月の女神の微笑み






「サンジはもう大丈夫だ。」
チョッパーが出てきて皆に告げた。
固まった緊張がほぐれて皆の時間が流れ始める。

それぞれが持ち場に戻り活動が再開する中で、ルフィさんがじっと私を見ていた。私も黙って見ていた。
「お前、やっぱり泣かないんだな。」
彼は一言を残していつもの指定席に戻っていく。
どうして泣かないんだろう。
どうして泣けないんだろう。


泣けない理由…それは解っている。


有能な船医の診断と治療と生来の体力の甲斐有ってサンジは顔色も好転し、呼吸も鎮静した。後は自然に回復を待てばいいと言う医師の診断に皆普段通り就寝を迎えた。
側につきたがるビビをオレが付いているから、とチョッパーが押しとどめた。



ナミさんは眠ってしまったらしくリズミカルな寝息が聞こえる。
窓から月明かりが差し込んでいる部屋でその音ばかりが大きく聞こえている。

寝付けない。
また寝付けなくなるとアレが出てくる。
床から、壁から、物言わぬ影のようなモノ達が揺らめき、私を見つめる。
あなた達のことは解っている。どんな言い訳も通らない。でも仕方なかった。
ただ一生背負って行くから。黙っても忘れていても必ず背負って行くから。
だから来ないで。昔を呼び戻さないで。
私が再び壊れる前に此処から立ち去って。

罪を背負った私。
守るべきモノを守れなかった私。
滅びの姫。
亡国の王女。
BWの連中の命も奪い、それでも守れなかった王国。
それを探し求める影達。
ナミさんには「自分の心が作っている妄想でしかないわ。まだ捕らわれているの?」
そう諭されたけれどもずっと付いてくる影がある。

己を見つめることは結局ここに辿り着く。だから自己を封印した。
もう戻らないモノに捕らわれた自分など見たくない。

アラバスタから出たときに私は何も残っていなかった。涙も全てあそこに置いてきた。
守るべき国を亡くした王女など芥子ほどの価値もない。全く空っぽで一人ではそのまま黄泉路を戻ってこられなかった。

新しい私を作る。
新しい世界で、新しい自分を形作れば、嘘でもいつしかそちらの私が本物になっていく。次の新しい守るべきモノを見つけて今度はそれを守ればいいのだ。
その為に必要だった、私が守る者。私の騙し絵だけを見てくれる者。
私の真実など気が付かない人。本当の私に気が付く人はいらない。
見つけられる傷が深すぎて、二度と立ち上がれなくなってしまう。
私は決して私を許すことが出来ないから。

    そうしてあの時サンジさんを選んだ。




部屋の窓から見えるのは月と波。止まった船にぶつかって月明かりが描く波の線が美しい。
軽く頭痛がしていて、すっきりしたくて外に出てみた。

風はやや肌に生暖かく、湿度を含んで絡んでくる。
月はやや笠をかぶって歪んでいる。この方が少し優しい表情に見える。
責められなくてほっとする。


「ビビ。」
掛けられた声に起爆されたように体中が興奮の信号を送ってくる。
寒気に似た戦慄。顔中に血が登ったような熱気。心臓の動悸。体中で乱調を刻んでいる。
歓喜といたたまれ無さと恐怖の集合。

・・・・。
恐怖?何故?仲間なのに。

幼い頃から言われ続けたことがある。お父様の口癖だった。
「恐怖はそのものの認識を歪ませてしまうことがある。常に相手が何者かをきちんと見て、その本質を掴まねばいけない。」
本質を見抜くこと。理解できなくても解ること。帝王学の授業よりも外で得られたそちらの習熟が楽しかった。

黙っていると背中から羽交い締めにされたように抱きしめられその瞬間緊張が走る。でもそれはすぐに緩んだ。
「今はこれ以上なにもしねぇから。」
「うん。」
本気だと解ったから素直に答えた。
一見小柄だが、結構厚い胸板は常時は柔らかく、優しい。触れ合う腕はどちらも素肌で、触れている場所だけがはじけた感覚と温かい安らぎが同居している。後ろから髪に埋められた頬の動きにも敏感になる。やや高めの体温とルフィさんの匂いが私の身体を浸食するようだ。前に感じた腕の痕はもう見えなくなってしまった。疼きは消えない染みのようにそこに残っているけれど。

何と心地よいのか。
全てを忘我の域に連れ去ってしまいそうな甘美な予感がする。
麻薬のように全てを快感の中に溶かしてしまう。
このままルフィさんの腕の中にいて、全てを委ねて己で立つことすら忘れてしまったら。
きっと全身で従ってしまう。この人と共にいることこそが喜びとなるだろう。
全て忘れて彼のものとして……。


彼に従って??
触れ合う素肌が粟だった。

そして私をむさぼり尽くして己の物としながらまた次の冒険を見つけて振り返らず飛んでいってしまうルフィさんが見えた。決して私のことも他のクルー同様手放さず、全てを握りながら後ろなど見ずに次の世界を貪欲に求め続ける永遠の少年が。
彼は全ての物を巻き込みながら自分一人その混沌に汚れることなく、高みに向かって飛んでいく。
他のクルーのように夢見る未来ではなく断ち切りきらない過去だけを持つ私には共に飛ぶことも、置いて行かれた自分を見ることも耐えられない。

ルフィさんの香りを感じながら同時にサンジさんに抱かれた時を思いだした。

(この人は私のモノだ。)
あの夜身体は始めて抱かれていながら心が感じていた支配欲。
あの時の喜びは自分のモノを手に入れた子供の喜びに近い。

私とルフィさんは同種の物だ。
己が人の物になることはなく、人を支配する側の人間。だから彼のことは 解る。
理解できる。  でも己の頭が垂れない。譲れない。

腕は温かかった。こんなに気持ちがいいのに。どれだけ彼が私を欲してくれているのかビリビリとわかるのに。

今まで感じた恐れはこのことだったのだ。真実を見抜けと鍛えられた力が哀しかった。
こんなもの無ければただの馬鹿な女としてルフィさんの側にいられたのに。
彼に頼り、彼の側で、彼の決定を受け入れる。
それが例え沈みゆく船だったとしても気付かずに乗れたのに。
そのままの彼を受け入れることは他のどの女よりもできたと思う。
彼は“解る”から。彼が私を“解る”ように。

でも……それは緩慢な私の心の死を意味してしまう。
私が私で有る事が出来なくなる。

わからない幸せなんて今まで知らなかった。
どんなことでも絶対に知っている方がいいと思っていた。そんなの子供の絵空事だ。
知ると言うことがこんなに辛いことだったなんて。こんなことと引換にしなくてはならないことだなんて。


涙が溢れた。
彼の腕にしみたはずの涙にもルフィはなにも言わなかった。





あの闇夜から幾夜、夜を経たのだろう。月が明るさを増している。月光浴はアラバスタの古い習慣だった。月光の下、紗(うすもの)一つで舞う神事から来た巫女のもの。風俗に影響が出ると言って神殿の管理下のみ行われてきた祭事。
しかし、過去とは決別した。もう月には頼らないだろう。故郷を忘れ例え根無し草になったとしても。
自分の道は自分で決める。その喜びも恐怖も後悔も全て私のモノとなる。


向かう道は決めた。

もし・・ならば船を降りよう。もし・・ならば。

動けなくなってしまう前に。
私が私であるために選ぶ事。
私は選んだ。後は流れに任せてもいい。そう自分で決めた。
どちらになっても悔いはない。精一杯生きて、選んだのだから。





「ルフィさん。良い?」
二人きりで話をするために倉庫に使っている船底に来て貰った。真っ直ぐ彼の前に立つ。今の私には彼は怖くない。もう、恐れるものではないから。
「ルフィさん?」
「決めたのか?」
「ええ。私はサンジさんを守るわ。そんな私でも…抱きたいの?」
「よくわかんねぇ。だから抱いてみてぇって思ってる。」
ルフィの右手が頬に添えられる。ぴたと吸い付くような触感の肌はゴムである全身がそうなのだろう。
ルフィの唇が寄せられる。

今始めて目をつぶる。
今まで戦ってきた。見えない自分を掴みたくて決して目は閉じなかった。
軽く触れたキスの後そのまま首筋を降り、露わにした肩に降りてくる。なぞられている痕は、最初に捕まれたときの腕と違いあくまで優しく、柔らかい。最初に迫られた時の自分が感じたものと異なる感覚だ。

肩から更に下に向かう途中でルフィはそのまま動かなくなった。


「お前…船を降りる気か?」
露わになった両肩をしっかり抱え、ルフィは耳元でいつもよりも低い声で聞いてきた。
「俺に抱かれたら。」


賭だった。

ルフィさんにも抱かれたらそのまま船を降り、どこかで一人で皆を想いながら暮らしていこう。彼の女になって側にいることはどうしても出来ない。それでもきっと充分満たされる。
サンジさんは目の前からいなくなった私にかなり泣いてそして私を一番の女性として胸にしまい込んで、そして他の女性と生きていけるだろう。ルフィに堕ちていく私を見せるよりはずっと彼を守ってあげられる。

ルフィが諦めてくれたなら今度は私がサンジさんを口説きに行く。あの弱腰を口説いてモノにするのはとっても大変だろうけど。


ルフィに抱かれたとしたら、そのまま一緒にいることを選ぶことはきっと出来なくなる。
今はよくてもきっと我慢できなくなる。それだけはわかってしまったから。

「抱かれたくらいじゃ女はものに出来ないって貴方が言ってたわね。
多分その通りだと思う。
でも…女が男を抱くときには決めることがあると思うの。
その男を自分のモノとして選ぶかどうかよ。
世の女性の意見なんか知らないけど、少なくとも私はそう。」
「お前はサンジを選んで寝たんだな。そして俺を…お前は選ばない。」
「……選べないのよ。どうしても。」

身体が離れ、二人の間に空間が出来る。見交わす目と目の間には互いが映っている。

「この船に乗った私が選んだのは、アラバスタの代わりにサンジさんを見守っていくことだった。やっとそれを思い出せたの。
私に必要なのは自分が守る者で、私を支配してしまうものとは一緒に行けない。
でも…貴方の気持ちもまるで自分の事みたいに解ったから、叶えてあげたかった。」
「俺と寝たらこの船を降りる気だったんだな?」
「何も言ってないのに・・・わかるのね?やっぱり。」
浮かんだ笑顔が切なく、優しくなってしまう。自分をここまで解ってくれる人間にこれから巡り会うことが出来るんだろうか。自分の得た結論を後悔しない日が来るのだろうか?
「お前が選ぶときはいつでもぎりぎりだ。
そして必ず自分を一番犠牲にする。
そんなこともわかんなくてお前に惚れたって言うと思ったか?」


「ごめんなさい。貴方を見くびっていたかもしれない。…本当にごめんなさい。」
「でも……そう決めたんだな。」
小さい隙間からの月明かりが船倉にはっきりした光を描く。その光がはねてルフィさんの顔の陰影をくっきり写した。そこに映る逡巡と未来を写す瞳。
私が気付かないうちに月は肥えてもう満月に近い。


「サンジさんはあなたが太陽で、私が月だって言ってた。…本当にそうね。月は太陽の仲間で、太陽がないと光ることすら出来ない。太陽に惹かれる星の一つで・・。
でも、月が見ているのはこの星なの。この星を見守って育てているのよ。

子供の頃・・昔語りの一つとしてイガラムが教えてくれたわ。月がなければ生き物すらこの星に誕生しなかった。だから私達は月を大切に思うんだって。
そうやって他者を育む…私は一人で立って見守るものでありたい。」

「そんな風に見られてんのってちょびっと怖そうだな。」
「女の方にも支配欲があったって事よ。だって私元王女ですもの。」

王女という響きに今これほど誇りを感じる事が出来たのは驚きだった。
国を滅ぼした王女に付いてくる物は簡単じゃないけれど。義務ではなく、今自分の中にある確かな誇りと自信。辛い経験もあったけど、それら全てを背負って誇ることができる自分が今此処にいる。それが嬉しい。
私は王になるべく育った。見守る者として育った。それは変わることがない。
それを気付かせてくれたのはこの人だ。

「私ルフィさんに会えて本当に良かった。」
にっこり微笑んだ笑顔は本当に眩しかった。月をなぞらえる彼女は自分で輝き始めたのだ。
「サンジさんに会えなかったとしても、貴方には会いたかった。
貴方のおかげでようやく自分に誇りが持てる予感が産まれたの。
だから・・だからこそ、もし望んでくれるなら抱いて。それくらいしか返してあげられない。」


「…このままの関係なら…寝なかったら、俺の仲間を降りるのは無しにするんだな。」
真っ黒な瞳。その奥の広さに眩暈がしそうだ。

目を伏せてこくっと頷いた。

「じゃあ、いい。そんな覚悟に勝てる男なんていねぇ。女っていつもは弱い顔してる癖に本当は全然俺達より強いんだな。ナミも覚悟を決めると強かったけど・・それ以上にお前は強い。」
それぞれが握った拳に力がこもる。相手を受容した強さを示す二人の王の拳が。
全てを飲み込んで受け入れる強さを持って。

「知らなかったの?女は男を守る者なのよ。」
「サンジは完全に勘違いしてる。それにずっとお前に夢見て行くぞ。」
そう言っている笑顔は優しい。ルフィさんにはサンジさんのこともすっかり見渡せるのだ。
「そこが守ってあげたいあの人の弱さでしょう?
ねえ、生まれ変わりって知ってる?私…貴方のお母さんになって、貴方を産んでみたかったわ。こんなに解る貴方を産んで、一緒に笑って、怒って、そんな貴方を送り出してそうしたら一生、何処へ行っても絆は切れないのに。」
「それ惚れさせた男に言うのか?ちょっと酷いぞ。」
「ごめんなさい……でも生まれ変わったら今度は貴方に恋するわ。もう少し貴方を理解できなくなって、怒ったり、困ったりしながら…絶対に。
そしてナミさんと二人で貴方の取り合いをするの。サンジさんもMrブシドーも、ウソップさんもトニー君もカルーもやっぱりみんなここにいて………」
ビビの両目に涙が浮かんだ。慌てたルフィが肩にそっと頭を抱えるように抱き寄せる。ルフィは壊れ物を扱うような優しさで、そのゆっくりした動作にビビは逆らわなかった。

「俺の前でだけ泣くんだな。」
「…そうかも…しれないね。」
「でも…泣くな。」
「うん。…ごめんなさい。」
「謝るな。」
「…うん。」
「お前は笑ってろ。」
「そんなの無理よ…。」
「でも笑え。  それで終わりにするから。」

それを聞いて一呼吸置いて、一度だけビビはルフィの身体をぎゅっと抱きしめた。
両手で、力一杯。  どんな言葉も言い訳にすらならない。
女が男に抱く全ての想いを込めて、ビビはルフィを抱きしめた。


「笑え。」
上げた顔の目に浮かぶは真円の真珠。月の女神はここに降りていた。




次の日。
ルフィはにっこり笑って皆に言った。
「片が付いたぞ。」
それ以上は何も言わずにいつもの指定席でずっと前を見ていた。






continue




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