『煙の行方ロビン編10』








月夜の夜半。登り始めた半月は甲板に一つ長い影を落とす。


船底からは昼間から繰り返された憔悴を含んだ先ほどまでの喧噪とはうってかわっていびきが低く響いている。
細身の影は足音もなく静かに動いた。まとっている黒い服は影が立ち上がっているようだ。本当に実体がないようにも見える。
甲板の一番高位、ミカンの木々の裾に立ちそれを眺めるとすり寄ってその木をそっと撫でた。そっと撫でては上の葉を眺め、たわわな姿の実を下から眺める星が木々の間に見えている。

そこから離れて足音もなく甲板のあちらこちらを眺めてキッチンのドアをそっと開けた。入り口から眺め回しては椅子に座ってみたりテーブルの上に残っていたインクの跡を柔らかく撫でた。そのままキッチンを出てバスルームを覗いて、軽く匂いを嗅ぐような動作の後、次のドアを開けた。ノブを回す音も立てないように。そっと。

白いベッドは無人だった。脇の壁に吊られたハンモックに寝ている影がある。
影は部屋を見渡した。壁の本棚のタイトルをざっと閲覧し、デスクの周りに触れ、ベッドにおびえる姿もなく近づいた。
ベッド脇にある窓際の棚の上に写真立てが一枚月の光を受けて笑っていた。幼い娘を両脇に腕を組んで笑う見覚えのある顔。影はその前でじっと動かなくなった。


「海賊船への侵入者は見つかり次第ハンギングで良いわよね。『吸血鬼』」
寝ていたはずのハンモックにいたのはただの錘で、進入してきたドアの後ろ側の壁にロビンが身を預け立っていた。抑えた低音の声は他の部屋へは漏れず、影にのみ直接突き刺さった。
「後ろにいるのが貴方とは知らなかったわ。今夜の目的は航海士さんだけじゃなくって私たちの航海日誌かしら?」

ロビンは勝ち誇ったように手の中の一冊の本をひらひらかざした。
影はおとなしく振り返った。顔を覆う黒頭巾をすっと外すと下から白い髪が出てきた。

ぴったりくっついた服を身につけた女の顔はナミが見たら驚いただろう、彼女を牢屋に訪れたあの顔だった。

黒手袋の両手をすくめて中佐は答えた。
「久しぶりね。けど私はもう退役したの。今更その名はよしてくださらないかしら、『オハラの娘』?」
互いに相手の二つ名を呼びかける。触れられたくない過去が互いを牽制し、一気に緊張感がふくらんだ。

静かに暗い船室で二人がにらみ合う。
静寂を破ったのはロビンの方だった。

一斉に屹立した腕達が中佐の首を腕を体をも締め上げた。
「・・・・連れて行った航海士さんの事とかもう少し喋ってもらうつもりだったけど、ここで死んでもらうわね。」
気道を締め上げられながらも少し上からロビンを見下ろす中佐の視線は揺るがなかった。
「・・今更・・何のつもり?・・・オハラの悪魔の・・あなたが・・なぜ・・こんな海賊船に・・乗り込んでいるのかしら・・・目的は?まだ・・未練たらしく・・探しているの?」
ロビンの目尻が津波のように競り上がった。
「貴方、本当に命が惜しくないようね。以前の借りはあのときに返してる。今、遠慮は必要ないわ。」
以前出会ったのは軍の密偵と海賊に追われている最中の時だった。それだけの知己でしかない。
「そうでもない・・わ。けど貴方・・は私に・・手をかけない。」
「買いかぶっても無駄よ。」
それでも何とかなしえた呼吸に中佐は少しだけ息を整えた。
「いいえ。貴方、ニコ・ロビンは非常に頭が良い。だから常人の予想範疇の行動や能力には毛ほども関心を持たない。」
締め上げていた腕が、少しゆるんだ。
ロビンの変化を見落とさず中佐は続けた。

「けどその分裏返せば自分の想像を超えるものには結構弱い。
予想外の人の行動に心から驚かされたら、あなたの想像を超える行動をする人間には目を離せなくなる。
モンキー・D・ルフィもその一人でしょ。
鉄壁といわれるあなたの欠点がそこよ。」

時間にして深呼吸三回分。ロビンは前歯で軽く唇をかんだ。
「昔ほんの一回ばかり会っただけでそこまで言い切るつもり?だからどうだというのかしら?」
「私は量る者だから。そうやってこの二十年生きてきたのよ。その点で貴方が少しくらい劣っても心配する事はないわ。ナミを握られて、こう貴方を見切って、そして謎を残したままの私を貴方は私を殺さない。だいたい退役軍人を殺してもメリットはないでしょ。」
揶揄するような響きだった。だがロビンは腹を立てるよりはその彼女の目的を量った。敵が持つ勝算を見逃していないか、そのリスクが少しでも高ければロビンは無駄な行動をとらない。
「年寄りであるだけで偉いとでも思っているのかしら?」
「年は取っても私は今の自分に満足してる。自分の経歴の流れに恥じるところはない。このまま殺されたとしても怖くはないわね。」
本気だ。
ため息を一つ。ロビンは関節技をかけられる一手以外の全てを外した。ハナハナの能力に距離は問題ではない。いつでも技は掛けられる。
「まったく・・。貴方一体ここに何しにきたの?夜這いなら男部屋はこっちじゃないわ。」
壁に押しつけられたまま中佐は動かせる部位でロビンに締め上げられた体のあちこちをさすりながら首や肩を伸ばした。
「あら、そちらも別の意味で興味深いけど、貴方ほど子供に興味はないわ。  親が子供の生活環境を見聞にきたら悪い?」
「・・・親?」
「といっても私も会ったのは今日が二度目だけれどね。」
窓からの明かりにどちらも夜目は利く。
漆黒に紛れる黒い衣装。気配を殺していない今は感情の変化はほんのわずかでも見える。
彼女の声の張り、態度に嘘はないだろうとロビンは判断した。
情報として以上のプライバシーに立ち入る趣味はない。

「彼女には?」
「さっき会ったわ。あの調子なら今頃何かいたずらしていると思うけど。」
子猫のいたずらという訳か。
「まだ返してくれないという訳なのね。ならばおそらく明日には彼らが救出に向かうわ。」
「でしょうね。たぶん功を焦っているようだったから明日にでも彼にも招待状が届くわ。私の用事だけならおみやげも準備してもっと穏和なはずだったけれどそうもいかなくなってね。」
「更に罠を張っていただいたのかしら?」
「罠と言うには少し・・ね。だから彼の招待にはきて、引っかき回してくれて結構よ。昼時には決着がつくんじゃない?そこからの逃走経路は自分たちでやってね。」
「目的は・・彼だけではなかったの?」
赤い瞳が笑った。
「ごめんなさいね。巻き込んじゃって。」


その台詞から、彼女はこれ以上の情報を出す気はないようだとロビンは思った。
情報を整理すれば航海士さんは傷つく恐れが低い。だが二種類の罠があるかもしれない。
だが退役したという台詞と会わせても彼女の口に投げやり加減はない。あるがままの自然体だ。嘘の気配はない。
しかし退役した以上航海士さんの身柄の保証能力はどの辺りまで信じて良いのだろうか?



彼女はサングラスを外した。
闇の中で曇り無い紅の瞳。
善意に任せるというロビンが殆ど選ばない道を取ってしまったのはおそらくその瞳のせいだろう。
ふうと溜息をついて先ほど置いたテーブルの机から一冊の本を二本の手が取り出した。

「これ、ご覧になる?」
先ほどの航海日誌が二人の間で放物線を描いた。


「いいの?」
「こっそり知りたいものでしょ?子供の日記って。」
「ボーイフレンドのこととかそんな?」
「明言はしないけどそんなかわいらしいレベルの仲ではないわ。」
「どれが相手か当てろっていうわけ?」
楽しそうにこれ以上ないほど嬉しそうな笑顔で読み始めた彼女はロビンの顔をじっと見つめた。
「誇らしげね。」
後は遅くまで読みふけって、返事も忘れた。










「剣士さんは何を悩んでいるのかしら?」
「おわっっっ!!」
逃げ出した後、食事を待って歓談中のキッチンとは対照的に航海中の甲板は静かだった。宵闇も更けて星がいくつか見えてくる。誰もいないはずのそこに真横からのロビンの声に肝を抜かれた。
「何でもねぇよ。」
反対の手でさらりと懐にブツは隠す。悟られるのは不愉快だが、ロビンの気配は読めなかった。今も少し心臓がばくばくいっている。
「驚いた?いつもになく考え事の最中だったみたいね。」
手を交差するロビンの身体は遠いのに背後の船縁に薄い唇の口が微笑みながら生えてるのは慣れたとはいえ気持ち悪い。するっとその口は消えて本体がゾロの側に寄ってきた。
「今貴方の腹巻きの中に隠したあの子用の腕環。」
「見たのかよ!」
ゾロの怒号を無視してロビンが両腕を交差した途端、背もたれにしていた船の壁ににっこり大きな目が浮かび上がった。動かないでゾロを向いて微笑んでいる。気持ち悪いを通り越してあきれた。
「てめぇ、趣味悪りぃぞ。」
「その模様・・・バウ族の基本柄で命を表したものだと思うんだけど。」
「バウ?」
ゾロのたいていの人間をびびらせる睨みも何のその、視線を煙に巻いて急いで腕輪を隠した腹巻きを凝視する。ゾロよりも腕輪に興味がある、と言うわけだ。
ロビンの真剣なまなざしにゾロはあきらめて腹巻きから環を取り出した。じっと眺めても消えそうにすり切れた細かい模様。ゾロには線にしか見えない。ロビンは反対から頭をつけんばかりに寄せてきて、手にとって離れた。


「バウ族はアルビノの一族で古代からの希少種だけど、その分血は濃くなり短命になった。
20年位前にそれを遺伝病と一人の外来の医師に指摘されてその事実を知った。本来他の遺伝子とまざれば出現頻度が下がるから、他と交われと。今では白髪は染めて目にも色が乗せられる。太陽から目や肌を守る術もある。その医師はその部族を助けたかった。

だけど悲劇は起こった。彼らにとっての固有の特徴が、今まで神の恩寵としてきたものが病だと言われて、その生活をやめろといわれた。
彼らは悩んで、その高き誇り故その後子供を作らず子孫の命を絶やすと決めたそうよ。
それだけでは収まらずに結局一族のほとんどが自決、または互いに命を落としあった。老いたる者は若き者に、子供は大人に殺された。自決と言うにはあまりに悲しい状態で、死体のほとんどが涙を浮かべていたそうよ。長老の決定は絶対だったから仕方がないという人も居たけれど、結局は『相手の常識を知らずに物事の秤を決めつける事の恐ろしさ』を伝える事件として歴史に終幕を引いたわ。今の社会に置いての知恵として語られている。

彼女はその生き残りらしいわね。在軍中のコードネームは『吸血鬼』。闇に暗躍するその容貌から付いた名前よ。昼の日差しではその肌も目も長くは持たない。彼女もその血を伝えることなく、その想いを伝えることなく埋もれてようとしていた。
けど彼女は航海士さんと出会ったのね。」

ロビンはゆっくりと頭を上げて語る。ロビンがあの女の裏の話を知っていることに今更の驚きはない。その情報もおる程度は信頼できる。

「なんでそこまで知ってる?」
「昨夜、船に遊びに来てたわよ。昔の知り合いだから。」

「んだとぅ・・お前の知り合いならあっちから来てもらえば良かったんだろうが。」
「あら?私あなた達にも最初にそう言ってみたわよ。」
・・思い起こせば確かにそうだがゾロは二の句が継げなかった。
思わずため息がこぼれる。何でこの船にかかわる女はみな一様に訳ありなんだか。
先程から眉間の皺を寄せっぱなしのゾロの反応をまったく無視してロビンは月の光に腕輪をかざして見入っていた。

「やはりね。命の文様。生命の源をたたえる古の文化の基本文様のひとつだわ。
話には聞いていたし書物では見たけれど今に実在するとはねぇ・・。」
うっとりした輝きがロビンの瞳に宿っている。
お前に関わりはないだろう、と返すように手をさし出すとロビンはにっこり微笑んだ。


「そうそうそれ、音ではこう読むわ  “ナミ” 」


腕輪の金属音が響いた気がした。
ナミ・・とゾロの口元だけが動いた。

「生みの親ではないと言っていたわね。名付け親として航海士さんに命を与えたって訳かしら。」
ロビンの言葉が呪の様にゾロの心に刻みつけられる。

「あの子がいつもしてた腕輪も多分これと対の腕輪よ。文様がね。あれは『大地』ヴァスという名。覚えはない?」
ヴァースと言う名ならゾロにも覚えがある。ついこの間までそこにいた。空島の人々が願ってやまなかった大地を表す言葉。
「古くから伝えられた言葉を、暮らしを、文化を今に伝えた滅び行く種。受け入れながらも何かを他人に託したいというのは人の本能なのかしら。」
「他人に託す?」
「命を、風習を。」
滅びたものを語る時ロビンの視線はいつも宙をさまよう。この瞳が語る世界はあの女の赤い瞳と同種だった。
己の目的のためならばナミとも同種の女だという気配はする。我が道を譲らない、自分もその点では差はないだろう。
あの女のは真っ赤な瞳だった。サングラスをはずしたときにちらりと見えた。
だが。
その赤い目がナミを語る目は真摯だった。自分を通してナミを見る目は優しかった。
そしてナミを見る目に口元になにより嬉しそうだったから口を挟めなかった。

「いいえ託すんじゃないわね。親というものは子供という船に詰めるだけのものを積んで航海に出す。
航海士さんは旅立ちにあたって大切なものを貰ってたって事かしら。」
「腕輪?」
「命、と想いを。」


ゾロの手元の腕輪が急に重くなった。

ただの腕輪だ。ただの細い腕輪なのだ。
ゾロにとっては軽すぎるほどの小さな輪。
だが押しつけられたただの腕輪がなぜかゾロの心にひっかかった。
船に帰ってすぐにナミに渡せばあっさりと片が付いたろうに、それができなかった。

だがいくら重くともゾロは約束を果たさねばならない。人が己を架けて託した命がこれだというのならなおさらの事。



ゾロは立ち上がる。

「航海士さんは・・」
「知ってる。」
蜜柑の木の下で。
「独りよ。」
「知ってる。」
ナミは帰ってから彼女は意識的にゾロの方を見ようとはしなかった。そのくせ遠くからの殺気だけは感じていた。
ロビンは軽く溜息をついた。
「仕方ないわね。他の子は引き留めておいてあげるわ。」
「・・何が目的だ?」
刀を握りしめ怪訝そうにロビンを睨むゾロを前にクスっとロビンはいつもの人を煙に巻く微笑を浮かべた。
「私もあの子の涙は苦手なのよ。自分がへこむと涙は出さないんだから。それに・・・帰ってきてずっと貴方だけと話したがっていたでしょう?」
だからこの女は気を抜けない、とも思う。こんな者を体内に取り込めるのはルフィのような馬鹿だけだ。自分は一人でももてあましているというのに。
ロビンは黙ってくるりと踵を翻した。
足音のしない歩き方は闇に生きる者の証。赤目の女の歩き方もそうだった。
ふん と鼻を鳴らし視線を外してゾロは全刀を腰に差した。
ぱちんと刀の収まる綺麗な音がする。背を向けたロビンに向かって腕を組んで声をかけた。
「この後勝手に覗いたら今度は斬るぞ。」
「あら剣士さん、泣いた子を慰めるのに脱がすしか能がないの?やっぱり下手な人は駄目ねぇ。」
「ば・・!ちがっっ・・!」
「嘘よ。ではごゆっくり。」
ロビンの膝を寄せた歩き方。キッチンに戻る足音に怪我の乱れはない。

そのロビンを見送ることなくゾロは階段を上り始めた。
蜜柑の木の下にあいつはいる。










          




Photo by Sirius