終章・月は巡る
「今日は点けろっていわないのね。」
くすくす笑いながら足下のランプに目をやり、揶揄を込めて男の頬に手を伸ばす。
「灯りなんて無くても…月明かりで充分見えるからな。」
ただ一つある窓から明かりが漏れている。男の手が見えるラインを優しくなぞっていく。
男の動きにあわせて静かに鳴るピアスが月明かりを受けて柔らかい光を放っている。
二人黙って首を巡らせた。
「ああ…月が満ちてきたのね。」
「結構でかいな。もう満月なのか?」
「十三夜って言うんだって。満月に近い癖に満月に永遠に一歩近づけない位置にいる哀しい月よ。」
女はにっこり微笑んだ。男にはわからない笑みだった。
そして船に平穏が戻った。
「飲むか?」
夕食後も舳先で一人でいつものように前を見つめるルフィにゾロが声を掛けた。
手にはおそらくこの船で一、二を争う一級品のバーボンが握られていた。
「ナミんとこから取ってきた。」
「いいのか?怒られるぞ。」
「ん?・・ああ。」
事も無げに言って、軽く捻って栓を開ける。柔らかく燻したような香りが船上に広がった。
もう日は暮れて、甲板には二人の影しか見えない。
「こっち来いよ。落ちるだろ。」
そのまま船首からくるりと身を捻り、ルフィはゾロの側に座り込んだ。
ゾロは珍しくグラスを二つ大きな手から出して、そのまま琥珀色の液体を注いだ。
「乾杯・・すんのか?」
「何に?」
聞き返したゾロから視線を外し、ルフィは暫し考え瞳は宙をさまよった。
「女に。」
遠い未来を見つめる黒い目で船の行く手を見据える。、
「そうか。」
ゾロはニヤリと微笑んでグラスを少し掲げた。
「女に。」
飲めないはずのルフィは珍しくゾロのペースについて一緒にグラスを空けている。
そんなルフィを黙って見ながらゾロは次々とグラスを注いでやっていた。
波の音が船に当たって小さく壊れている。
二人、ずっと黙ったままだった。
夜の暗さも二人の妨げにならない。ルフィは急に煽るように飲んだかと思えば、じっと手の中のグラスを見つめている。黙々とゾロはそのまま変わらず静かに飲んでいる。
視線をかわすこともなくただそこにいる。
何も求めず何も望まず。この二人にはそれが当たり前のことだった。
かなり酒が進んでからルフィが独り言のように呟いた。
「ビビは、自分が選んだって言うんだ。んなこと言われたらもう俺なにも言えない。
…俺と寝たら船を降りるって、誰も止められねぇってはっきりわかった。
あんなにわかりやすいあいつは初めてだった。
きっとあれで無理矢理やったらきっと・・ビビをわかんなくなってそれで無くしちまうって思った………。」
そのままあおるようにグラスを空け、次を要求する。
「抱けないより居なくなる方が嫌だったんだ。」
こぽこぽと綺麗な音を立てて、瓶からグラスにそそがれる液体の色は闇に近く、香りだけが立ってくる。注ぎながらゾロはようやく自分の言葉がまとまった。
「あいつ…中身はばりばりの男だもんな。」
「ぶっっ…なんだそれ??」
口にした新しい酒が吹きこぼれる。反対の手で口を拭いゾロをじっと見る。
「触っても女だったぞ。」
「んな意味じゃねぇよ。なんつーか…砂漠のお前との殴り合いを見て思ったんだが、育ちがどうこうって言うより中身は闘争本能全開な奴じゃねぇか。あんな華奢なナリしてるから騙されそうになるけど、思った通りに人を従えるし、人の言うことなんて聞かねぇし、男だって考えたらある意味ナミなんぞよりよっぽど解りやすいぜ。」
「…」
言いにくそうにゾロは話を繋ぐ。
「例えば・・だぞ。俺やサンジと寝たからって中身が解るわけじゃねえだろ。」
「…げっっっやだ。」
「だから例えだって言ってる!俺だってごめんだ。んな事になったら斬るぞ。」
一応真面目な例えのつもりだったらしく、言ったゾロの額にも言われたルフィの額にも青筋が浮かんでいた。
しばらく見合ってから怒りの矛先を変えて、ゾロは手の中のグラスを呷り空にして手酌で一杯に酒を注ぐ。
「あいつとお前だと男同士みたいなもんだ。どっちも折れねぇからきっと大騒ぎだったろうよ。」
ルフィもグラスを呷った。空になったグラスを眺める。
「男…かあ。でも本当に男だったらあいつこの船に乗ってねぇな。」
「だろうな、自分の船団引き連れて俺達のライバルになっちまうだろ。仲間で納まるたまにゃ見えねぇ。」
「そのくせ…狡いよな。泣かれたらなんにもできねぇじゃんか…俺の前でだけ泣けるなんて言われたら……」
膝の間にルフィの頭が沈んでいく。完全に酒量をオーバーして居ることに気がつく。状態が状態だからいつもよりまともに見えていたが、限界はとうに超えているはずだ。仕方ねぇな。酔ったコイツは運ぶときに伸びやすいから面倒なのだが、仕方ない。
仲間内で女のことで揉めるのは良くないと当初ナミが言っていたことが思い出される。
だからって抑えられるもんでもないだろう。やりたいようにやって、それから考えるしかない。俺やルフィが無闇に考えたって所詮良い結果が出るわけがないのだ。
「もう寝たか?」
一人で残っていた酒を開けてしまい、空になった瓶を転がす。関節もゴム製なのかかなり変な形で前に崩れたルフィに声を掛け確認してから部屋に運ぼうとした。
するといきなり轟沈したはずの頭が振り上がった。
「ゾロはどうやってナミを口説いたんだ?」
「なんだ!」
いきなりむくっと頭を上げ、酔って座った目をしている。
酔っぱらいの末期症状と知ってはいても急な変化に吃驚する。
「おい、きちんと教えろ!俺はナミだって好きだったんだぞ。」
「…あ…」
二の句が継げないゾロにルフィがぐっと詰め寄った。
「お前、酔ってるだろ。」
「おしえろよーー。」
呂律は回っていないが、黒い瞳は真剣なのか酔っているのかしっかり見ても解らない。
暫し睨み合いの後根負けしたゾロが口を開いた。
おそらく普段より多くは語らないこの男の事、言葉を選んでいた時間も含まれるほど睨み合ってもルフィは退かなかった。
「いまだにさっぱりわかんねぇんだよ。」
開いていない瓶を手の中に玩び転がしながら答える。
「お前にはあいつは仲間に見えたのかもしれねえがな。オレには女にしか見えなかった。
いつ裏切るか解らず、思い通りになんぞならなくて腹も立つのにどうしても無視できねえ。
そんなモンにとっ捕まった自分に嫌気がさして反吐が出た。
なのになぜだかあいつをそのまま放っておけねぇ。目が離せねぇ・・。
お前には甘い顔する癖に人のことはてんで使いまわしやがる様な女で、それに腹がたつのに、気が付きゃ身動きがとれねぇ。
・・・んでどうしようもなくなった。」
「ナミは俺に怒ってばかりだぞ。」
「嘘つけ。あいつはお前に甘すぎる。」
「ゾロだってだろ?で、どうやって口説いたんだ?」
確信犯な微笑み。人の懐に入ってしっかり居座るその微笑み。
「……口説いちゃいねぇ。」
「…?じゃあどうやったんだ?」
「さあな。ナミの方もその気だったんじゃねぇか?押し倒してそのままだ。あいつの反応なんざ待てなかった。」
「あ…ひでぇ。」
「あんときゃあいつがわかんねぇのに無視もできないまま自分がおかしくなってた。
終いに頭に血が登っちまったんじゃねぇか?
自分のモンに出来ないくらいなら消えちまうほうがましだと思った。
だいたい消えるって言ってもどっちがどうとか思ってた訳じゃねぇんだが。」
このあたり今のルフィと反対だな、とゾロは言葉を選びながら思った。
俺にはナミはわからねぇ。いまだにそうだ。あの時ほどの焦燥感はないとしても。例えば目の前で両手両足を縛られて海に沈めば、どんなに自分が危なくても俺を見捨てられない女だと解っていても。それでもあいつが何を感じ、考えているなんざ皆目見当が付かず怒らせてばかりいる。
抱いているときくらいしかわからねぇ。腕の中のあいつの身体は正直だから。だからつい手を伸ばす。ただヤリてぇだけのつもりはないんだが、ナミはそう思っていないだろう。
「だいたい俺に口説き方を聞く方が間違ってる。お前の方が上手いじゃねえか。この船の連中口説いたのみんなお前だぞ。」
「でもビビはサンジを選んだからなあ…。」
残っていたグラスの手元が怪しくなってきている。やはり限界はとうに超しているらしい。
「あんなに俺のことも好きなくせに、俺と寝たら駄目になるんだと。でもビビの言うのもわかる。」
「ああ。」
「でもちびっとだけ・・ビビがサンジを選んで守るって言ったこと嬉しかった。」
「…んなもんか?」
「ああ・・同じだなって…。すっげ嬉しかった。」
コイツはこんな奴だと思う反面、俺にはできない思考回路だ。
ガキのまんま大人になるとこうなるのか?
それともルフィだからなのだろうか。
そのまま動かなくなった。
今度こそ本当につぶれたらしく、ぴくりとも動かない。
肩から力が抜けた。
もう一本持ってきた瓶の封も切る。
もう少し誰にも邪魔されず、寝たコイツを見ながら一人で飲んでみたかった。
しばらくしてチョッパーが顔を出した。
「運ぶの手伝ってやるよ。」
「おう。すまねぇ。」
きちんとした性格のコイツは側の瓶なんかを片付けながら話しかけてくる。
「なあ人間の雌の取り合いって難しいんだな。」
「馴鹿も一緒だろ?」
「でも馴鹿は力の強い奴が全部捕っていくぞ。」
「ふん。まあヤルだけなら穴さえ空いてりゃかまわねぇがな。俺達は…まあ俺達なりにおまけが大事になっちまう。
もっとも女の方はもっとシビアに見てるらしいが、その基準がてんでわかんねぇ。俺には馴鹿よりも異世界人に見えるぞ。」
「やっぱり人間は難しいな。」
「我が儘なだけだ。それに良い仲間を見つける方が女とヤルよりもっと難しい。」
指さされたチョッパーは自分のことを指していることに気付き嬉しそうに顔をほころばせた。
「そうなのか?エッエッエッ…オレ、ルフィが好きだぞ。」
「皆そうだろ。ただコイツはてめぇ自身の人を巻き込む力が強すぎて、仲間と恋愛の区別が付かないだけだ・・と思う。」
手伝って貰って背中に負い、部屋へ向かい歩き始める。
「お前もこいつが好きなんだな。」
「…仲間だからな。」
背の高いゾロの表情は小さい人型のチョッパーには見えないが、コイツの表現で言うところの「照れている」なんだと解ったチョッパーはもっと嬉しくなった。
「そういえばお前はどうやってナミを口説いたんだ?」
思わず躓きそうになったゾロはチビ馴鹿を見下ろした。
(ここにもガキが居たのか…)
くらくら来そうなショックを受けても子供の目で見つめられると、怒るわけにもいくまい。
「また今度な」
「…約束だぞ。」
「んあ?」
増した迫力にビビリながらもチョッパーは踏ん張ってこらえている。
「だってこう言ったらゾロは絶対大丈夫ってナミが言ってたんだぞ。」
(あの女いらん事を…)
「約束はしねぇ。」
「ちぇっ。まあイイや。オレは今気分がいいから。」
どこかで聞いたセリフのような気がした。
・・しかし何処で誰が言ったのか…思い出せなかった。
(気分がいいから…か、それで片付きゃ世話ねえが・・案外そんなもんかもな・・コイツの場合。)
水平線から出たばかりではあんなに大きかった真円の月も今は天空に座を移し、深青の光は柔らかく大地に海上に甲板にそそいでいる。新月時に臨んだ夜空の星はくっきり冴え渡って一段と明るく見えた。その分手元は暗く、触れていなければナミを確認することもできず、香りと触感だけで触れていた。今日の明るさは甲板にはっきり影を作り、慣れた目には飲んでいたルフィの顔もはっきり見て取れた。『姿を変える月』もここまで変えられては男にはお手上げだ。
背中のルフィはいびきをかいて、勝手な夢を見ているのだろう。
(月…か…)
「両方揃ったこの船はえらい賑やかだな。」
「なんか言ったか?」
「いや…。今夜は満月だな。」
「ん?…そうだな。綺麗だな。」
男と動物の影は足下にくっきりと描かれていた。
The end