【  初 戀  】 9

暗闇の中。目が見えなくても座っている。触れる物の触感は判る。物以外にも。
それをふと感じたのは見えないことに少し慣れたときだった。
頬にそっと伝わる力。
ああ、暖かい。

ああそうだ。これは暖かい。

見えないまでもそちらの方を見上げるとその暖かさはゆるりと逃げていった。少しずつ動いて頬から消えてゆく。気がついた。

ああ。
陽の光なのか。

こんな冬のさなかでも太陽の光はこの島に届いて暖かい。
低くたれ込めた雲に閉ざされる太陽は、その隙間を縫ってこの島に恩恵をもたらしている。それは誰にでも平等で、目の見えない自分にも等しく届けられる贈り物なのだ。
光の合間に外の空気の澄んだ冷たさも気がついた。

「太陽も、空気の動きも感じるわ。」
自分の声が聞こえた。ああ、私にも判る。

そうだ。目が見えない今でも外の陽の光は判る。その日に煌めく雪の原。それを受けて歌う濃い緑の常緑樹。森の歌を受けるように空気の甘さが増してそして私達の心にも届いてる。そんな光景の全てが鮮やかに描き出せる。
私が私である限り、目が見えなくてもきっと耳が使えなくなっても私はこの感覚を何かで感じ取ることが出来るのだ。
新鮮な驚きでもあった。

その感動に震えている横から古い過去の記憶が浮かんでくる。
『見えないくらいでオレを不虞扱いするな!』
『お嬢様は、優しいお方ですね。けど動けない私にも出来ることは沢山あるのですよ。だから心配要りません。』
同じ声の、同じ人の声。なのに身を切られる言葉だった。
思い出すだけではっと胸が痛んだ。

自分は、患者に同情したつもりでしかなかったのではないだろうか?
傲慢にももっている者が持たざる者に同情しただけではないのだろうか?
同情は人を傷つけることもある。現状を受け入れる気持ちを阻害することもある。
理解が足りなかった?だから距離が出来てしまったのだろうか?


『アビー花は好きかい?この花はこの季節にこの島でしか咲かない。つまりここでしか見ることが出来ない。  冬島には冬島にしかできないことも起こらないこともある。春が遠いからって、一括りにしてこの島の生まれが不幸だなんておかしいよ?』

人には無限の可能性があると教えてくれたのは父だった。心が傷ついた患者に罵倒された父に慰めをかけたつもりの時にそう言われて驚いたことがある。
ああ。あんなに身近にいたつもりで、見えていないのは・・・・私だった。視力を失ってから見えることもおそらく沢山ある




「アビゲイル?どうだい?傷むかい?」
突然の声に心臓が跳ね上がるかと思った。物思いが深すぎてDrくれはのノックの音にも気がついていなかったらしい。
Dr.の声からも心配してくれる気持ちが伝わる。
先程の辛い言葉も皆私のための言葉。そして彼への気持ち。

「私は大丈夫です。暖かい部屋に置いていただいてますから。」
ここは暖かい。皆が自分に優しい。目に見えるよりもそれは良く判った。
「そうかい。」
ふとくれはの方から何かの香りがした。
「先生?それは丁字とリンゴですか?」
「匂うかい?あっちの部屋で窓にかけてあったんだが・・なんだお前良い鼻じゃないか。良い薬師になれるよ。」
「ええ?!本当ですか?」
「ああ。色々な物を覚えて・・今の主流は生薬なんだ。同じ薬でも効果の多い少ないもわかればその方が良いに決まってる。」
アビーの瞳から涙が静かに零れ始めた。

何処にでも希望はある。
何処にでも冬があって、何処にでも春が来る。

その顔に柔らかい外からの日差しが完全に消えた。
けれど大丈夫。内なるぬくもりは残ったままだ。
「また・・陽が陰ったようですね。・・・外は・・・大丈夫でしょうか?」
「信じるしかできないね。」
和らいでいたくれはの声が少し陰った。彼女の方がよほど忸怩たる物を抱えて聞こえる。自分は、自分はここで彼を待つのだ。闇の中では失われやすい信頼をただ掲げて。闇の中で得た微かで小さい希望を暖めながら。




****



オズワルドが意識を取り戻したのはドクターくれはの家だった。
オペ室の隅に横たえられて腕には点滴が繋がっている。その横に掛けられて輸液の空ボトルから自分が出血性のショックを起こしたのだと最初に気がついた。だが何故だ?記憶の方が後から追いついてくる。最初はぼんやりと動かなかった脳が直前の記憶を探った。チョッパーと・・そうだロシュ!はっと気づき身を起こした。少々ふらつくが体はなんとか問題はない。背中も縫われた後がある。だが手術はどうなった?彼女は無事なんだろうか・・?そして見逃してしまったのか?あの千載一遇のチャンスの手術を?

「起きたら準備を手伝いな!いつまでも寝てるんじゃないよ!」
ドクターくれはの怒鳴り声にほっとなった。どうやらチョッパーが俺をここまで運んでくれたらしい。
既に術野の脇に消毒された器具が並び始めている。俺たちの糸もある。そして・・
「ドクトリーヌ。消毒できたよ。」
ああ、彼の声だ。
開けっ放しのドアから手袋と術衣を着て彼が手伝っていた。自分が寝ている間に時間がかなり経過したのか?
そもそも毛深さも余人の追随を許さない分あったかいのだろうが、あの体調でよく自力で帰ってこられたものだ。その若さと強さが今はありがたい。
「大丈夫なのか?」
「ああ。オレは強いんだ。お前は?」
「そうか。俺も強いから。」
二人でにやっと微笑みあった。

「さてステレオでやかましい小僧共が、ぐずぐずしてんじゃないよっ。今から角膜の形成をするよ。氷漬けのアレをもっといで。」
ドクターくれはの声に慌てて手洗いを済ませて壁の術衣を取り出した。これを着ると気分が引き締まる。集中力も上がる。足りない血の分くらい賄える。
「まだ今はおまえはいい。だがこれをよくみときな。」
くれはの手はさりげなく、だが実に正確に魚眼を切り出し始めた。やや大きめに切り出してものを処理液につけておく。網膜自身の形成、そのメスの角度、切り出し方、力の入れ具合、深さ。全てを網膜に焼き付ける。

自分の中に血が足りないことも、ふらついて倒れそうになっていることもオズワルドは全てを忘れた。
それほどに眼前の光景は魅力的だ。何一つ見落とすわけに行かない。この正確な技は二度と見られないかもしれないのだから。
くれはも見せるためにその技術の全てを公開した。



***************

「先生。ありがとうございました。」
「・・気がつきましたか?」
術後の回復をあいつと交代で待った。呼吸と血圧と。全身の状態は良かったから心配はしていなかったつもりだがやはりしっかりした声を聞くとホッとする。
例えそれがオレが廊下にいたタイミングの時に聞こえた声でもだ。

あいつの診察の時には必ずドアが少し開けられていることは前から気がついていた。
交代で彼女を見る約束だったから彼女と話す事が出来るのはタイミングの問題でしかないのだけど、彼女が起きたときにつきあったのが自分でなくてちょっと残念だった。
だからそっと廊下でコッソリ覗きながら気配を殺してた。
「まだ包帯はとれませんけど、手術はうまくいきました。」
彼女がが起きたときに一番聞きたいことを伝える役も取られてしまった感じがする。仕方がないんだけど。
「本当にありがとう。結果はどうあれ受け入れます。」
彼女はもう一度重ねて礼を言った。そのまま次の言葉が出てこない。見えないはずの彼女の視線をあいつの上に感じる。包帯のかぶったままの美しい瞳であいつをじっと見ているような気がしてドキドキした。
「実は・・ちょっと盗み聞きしてしまったの。私のために・・また無理をしたんでしょう?」
オズワルドの背中がぴくっと動いたように思った。
彼女の声に少し憂いが乗っている。そしてそれでもあいつを見えない目で見つめてる。普通よりも見えていないはずの二人の視線が絡んで見える。

なんだろう、いつもと違うドキドキを感じてる。
なんだか落ち着かない。
危うく自分もと駆け寄りそうになってそれをこらえた。でも今は出て行っちゃいけない。耐えなきゃ!

二人はそのまま黙っていた。
長く。そう長く。沈黙を破ったのはオズワルドの方だった。
「・・・いいえ、そんなことはありません。」
「・・・又そんなことを・・。」
「手術はうまくいったのです。じきに良くなりますよ。」
あいつはすっと立ち上がった。立ち上がって、一瞬だけ止まった。
俺と同じくらいの高さから見下ろすように。
そして彼女の包帯越しの視線もそれを受け止めるようにその高さに向けられていた。
見えないはずなのに。


あいつが部屋を出るよりも先にオレの方が走り出した。
人間型じゃいられなくていつの間にかトナカイの姿になっていた。
家から外へ走り出す。雪の中を、猛吹雪の中でも構わない、駆け出さずにはいられなかった。
「うおーーーーー!!」
どうして自分が叫んでいるのかも判らない。
ずっと何処をグルグルと走ったのかは判らない。気がつくと家の中に、彼女の部屋の前のドアにいた。
閉まってる。つまり、あいつはいない。オレはそっとドアのノブを回した。
陽も翳っているが、彼女の部屋には灯りが要らないので、俺たちがつけないと真っ暗のままだ。それでもトナカイの俺には彼女の姿がはっきり見える。
「どうしたの?」
何故ここにいるんだろう?俺はいったい何を言おうとしてるんだろう?
判らないまま口が動き始める。
「オレ・・・・オレ・・・・貴方が好きだ。」
彼女が息をのむ音が聞こえてはっと我に返った。
いったいオレ・・何を言ったんだ!?!

そのままきびすを返して逃げ出すように部屋を後にした。














あれから二、三日たっていた。

その日、丁度街から帰ったら来たばかりのあいつが門を開けようとしていた。
「お帰りなさい、ドクターくれは。チョッパーもご苦労さん。」
オレが返事をしないでそっぽを向いていたらオズワルドは門を開けてから、黙って荷物を下ろすのを手伝った。まるでずっとここにいるような溶け込んだ姿が何故かいらいらした。
ドクトリーヌは返事もせずに出て行った。もちろんオレも返事をしない。
積んできた荷を運びながら少し驚いた顔をした。
「キュバの街からの荷ですか?この匂いはキナですか?」
キナの粉だって事はオレにも判ってた。こういう事は今までもたびたびあってどうして村長がくれるのかは知らなかったけど。というか今まで考えたことはなかった。
「しってるのかい?」
「わかります。これはもしかして・・。城に入るはずのものですか?それが貴方の手から国民に渡る?」
「お前はそれ以上は口を利くんじゃないよ。」
ぽかんとした顔はちょっとした見物だった。
「こういう仕組みだったんですね。知りませんでした。荷を運んだ船主もグルですか?道理で納入価がとても高いと思っていましたよ。」
「ぼやぼやしないで運び込みな。」
言いつけに逆らわないように慌てて奴はオレの橇に手をかけた。
「今日はやることはあるんだよ。」
その声の慌て方にチョッパーは変身するタイミングを得られず獣の形のままオズワルドとにを片付ける羽目になった。


「おい助手!診察室に来い。」
診察室に帰ってきたドクトリーヌは一人じゃなかった。
「今からアビゲイルのガーゼを外すよ。立ち会いな」

え?ドクトリーヌ?今から???
ってオレトナカイのまんまだよ?いきなり変身するわけにも行かないしどうしよう?ドクトリーヌだって判ってるはずなのに!
「・・・はい。」
焦ってるオレの横でオズワルドは更に深く顔を隠した。なんだか緊張しているみたいだ。結果が気になるのだろうか?

アビーは包帯のまま壁伝いにゆっくりと歩みを進める。後に結わえた髪の毛がさらさら言う音が聞こえるようだ。
あの告白以来、アビーはあまり話さなくなった。診察は決まった言葉だけ。「痛みますか?」「どこか悪いところはありませんか?」アビーはただ首を横に振るだけだった。
ちょっとドキドキする。オレ、人間型でなくて良かったかもしれない。
目が開いたアビーにどんな顔して良いのか分かんないし。
オレの言葉、どう思ったろう。嫌なのかな?




部屋を暗くして、小さなろうそくの灯りの中で包帯がドクトリーヌの手でするすると外されていく。
彼女が瞳を閉じたままの間にドクトリーヌの手が俺たちに下がれと指示したので二人とも黙って彼女の背後に立った。

「ゆっくり開けてごらん。」
瞼がゆっくりと開く。
「!みえ・・!」
わななくように手が震え始めた。彼女の呼吸が浅くなりかける。
「落ち着くんだ。深呼吸して。まず、あたしが見えるかい?」
「はい、先生。」
落ち着こうと深い息を吐きだして、彼女は一度閉じた瞳をそっと開けた。
「・・・見えます・・・見えるわ!・・ああ!先生のお顔が・・昔とちっともお変わりないですね」
「あたしゃまだぴちぴちの137歳だからね。さぁじっとして、診察するからね。」
アビーの背中越しにドキドキしてるのがわかる。ドクトリーヌは大きめのレンズを彼女の目にかざして眼底を覗き込んだ。目の中を細かく光を通してみてる。そして最後に言った。
「大丈夫だろう」
ああ良かった。さすがはドクトリーヌだ!
オレは飛び上がりたかった。彼女を抱え上げたい、でもいやがられてたらどうしよう?
声も掛けたいけど流石にトナカイのままだし、こっちの姿の方がアビーは見慣れてくれてるしな。


「ありがとうございます先生。で・・彼・・は?」

え?
オレ?

「お前の後ろだ。」

彼女はゆっくりと丸い椅子に座ったまま体を回した。
暗室といっても良い部屋の中でチョッパーには彼女がよく見える。長いまつげと小さなそばかす。
彼女の金色の髪がさらりと揺れた。バラ色の頬は一層明るみを増す。そして久しぶりに外界を覗いた潤んだ瞳。
瞳の色は明るくここからでも奥の瞳孔まではっきり見える様に澄んだ瞳だ。
ちょっとドキドキもじもじする。

「やっと会えたわ」

彼女の恋しく愛しいものを見つけたその瞳の視線は真っ直ぐ彼に向かっていた。

オレなど一顧だにせずただ真っ直ぐに。
浮かんだ笑みと共に

「オズワルド」





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