはゾロが自分に何で何をしようとしているのかが頭では理解できなかった。煙の中だからか、ゾロの腕の中だからか、意識がきちんとまとまらない。 ナミの手を取ったゾロは壊れ物を扱うような神妙さだった。そっと腕にあわせて輪を通す。心地よい気候の風の中、ゾロはうっすら額に汗をかいている。その指先からゆっくり、ゆっくりと細い輪を奥まで滑らせてゆく。 「ゾロ・・?ちょ・・ちょっとこれ・・」 細い輪がナミの指の付け根の関節にひっかかった。気は遣いながらもぎゅっと押し込むゾロの力で歪んでしまうのではないかと思い、あわててナミは指をそろえてゾロが持つ輪の動きに沿って腕を動かした。 「簡単そうに思えたが・・。これで結構難しいもんだな。」 手首をすり抜けた腕輪はからんと手首のところで元の腕輪とログポースにぶつかり微かに澄んだ音がした。 「お前のもんだと。預かってきた。返したりすんなよ。」 ナミは黙ったまま何度も新しく自分の腕に巻かれたすり切れた腕輪を見た。二連を共に並べて眺め、ひっくり返し、突然顔色を変えた。 腕を上げ、何度も自分の腕輪を並べてみる。窪みの形も模様のモチーフも、消えそうだが確かに揃いの一対。 「受け取ったな。俺は確かに渡したぞ。」 「ゾロッ!これっ・・・・・・・・・・・・!」 環は未来をつなぐもの。人生を分かち合う約束のものとナミは知っている。自分の島では薬指に環を交わした。左腕に環を交わす島もある。 振り向きざまにゾロの首の辺りの服を掴もうとして偶然右手がゾロの耳に触れた。 熱い。 膝の上から見上げれば月夜の下で暗く映っても判る。ゾロの頬も耳も真っ赤だ。 必死に見上げる上気したナミから視線を上方に逸らし、ゾロはくわえた煙草を落とすまいと唇を締め、再び指で支えて一息吸った。彼の口元で煙が一筋棚引く。 ベルメールさんの煙草と同じ煙の流れ。同じ薫りだ。 二連の環。いまはナミの腕にある。確かにこれらは対だ。 最初からある環、これはノジコのモノだった。ベルメールさんの腕に巻き付いていた。幼い日の幸せが、心を強く締め付ける。そしてゾロが届けてくれた腕輪・・と言う事はこちらは・・・・預かったというならみさごにだ。何故見知らぬ物に郷愁を感じる事があるのだろう? 「祝いたかったんじゃねぇのか?今日は・・・その・・何だ、お前・・誕生日だろ?」 「知ってたの?」 まさかゾロが?気にとめているなどと思った事はなかった。ゾロはナミの肩を握り自分の膝の上で向こうを向かせた。 「どさくさに紛れちまったけどな。コックとビビが騒いでた。生きててくれてありがとうってことじゃねぇか?」 ナミの目に涙が浮かんだ。背中越しに思いがけないゾロの言葉がナミの中にすっと入ってくる。 心が翻弄されすぎた二日間だった。怒りと郷愁の間を駆け抜けて揺さぶられてきっと疲れてしまい、心の枷がもう、働かなくなってるんだ。だからこんなゾロの言葉に抵抗できなくなってるんだ。だからこの涙はゾロのせいだ。 背後のゾロは暖かい。 長い煙草の灰がゾロの足下にまた少し落ちる。 腕を動かすたびに環が軽い音を奏でる。 少し。癒されていく気がする。 ほんの少し、この煙が自分の中に帰ってくる。 これで良いのかもしれない。吸えない自分の代わりにこのゾロが代わりに供養してくれるというのなら。 少し視界がぼやけたまま戻らない。 そうこれは煙がきっと目に沁みただけ。 これで・・。 「ほれ。」 ナミの少しにじんだ視界の中ゾロは今自分が吸っていた煙草をナミの目の前に差し出した。己の口から外して差し出された吸い口はナミの口に向いている。 「吸ってみろ。供養だろ。」 「ゾロ・・・・。」 抵抗しようという気持ちは消えていた。体を縛る力も余り感じない。 「くわえるだけで良いから。只の供養だ。日も何もあるか。あっちに行った奴らの事はいつでも構わねぇ、ただ想ってやりゃいいんだとよ。」 ゾロの指先の煙草から灰が落ちそうになる。煙はゆっくり立ち上る。 命日に。 自分を産みだしてこの世界に出してくれた日に。 毎日の変わりなく続く日々を重ねていくそんな日に。 以前のように固まって冷たい石になった気はしなかった。だが、まだぎこちない。 自分を包むゾロの腕の中は暖かい。煙草を持たない腕がぎゅっとナミを支えている。ああ、ゾロの匂いがする。 ナミの腕輪がしゃらんと鳴った。 ナミはゆっくりと口を開けた。前髪が掛からないように抑えて顔をそっと前に出す。唇でゾロのごつごつと月光に光る指の中の煙草を受け取った。 ゾロの手はナミの口の先を掠めそうになりながら触れない距離で煙草だけが口元に残った。 ナミは反対の手で煙草を受けとりゆっくりと口の中へだけ煙を吸い込んだ。 その強さに少し酔ったようにくらくらしながら・・煙草の灰が白くなってその部分が長くなる。 少し吸って・・吐く。右手に持った煙草の煙はゆっくりと吐かれ、煙は船の上から海上遠くにたなびいていく。 「ねぇ・・何話してたの?」 「別に。」 「言いたくないわけ?」 甘える口調がナミに戻ってきた。ナミの手がそっとゾロの顎先をなぞる。 ゾロの左手が顎に回された。反対の手がナミの口元から煙草をそっと退ける。そのまま唇が被ってきた。いつもと違う唇が今日は煙草の味で軽くぴりぴりとした痛みのように感じる。 その唇の粘膜が合間を優しくついばむように触れる。 きっとあたしの味もいつもと違うんだろう。ナミが思うのと同じ頃ゆっくりと舌が唇をなぞりはじめた。 唇が絡みなぞりあい、舌の先が絡む。 ゾロの手の中の煙草はほろり・・と甲板に落ちて、少し転がった。 細い煙草はゆっくりと最後まで煙を吐き続ける。目の前で行われる営みに満足するように・・そしてゆっくりと煙は消えていった。 あの男が去って以来大佐は部屋にこもりっきりだった。 中で破壊音が聞こえた事もあったが誰にも入室は許可されなかった。 金ぴかに塗られた大きな花瓶を足で蹴るとあっさり割れた。 知っている。敷かれた絨毯は目の粗い二流品だ。色の金銀でごまかされただけだ。 木目のカップボードの裏にはカビが生え異臭の原因になった。破がしてみたら中は節だらけの木で作った安物だった。 「海軍大佐にはこれくらいの格があるモノでないと。」 偽物の男が連れてきたインテリアデザイナーとか言ったモノがそう言って揃えさせ、そう安い買い物ではなかった。 だが部屋の派手な装飾が虚しく感じられた。 澄んだ瞳の麦藁のルフィと対峙したあの瞬間の方がどれほどの充実感と高揚感を己に与えてくれただろう。それは昔知っていて、そして自分が両目を閉じて忘れてしまった物だ。 それが判った。だから昔を思い出した。「飢えたるものにはもてなしを」謝罪も込めて。 過去の自分と決別する勇気さえ持てば人はいつでも生まれ変わる事が出来る。それが例え人生の黄昏時であっても遅すぎるという事はないのだ。 静かなノックがゆっくり繰り返された。無視していたが5回目に無視出来なくなった。 「・・・・入れ。」 正装の彼女が立っていた。 「中佐か・・・。」 「おいとまを告げに参りました。」 「あ、え?今日だったか。」 「いえ。本当は一昨日でした。 では今までお世話になりました。」 深々と頭を下げた彼女はそれだけ言うとそのまま後ろに下がろうとした。その潔さにあわてたのはフェルトだった。 「あ、その、待ってくれ。今茶でも煎れよう。いや、煎れさせてくれないか?」 彼女は不思議そうな顔をしたがサングラスをはずし、その赤い目で微笑んだ。 「始めてですね。ありがたく頂戴します。」 大きなソファに座り黙ったまま大佐の手の動きを見ていた。お湯の沸く音と、急須からカップに注ぐ音だけが二人の間で響く。 「どうぞ。」 湯気の立つカップから素朴な茶の香りがする。すっと口にして彼女はにっこり微笑んだ。 「噂通りですね。美味しいです。」 「それは良かった。」 ソファの上に軍人の姿勢を崩さずに彼女が寛いでいる。元来フェルトは茶の心得があり余人には煎れさせなかった。その茶の味はすでに伝説級の噂となっていた。 「聞かないのかね?」 フェルトはもう失う物など無かった。だから始めて彼女に聞いた。この周囲の惨状の原因を聞かないのか、と。 自慢の家具はほとんど破壊されていた。 「いいえ。別に。」 その素っ気ないほどの答えにフェルトは少し、苦笑した。 「・・・・・・・・・・予想されていたかな?君の予言通りだった。」 湯気が二人の間にうっすら漂った。中佐は顔を上げると仕事の時と同じ命令を待つ顔で告げた。 「では、お捜しの男を追いますか?」 「・・・・・・・・・・・・・・いや。」 偽物になど興味はない。騙された自分が悪いのだから。 「本物はやはり・・・違うな。」 「はい。」 彼女の声は湯気とともにフェルトのささくれだった心に染みいった。 この基地はかつてグランドラインの灯台と呼ばれていた。人を逮捕する為の基地でなく、人を導く為の基地。その名に恥じぬ本物だった。だがいつからその本分を忘れたのか・・フェルトにはもう何処で間違えたかを思い出す事も苦痛だった。 だが、今からでも遅くはない。 「中佐はこの後は・・どうするんだ?」 もう一杯を急須に注いだ。今度は濃く、甘い茶が注がれる。 「里に帰ります。」 「里?だが君の・・待っている人はもう・・。いや言い間違えた、忘れてくれ。」 大佐は振り払うように細かく頭を振った。人にはそれぞれ触れてはいけない領域がある。 「・・・観たい者はもう目に焼き付けました。だから私はこれで良いんです。」 彼女の答えは柔らかくも、心地よいまでに明快だ。その爽やかさに心は癒されフェルトは思わずただ一つだけねだってみようと心が動いた。 「私が『残って欲しい私を補佐してくれ』と頼んでも・・・・やはり駄目か?」 みさごはにっこりと微笑んだ。 「はい。残念ながらせっかくのお申し出ですけどこの目では足手まといになりましてよ。」 こんな柔らかい微笑みをする女性だったろうかとフェルトは驚いた。と同時に気が付いた。おそらくは彼女の表情は変わっていないのだ。変わったのは彼女を見る・・自分の目一つだ。澄み渡る空では月も冴え冴えと美しい。雲隠れでは惜しい美しさが隠されてしまう。 躊躇無い答えに大佐は予想通りと思いながらも苦笑した。 「・・・・・・では、寂しくなるな。」 「大佐にそう言って頂けるなら光栄ですわ。」 「本当に・・・心からそう思うよ。」 手痛かろうが上官をこういう諫め方をする者はどんどん少なくなるだろう。己の責任が上がると同時に己が見なければならない物も増える。年を経て見えなくなる事は怖いと改めて知った。年を経て支える者が減る事の怖さも改めて思い直した。 そして、遺伝疾患の末とはいえ彼女の目の光が失われなくては成らないことを己のことのように心が痛んだ。そして彼女の一族が己達の歴史の幕を閉じたこともそれを告げた医師が心から彼らの救済を望み絶望して己も同じ道をたどってしまった事も。だがそれはまだ二十年以上前の悲劇にすぎないのだ。その上に立ち独りで生きてきた彼女の悲劇も、その彼女に己がした所行にも心が痛む。だが彼女はそれを過去として新たな人生を生きていくのだ。 フェルトは卓上の丸い飾り皿をすいっと彼女の前に押し出した。 「吸わないのかね?」 「宜しいのですか?」 「今後私はこの匂いできっと君を思い出すだろう。」 「では、お言葉に甘えます。」 夕日を浴びながら基地の門を中から潜り外に出た。もうすぐ日が暮れる。日の出日の入りの時刻だけは常に意識にある。 一人立ち、大きな門を振り返り溜息を一つ。 麦藁達の潜入の際に壊れた塀の瓦礫が転がっているこの基地もきっと以前の「灯台」と呼ばれた時代を思い起こしてくれるだろう。 自分のここでの仕事はこれで全て終わった。良い夕焼けがこの基地の最後の姿として心に残るのは悪くない。 彼女はサングラスを注意深くかけ直した。 子供は勝手に己の幸せを求めて飛び立った。 (ざまぁみなさいよ。) そう言ってやりたかったがきっと彼女は心から満足した顔でこの煙草をくわえ嬉しそうに言うだろう。 (いいでしょ?あんたとあたしの娘は最高よ) 親の生き様を真似て飛び立った娘へ思いを馳せて懐から取り出した最後の一本の煙草に火を付ける。 深く吸い込んで口の中で溜めてゆっくりと吐き出した。 手足の冷え込みを伴うけぶる様な恍惚感。 彼女を見送ってみて、やはりこの煙草からだけは離れられないようだと気が付いて苦笑する。 さぁ、私も行こう。国へ帰り自分の人生の週末を迎えよう。後を託すものはもう旅立った。 出会いは出会いと重なって不思議な文様を生み出す。その精緻さに心奪われない者は居ない。 「お前だけは最後まで一緒について来てくれるのね。」 軽い含み笑いとともに内ポケットの新しい箱の封を切って、そこを軽く叩いて新しい煙草に手を付ける。 煙が一筋、遠い空に吸い込まれていった。 end |
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Photo by Sirius