『煙の行方ビビ編12』
大変な一日だった。 最後の大騒ぎが疲れの原因と混ざりあって皆船底で部屋でと白河夜船を漕いでいた。 今宵は月の夜の海には波はない。浅瀬を見つけて付けて碇を降ろして得た休息の時。 甲板に浮かぶ影が一つじっと動かなかった。 手の中の一本を睨んだまま十数分。このままでは固まって彫像になるのではないかという時間がナミの回りですぎていく。 「寝れねぇならつきあうか?」 下から声をかけた男が居る。 びくっと固まった影が振り向いた。 一本の煙草を持つ手が微妙に揺れて震えている。 オレンジの髪にやつれた影が月の陰影にその綺麗な横顔を映し出した。 平静を装いながらゾロは臍の下の方に逃げたしたい衝動を隠した。 コックは騒いじゃいるし、本人は私は可愛いの!と言っている。だが、その見慣れた顔よりも実は綺麗な顔が隠れているのではないかと極たまに思う。それはいつも、誰にも見せた事のない表情を見てしまった時だ。それは出会って数日した夜の事だったりメリー号を奪う前だったり。何故かそういうときにはしょっちゅう遭遇している。 おかげでこういう時にはこいつは俺の鬼門になる。その時にはそのままにも出来なけりゃだからといって何も出来ない。いつも後で追いかける羽目になっている。 出来るならこの顔を見たくないと思っていた。やらなければならない事は必ず優先する・・はずのこの俺がこの様だ。 だから帰ってからこっち、俺は動けなかったんだろう。 『あの子に渡してくれる?』 女はそう言った。 『あんたが渡せばいいだろ。何で俺が・・』 と口の中で呟き態度で堂々と表せば女はくくくと身体を折って口元に手をそえた。 優しい目だった。 『今日、渡してくれる?大切な日だから。』 女はそう言ってこれをよこした。 自室は己の領域。他者を迎えてもなお優位な己の位置。罠をかけるにも上々。 「あなた、遅かったわよ。あの子ならこちらに寝返って海賊はやめると言ったわ。つまり彼女に裏切られて海軍基地に呼び出されたのよあなた方は。」 「裏切り・・ねぇ。」 目の前に突きつけられた『ナミの裏切り』に驚きも見せないゾロに、揶揄を含んでいた彼女の口調が軽く驚きを含む。だがそれを見せてあげるほど親切心はない。飛び込んできた獲物を前に研いだ爪を更に隠した。 「私の・・軍人の言うことは信じない?」 「いや。あの女なら平気で裏切る。それは信じられる。」 「あらつれない。それで良いの?」 「そういう女だからな。」 金と、自分の命と・・そして仲間のためなら何でもする。 彼女は唇をとがらせてひゅぅうとかすれた口笛を吹いた。音というよりはため息に近く。 これは少し予想とずれた。では? まずは一矢放ってみる。 「裏切った・・とか怒らないわけ?それともあなた、骨抜きかしら。」 最後の台詞に男女の仲を暗喩して仄めかす。 さてこの男は乗るのか?反るのか? 「別に。裏切りだって今更初めてじゃねぇし、あいつが自分からここに残るならそれでもかまわねぇ。」 淡々とした口調。視線をそらさず受け止めず、中庸の姿勢でゾロは答えを返す。 「けどまだあいつはルフィだけは裏切らねぇうちの航海士なんでな。この状態で迎えにこねぇと後と外野が煩い。」 これが剣術の試合だったらみさごのゾロへの攻撃は鋭い小太刀の後の大刀だったはずだ。巧みな二刀流による彼女の打ち込みを弱冠20歳未満のゾロがあっさり流して口元には笑みさえ浮かべている。三刀流の名は伊達ではないか?その肝の太さかそれとも? 「それは・・あの子を信じていると言うことなのかしら?けど知ってるでしょう?彼女の過去は裏切り続けてきた泥棒よ。」 「まぁな。だがそれがどうした?細かい話なんざ知らねぇし知りたくもねぇよ。俺達の目の前にいるあいつ以外に何の意味がある?」 世間知らずなのか馬鹿なのか。真っ直ぐな瞳にその口元のあっさりさ。嘘をつける口ではなさそうだ。 思わず中佐はサングラスをはずして自分の裸眼で男を見ようとした。 だがふいにさらしてしまった自分の紅い瞳にも全く驚きを示さない目と顔にも更に驚かされただけだった。 「あいつは目的の為なら何度でも裏切る。それに一々驚いてなんかいられるか。だが。」 「だが?」 「あいつを泥棒だと断言するあんたは何を知っている?そして何が言いたい?」 さすがは剣士だ。攻守の切り替えが実に速い。手は刀に掛かっていないが、瞬時に戦闘態勢に入れるようにロロノア・ゾロのまとっている空気は変わった。 人の評価に年齢なんて関係がない。特にこのグランドラインでは。勝手に駆け上がっていく海賊は何処で化けるか判らない。目の前の男の豹変に驚きよりも讃辞が心から沸き上がる。そして負けることを許さない己が奮い立つ。 だが、策を仕組んだ。その巧緻さ故に本能の速度に追いつかない。彼女のもたらす違和感をこの男はおそらく真っ先に気付き八つ裂きにしてしまうだろう。素なる物は正直最も扱いにくい。本能は最も怖い。その場合は相手の攻撃の方向を変えるしかない。 「アラ・・そんなに信じてるの?流石ね。」 せめても翻弄したつもりだったのに。男は自分の世界の声とを思い描いたようで、苦々しそうに口を歪ませた。だがその表情すら楽しそうで、今までの彼の表情から彼女の船内での評価が見えた気がした。おそらくはただの乗員としてではなく、そしてただの女でもない航海士としてあの船に乗るナミの姿が見えた。航海士としての尊敬と信頼を集めて船を駆るナミの姿が。 だがそれはそれで彼女の苦い感情を揺り動かした。それは時を遡る。そして己の一番深いところに差し込んだ。 若さはそれだけで強みになる場合がある。大人になれば世間の枠故に受け入れずにはいられないそんな事情も知らない。その純粋さが羨ましかった。 望みのままに振る舞うこと。私はいつの間にそれをどこかに置いてきたのだろうか? いや・・・自分に関して言えば、それを最初から放棄していた気がする。 それを飲み込むことこそが大人であり、男性社会に生きていく術だと。 昨夜見た彼女の娘はこれら素なる者に近いのだろう。 『生きていく為に必要なことなんて簡単よ。』ベルメールがそう言っていたことを思い出す。欲しい者を譲らなかった闇の中の率直な瞳に、目の前の気配を変えるどう猛な生き物に、それを既に持っている彼らに心からの羨望と悲しいくらいの憧れを感じた。 この光を失いつつある目にも目映い光で陰影を伴わない二人は胸を打つ。 「六千万にそう言わせるとはあの子もやるわねぇ。」 口元を引き締め、ゾロの睨め付ける顔を見てから中佐は口元を軽く微笑ませた。 そのまま手元にあったファイルを閉じて立ち上がる。後ろの小さいキャビネットと言うよりは事務的な棚から小さなグラスと瓶を出してきた。琥珀と言うよりはやや赤めの液体を二つのグラスに注いでを胸の高さに持ち上げてゾロに向かって勧めた。 「好きな方をどうぞ。残りを私が戴くから毒味は不要よ。」 「あんた、何者だ?」 「飲んだら教えてあげよう。」 それまで殺気に似た気配を隠さなかった闖入者は相手の気配に併せて変わる。 そのまま前にすたすたと進み、勧められたグラスを少し乱暴に手に取る。ぐいっと一気に飲み干してグラスを机の上に置いた。そのまま女を見据える目の中に少し舌の上の驚きが混じっている。 「お口にあった?」 「ああ。」 素っ気ない、それでも芯の通った言いぐ方に中佐は微笑んだ。この少年は相手をみて饗応を受けるか一瞬で決めたらしい。その潔さ。機を読む真っ直ぐさ。 「何がおかしい?」 「いいえ。ごめんなさいね?でも答えてくれる?どうして君は真っ直ぐここに来たのかな?」 「・・・・・・・・・何となくだ。」 本人もよくわかっていないらしい表情だ。部屋中をきょろきょろ見回している少年の瞳が余計にその若さを物語る。この男に惹かれる興味は尽きなかった。 「もう一つ質問、良いかしら?」 「ああ?。」 「貴方が他人のことを知りたいと思ったらどうする?」 ゾロは眉を顰めた。まず彼女の質問が予想外だったからだ。そして案外律儀な彼はそのまま質問内容を検討し始めたが、直に瞳を真っ直ぐに開いて口を開いた。 「斬る。」 躊躇いのない言葉だった。 「普通の人や子供相手でも?」 ゾロは彼女の問いの意味がわからなかった。自分の内奥と照らし合わせてみる。この海のせいかルフィと出会って以来、普通の人と知り合っていない気もするのだが。そう言われるとそぐわない言葉を口にしたと思い直した。 「ああ、そうだな。“やる”って方が正しいかもしれねぇな。」 ゾロは軽く驚いた表情を浮かべた。本人すら予想していなかった答えだったらしい。己の奥と向かい合って発見した広い世界にゾロは結構満足した様子だった。 「へぇ。」 「なるほど。で、あんたは?」 ゾロの姿に女は可笑しそうに少し下を向いていた顔を押し上げた。 「私の友達は“試す”といってたわ。今回それをやってみたけど向いてないみたいね。私は“量る”方だから。」 「で?俺を試して量ってどうだった?」 「怒らないの?」 「あんたが勝手にやることだ、いちいち俺が怒る筋合いのもんじゃねぇだろ。」 「なるほどねぇ。」 のんびりした答えが帰ってくる。女のリラックスした姿に悪意を感じずゾロは心の構えを解いていた。 だがゾロの気配の変化も無関係で歌うように遠くを見た。 「君に会うのは目的じゃなかった。でも、会えたら嬉しいと思っていたわ。もう一人にもね。でもあちらは大佐の客になっちゃったから会うのは難しいでしょうけど。」 「ルフィの事か?」 「せっかくここまで来てくれたんだから、手ぶらじゃ返せないわね。受けてくれる?お土産があるの。」 「いらねぇ。」 「貴方にって訳じゃないわ。」 その言葉にゾロが睨みを効かせた。 「・・・だったら尚更だ。俺は運び屋じゃねぇ。本人に渡せよ。」 「いやぁよ。それじゃ私が面白く無いじゃない。」 眉間に青筋を浮かべたままゾロは目を閉じた。 「大体が判らねぇ。あんたはどうあってもナミの敵には思えねぇ。何がしたいんだ?いや、何をあいつにさせたいんだ?」 「・・・・・・試したいのよ。この酒と煙草にあの子がふさわしいのかどうかを。」 一心に駆け上る子供には判らないだろう。置いてきた物の苦い味などは。手に届かなかった物への懐古の味は。 その懐古故に落としてみたくなるこの我欲は。中佐はうっすら微笑むと二人の間の簡素なテーブルに置いたデキャンタ瓶を取り上げた。 「このお酒はどうだった?」 「あいつんとこのだろ?村を出る前に姉さんって女に飲まされた。」 中佐の顔に驚きが走った。 「判るの?」 「一度飲んだ酒ならな。」 「これは幻の一品よ。十年前に作られて・・・おそらくは現存する封を切っていない物は私の後ろのこれで最後。二度もこれを飲めたとは、貴方幸せ者ね。」 中佐がテーブルの上に残った水を指に付けてグラスを弾けば澄んだ音がする。 この殺風景な部屋の中、高価と思えたのはそのグラスだけだった。 「あの子も同じ事をみたのね。」 その台詞に彼女は心から嬉しそうに微笑んだ。 「この酒の味がわかるならこの酒に込められた思いが判るでしょう。これは前払い。貴方にはその代価にこれだけは持って帰っていただくわ。はい、お土産。」 「いっ・・・・汚ねぇ。」 ゾロはぶつぶつと口の中で唱えた。が、中佐に近づくとその小袋を思いの外あっさりと素直に受け取った。 「くっそ・・あんたがあいつを試そうと量ろうと何しようと勝手にすりゃいい。あいつは帰るんだな?それだけ判れば俺は戻る。」 ゾロが悔しそうにそう言ったときだった。 中佐はふと外の気配に気が付き、バルコニーを覗き嬉しそうに微笑んだ。 「あらあら、気の早い事。」 人差し指でゾロにも見るようにと外を指さす。 大きな丸窓の向こうに自分の名を呼ぶ大声が窓の外から届いた。 その声がいきなり向こうの塔から落下を始めた。 慌ててゾロは出窓のバルコニーに駆けだした。 押しつけられたとは言え頼まれた以上きちんとすべきだとは思う。 だが決意してはまた崩れてゆく。自分らしくない、と幾度も思うのに。 何故あっさりと聞けないのだろう? 「Mrブシドー?」 「なんだ?」 ビビは船底の男部屋から上がってきたらしい。あの騒ぎに良くも動じないものだ・・まぁいつもの事だが。 「お一人?」 「ああ。お前は?」 「ルフィさんがようやく手をゆるめてくれたんです。」 「あいつも捕まえたら離さねぇからな。」 無意識にゾロは手の中の腕輪を玩んでいた。その行為を見ていたビビが腕輪を注視して・・おもむろに真っ赤になった。 「・・・Mrブシドー?それ・・・ナミさんに差し上げるの?」 「・・!なんでっっ・・・」 判るとは続けられなかった。例え耳が熱い事は判ってても。 「やっぱり!?そうなんですか?」 跳ね回らんばかりの鼻息でビビが駆け寄っても“そう”と言われてぴんと来る男でない。ビビはゾロとの距離をあっという間に詰め、鼻先で紅潮した顔を輝かせた。 「で、いつなさるの?プロポーズ」 にっこにっこと心底嬉しそうに横で微笑まれればゾロの怒りに似た驚きは登場するのに時間を要した。 「・・・何をするって?」 「え?違うの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なぁんだ。」 期待を完全に裏切られたビビはぷいっと頬をふくらませ唇を尖らせた。 「あのね。私の國では結婚の誓いは腕輪の交換なの。相手の為に彫り上げた腕輪。黄色いものつまり金は男性に、白いものつまり白金や銀は女性に渡す事になっているの。これはグランドラインではかなりふるい習慣だし、確かにこれらは地域ルールが大きいから・・。けどその貴方がそれを持っているなら理由はただ一つ!って思ったのよ。てっきりナミさんの為に準備したのかと・・・。」 ゾロの目は丸くなった。かつがれているのかとも少しビビを疑いちらりと顔をのぞき見た。 「・・・・・・。」 だがビビの丸い目を見るとマジでそう思っていたらしい事も判る。 「・・・・・・んな訳じゃねぇ。預かりもんだ。ナミに渡せってな。けどそんなこっ恥ずかしいもんなのか?この輪っか。」 「例の海軍さん?」 話は少しナミさんに聞いたから・・とビビは笑った。ぽりぽりともう一つの手でゾロは頭をかいた。そのビビに向かって気の毒そうにゾロは言葉を濁らせた。 「ああ・・・ならお前からあいつに渡してくれねぇか?」 眉間にしわを寄せ心底困った顔のゾロを見てビビはふう、と軽く溜息をついた。両手を腰にあて、ずいっとゾロに詰め寄る。一体そういう気迫なんだ? 「・・・腕輪はね。人の心を託す為に指輪よりも大きいんです。親から子への愛もそう。男女の恋でも幾重にも重なる輪を送ったりするの。そして師弟間でも託されることがあると言います。 Mrブシドー、貴方にはないの?大切な人からなにか託された経験は?それがとても大きな宝物だった経験は?」 ビビはすっくと背筋を伸ばすとにっこり微笑んだ。 「ある・・・・な。」 遠い幼いあの日先生は俺にこの刀--和道一文字をくれた。 確かに泣きながら俺がくいなの代わりにとねだった、だが時を経ても決して返せと言われなかった。実は周囲がいろいろ言っていた事は俺でも薄々判っている。剣を振るう者ならなおさらその価値のあるこの名刀を先生は黙って俺に持たせて見送ってくれた。愛娘くいなへの想いと共に全てをゾロに託して、そしていつ帰るとも判らない、俺の悪癖を知っていれば尚のことだというのに先生は黙って旅立たせてくれた。世界一への約束はくいなとだけではない事を今のゾロは知っている。先生にもルフィにも誓いを立てているのだ。 「今回の事はあまりはっきりと教えてくれないナミさんの話も聞いた後でも不思議だけど・・その方がナミさんにかけている気持ちは本物にみえるの。私もママは早くに他界なさってテラコッタさんに育てて貰ったようなものだから詳しくは知らないけどまるで母親みたい。わざわざ貴方にそれを頼む所なんて特にね。」 黙って自分の思いに半分身を残していたまま、手の中の輪を見つめるゾロにビビの声は歌うように問いかける。 「恥ずかしくても良いんじゃない?女はプレゼントも好きだけど何よりも付いている気持ちがとても大事よ。 サンジさんがくれる精一杯の持てなしも、ルフィさんが一つだけ分けてくれるお肉も。どちらもとても大切。そしてトニー君からは優しさを、ウソップさんからは気配りを、そしてMrブシドー貴方からは憧れを私貰ってるわ。だから私はみんなが大好き。」 「?」 怪訝そうにゾロは面を上げた。自分の事を言われたらしい以外の事が理解できなかったらしい。 「見えにくいけど貴方のナミさんへの貴方の気持ちに憧れを感じるの。私、あなた達二人がとても好きなの。だから。」 心の底からにっこり微笑んでビビは一歩ゾロに近寄った。反対の腕を取り、引き上げられて背中の僧帽筋をぎゅっと押す。腰の引けたゾロを押し出しながらビビはもう一つはっきりと言い切った。 「じゃ、ご自分で行ってきて下さいな。今夜は私、ルフィさん達の間で寝てますからね。」 ゾロの顎が落ちた。最後の台詞にゾロの呼吸はたっぷり十秒は止まった。うふふふと立ち去るビビは本当に嬉しそうだった。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・気の回しすぎだ!」 ぴくんと震えた身体は俺の足音に反応している。 「寝れねぇならつきあうか?」 (続) |
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Photo by Sirius