キャンパスを通りゆく秋の気配を含んだ風は肌に心地よかった。校庭の樹木も少しずつ色を変えつつある。その色彩は故国の秋を思い出させてくれる。
大学は二期制だ。夏から始まる学科は一月もたてば落ち着きを見せる。授業やレポートがそれなりに忙しいがそろそろペースもつかめる。サークルやクラブにと友人も増えて楽しい時期らしいがロビンはそう言う物とは無縁だった。授業は真面目に出るしレポートの手は抜かなかったが人付き合いに興味はない。自分の来歴が他と異なることを気にする人間が多いのもその原因の一つだろう。何処にいても異邦人である自分の居場所を見つけられなかった。
「あら?」
その風がいたずらにロビンの足下にコピー用紙を飛ばしてきた。
「あ、悪ぃなぁ。それ取ってくれるかい?」
くだけた声でかけてくる男がいた。
取り上げれば英文の文献だ。腫瘍の治療法のレポートだ。彼は声に似合いのゆっくりとした動作で起き上がって手を伸ばす。
紅く燃える髪の、にこっと微笑まれた笑顔は無精髭なのにその季節に似合う穏やかさだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
微笑まれてそこは処世術。無難に薄い笑顔で会釈を返した。
そこはキャンパスの巨木の下でベンチが置いてあるわけでもない。そしてあまり人が通らない領域ではある。
直に草の上に座って気持ちよさげに男はそこで論文のコピーを広げていた。おそらくは学内でも珍しい光景でもないのだろう。
ただそれだけのこと。
次に出会ったのは同じ木の下だった。
今度は気持ちよさそうに寝ていたが、私の通りすがりに薄目を開けた。そっと離れようと、驚かしたつもりはなかったが視線があった。
今度はロビンが軽く微笑んで彼はゆっくり手だけを振った。
「やぁ」
次には彼がやはり緑の上から声を掛けてきた。
「よく会うね」
「通路に貴方がいるからよ?」
「君の、通路だろ?本来ここは人はあまり来ないんだけど?」
何者かと思ったが改めては聞かなかった。あちらも名乗るわけでもこちらの事情を尋ねてくるわけでもなかったから。
挨拶と会釈の仲は二ヶ月。その半月後には床を共にした。
事後の煙草が美味しかったから気が向いた時にだけと言う付き合いはその後彼が居なくなるまで変わらなかった。
「レポートの提出は三日後まで。」
基礎実習は時間はあってなきがごとし。実験をしながら空いた時間に食事に行くのもいつものことだし、バイトの後に又帰ってきては観察を続ける様な連中も普通にいる。一旦筋トレに向かう体育会系の猛者もいる。寒い季節だが、真夜中にでも男女関係なく出入りして、実習を続けている。
ロビンは大半の実験をそつなくこなす方だったが最後の課題だけはどうも試薬の反応が思うようにいかずデータが予測値に達しない。
そのおかげで居残る羽目になれば教授自身や講師の先生とも親しくなったりもする。
「あんただったのか、噂の元臨床心理士経由の美人ってのは。その若さでなぁ」
この国でこの資格を取るには結構臨床経験や学歴が必要だ。それを海外でとっていただけなのだが。
だが顕微鏡を前にして講師のルゥが実験以外のことを話したのはそれだけだった。噂に乗じて学校側は生徒のデータをどこまで流しているのかと言うことは考えないようにした。
その日、実験室の前の半分屋外の廊下でタバコを咥えながら赤い髪がは雪に映える中、雪にまみれて彼は手を挙げた。
「よ。終わった?」
無視して歩き始めたら何事もなかったかのように側についてくる。
「待ち伏せ?ずいぶん小児科医って暇なのね?」
「あ、つれねーの。これでも二日ぶりに病院をでれたんだぜ?生理学には後輩がいんだよ。ほら、あのでっかい奴」
巨体のラッキー・ルゥは病理学のなかでも熱心なほうだ。学生の指導も積極的に見えないのにさりげなく一番わかりやすくツボを教えてくれる。
「道理であの人私のことを知ってたのね?」
「いやーー美人は得なだけ」
「今日は早く終わる日ってだって事も?彼に聞いたの?」
「こっちの仕事も一段落だしな。オレも得した」
まじめに言うからつい吹き出した。
そのまま私は手を伸ばして彼の帽子の上の雪をはらい落とした。
「シャンクス。鼻の頭まで髪と同じ色よ」
「寒いし腹減ったな。旨いモンでも喰いに行こう。」
ふと彼の手の中の本が気になった。
「ん?読んでみるか?十年前の本だけどな。」
懐から出された手に一冊の赤い本。著者名に薄くなった金字で「ゴール・D・ロジャー」の名が見えた。表紙に見惚れた途端もう一方の手が私の手に繋がれて一緒に、大きなシャンクスのポケットに突っ込まれてる
「手、離してくれないかしら?」
「ダメ。本のレンタル料。このまま暖めて」
「その前にお腹が空いたわ。飢え死にしそう」
「俺を喰って良いから」
「固そうよ」
「大事な所は硬いけど?」
幾度か身体を重ねていると、徐々に身体は開き、心も開くようになる。
枕元にデリカで仕入れたピザやサンドウィッチがバラバラに並んでその合間の空き缶にさっきの吸い殻が捨てられた。
もう一本、付けた細いタバコの先に細い灯がともっている。タバコは普段は口にしないが疲れたときなどふとしたときに欲しくなる。
「いや?大学から前歴なんて伝わってねぇよ。話したくなったら聞くけど?」
先ほどまでの飢えた瞳は二つの欲を満たしていたずらっ子な瞳に戻った。
「馬鹿な医者を相手にするのが嫌になったのよ。リセで向こうの資格も持っていたし、こっちに来てしっかりした先生も一握り居たけどろくに物も知らない研修医の連中の偉そうな態度に頭が来たし、だったら自分が医師になっちゃえばいいんだ、と思ったの」
「ひゅ〜ロビンちゃんらしいねぇ」
普通そんな偉そうな事、とか思うものだ。再受験の準備中周囲の視線はどこか冷淡だったし、そのころ付き合ってみた研修医には言外に思い切り馬鹿にされたものだ。だがこの男にはそれは感じない。
「今後はやらねぇの?元仕事。」
「先は見えないわ。一夜だけのつきあいみたいな患者はもう沢山。もっとちゃんとつきあえる方が・・。」
壁に置いたファイルはかなり厚い。自分なりの患者のサマリーだ。
だがその名前達は滅多に再会できない。他の医院でトラブルを起こしたという噂を耳にするばかり。
「あんたは聞かねぇな、この傷の事。」
綺麗な肌に大きなメスと縫合の後。彼を解きほぐす糸口?でもそれには興味がなかった。
「・・傷は誰にでも、何処にでもあるもの。それとも聞いて欲しいのかしら?」
口の端に浮かんだ笑みがもう一度の誘いの合図だった。
「これは・・・?」
休日のとある日のことだった。コピーの山にノートパソコン。ロビンが授業のノートを見直している間に鼻歌を歌いながらシャンクスはまるで自室にいるように仕事を広げた。
「仕事?」
「そ」
「職場でやれば?」
「冷たいなぁ。少しでも一緒にいようってキモチだと思ってくれない?」
答え代わりに冷蔵庫から冷やしておいたアイスコーヒーを注いだ。
見るとカルテのコピーだ。名前はすでに黒塗りされて勝手なナンバーが振ってある。
その頃はあまり煩くもなかったがプライバシー保全対策を最初からきちんとやってある。
興味と言うよりは会話の流れから聞いてみた。
「どんな症例?」
「ん?ああ、今そろそろいいとこまできた小児腫瘍だよ。じゃぁ学生さんに試問。小児腫瘍。良性悪性混合で。プロの前で言えるだけ言ってみ?」
「白血病、リンパ腫、Wilmus腫瘍に網膜芽神経腫。それから・・」
「代表格は出たか。本当はもっとあるぞ。小児の癌は大人並みに複雑だ。そんでこれは小児横紋筋肉腫Rhabdomyosarcoma。胎児型のclinical stage2・・とまで言ったら判るか?」
当時の私は首を横に振った。小児の癌患者のカウンセリングに高校生の頃向こうで立ち会ったことならある。難治例で、そして彼女は数ヶ月後に他界したことを聞いた。
けど病気自身について詳しい話は専門外だし無理。まだ臨床に参加していないし。
「そうだな、腫瘍の中じゃまだ質は良い方で進行もマシな方ではある、ってぐらいかな。
最近の小児腫瘍の治癒率は格段上がってるんだぜ。十年前じゃ致命的だった。けどこいつには手術もやったし抗癌剤も年を越えて投与した。放射線も使った。将来的には残せる物は残す、そのさじ加減が腕の見せ所ってね。
こいつは・・発見された初期がほとんどやばい所まで行きかけててね。
けど頑張ったよ。俺もこいつも。何とかうまくいったって例だからみんなに報告しとくの」
嬉しそうにデータの後追いを続けている。
こんな嬉しそうな彼の顔は見たことがなかった。
「小児の癌はなぁ。本当は多職種のチームで診れたら良いんだが絶対数が少ないからなかなかチームにまでは育たねぇんだよな」
「珍しいわね。そんなあたりまで口にするなんて・・・よほど思い入れが深いのかしら?この患者さんに」
その一言を受けてシャンクスはゆっくりとロビンを見た。
ゆっくりと、光が優しくけぶる瞳。優しい、優しい瞳。
満足そうに浮かんだ口元の少し伸びた髭にまで優しさが満ちあふれていた。
「こいつにはねぇ特に思い入れがあんだよ。面白い小僧でね。もの凄い暴れん坊で、そのくせ甘ったれだった。本来治療するときに個人的感情なんて無いけど、あいつには未来を絶対に見せてやりたかったんだ。未来の夢を。生きる夢を」
くすくす笑いながら古い入院カルテのコピーをぱらぱらめくる。十数冊にわたるそのカルテ記録は彼の闘病生活が何度も繰り返された証拠。
その間シャンクスも共に戦った証拠。若い頃のシャンクスの筆跡が見える。まじめに書かれた初期から殴り書いたような時期もあった。
彼らしくない珍しい鼻唄はさながら少年がそこにいるかのようだ。
「子供の時から追いかけた夢に向かって生きる方法を、道を、生きることの全部を教えてやりたい。そう思ったのは医者になってあいつが初めてだったんだ」
小児癌の少年の見る夢。病の床で少年が見る夢はどんなだろう。
私の知っている彼らは泣いていた。そして耐えていた。
だが実際の世界の中で知る現実はあまりに夢からは遠い。思いは裏切られ続けて手元に残るのはいつ散逸するか判らない。
「夢・・ねぇ。大人になればなくすのに?」
「大人になっても夢は見れるさ。実現も出来る。それを知ってるからな。けど最近の子供は知らない。教える奴がいねぇから。 だからわざとでも大人が子供に夢見る世界があるって教えないといけねぇ、と気が付いた。」
「だから?」
「いじけたガキ相手にするにゃうってつけだろ?この企画。あんたも参加してくれねぇ?」
もう一つ、別のファイル綴りをシャンクスは手に取った。次年度用の手元のチラシはまだ下書き。一緒に挟まれていた古い資料は山積みだから歴史ある企画なのだろう。
添付する南国の島の写真は大判になって見事に光る。
子供達の満面の笑顔。
その外挟まれた写真ではまだおどおどした子供も映っている。
様々な顔。
「そういえばあんたのこの写真ももらっても良いか?」
「企画と関係ないのに?」
私の壁に貼られた何枚かの写真達。若い母もいる。出会ったばかりの父と写した私の堅い顔の写真もいる。そして赤ん坊の写真も一枚ある。そのうち彼が手に取ったのは母が他界する前の最後の夏の写真だ。自分は12歳だった。
「可愛い顔」
「だって遠い昔ですもの。もう忘れたわ」
次に数枚の写真の下に隠してあった一枚を拾い出した。
「この子は?」
「妹よ」
「今の写真だと似てねぇ気もするけど、ちっさいころは面影はあるね」
「今の写真?」
胸からひらひらさせた一枚。いつ撮ったのか最近の屋外の自分が笑っていた。二人で出かけたときのものだ。
「それは止めて」
「ダメー、美人だから自慢してやる」
「もう」
そのチラシに書かれたキャンプの対象年齢は9歳から13歳だった。
その頃の自分は何をしていただろうか。
あの国では父親と一緒にいない子供など珍しくもない。ただ母が自分を父がくれた宝物と呼ぶので寂しいと思ったこともなかった。仕事上のパートナーが恋の相手に変わるのに時間など要らなかったと聞いた。存在の不確かさから漠然と他界したのだろうと思っていた。その後も母には何人かの恋人がいた。お国柄恋人はいるのが当たり前だったが彼らは私の父ではなかった。
海外企業の秘書の母が急な病に倒れたのが9歳。両親を失い施設で過ごす自分にあの人が現れたのが15歳だった。
30歳過ぎくらいの男性が私の前に立って大粒の涙を浮かべている。
Orbia...
母の名が聞こえた。
Enchante.Vous vous appelez comment?
初めましてを名乗るその人に覚えはなくとも胸がドキドキした。本三昧の生活の中でどこか夢に見ていたシーンだった。
Je m'appelle Robin..Je suis la fille d'Orbia..Niko Orbia
知らないうちに母が父の国の言葉を教えてくれていたのでどちらの国でも言葉は困らなかった。
父の元で暮らそうという提案の中で一番惹かれたのは小さな妹の存在だった。
母が23父が15の時に留学しに来たこの国で出会ったというドラマティックな過去の物語よりも、ずっとずっと強く惹かれた。
その時にもらった水色の髪の天使の写真は縁がもう崩れてしまったが一番見やすい位置に貼ってある。
例え本人には会えなくとも。
その直後に起こった彼の離職は様々な憶測の付いた噂となって学内を飛び交った。目立つ男だけあってファンも多かったらしい。女性の集団に取り囲まれて聞かれた事もある。
「ロビン、あんた行き先聞いてない?」
「さぁ。知らないわ」
顔も見ずに答えたら、答えた相手が悪かった事とその答え方のせいか噂は尾ひれも背びれも付いて広がっていた。知っているのに隠して居るだのいや捨てられたんだとか。
本当に知らないのに。
ただ・・・・彼の姿が見えなくなって、春の季節なのに寂しい木枯らしが自分の足許を通り過ぎていく感覚が拭えなかった。ふと気が付くと目の端であの赤い髪を捜していた。提出用の資料の紙ばさみから出てきたこの企画の案内用紙。その文言(スタッフ募集中)。レポートの提出もなければテスト期間でもないこの夏休み。
暇つぶしくらいにはなるのかしら?
そして夏直前に、父から久しぶりに緊急の連絡が来た。