【  初 戀  】 8 



ドクトリーヌが出てきてアビーは入院になると告げた。出てくるまで何だか落ち着かずオレは廊下を何度もウロウロするハメになった。
俺たちには助手としての観察項目、世話が指示された。
ならばオレはドクトリーヌの助手として彼女とどんどん話をしよう。彼女のいろんな事が聞きたい。彼女と今度は差し向かいでしゃべれるんだ!トナカイだからって我慢しなくて良い。
助手としての場合は人型で接することと、あいつと交代制で接することが硬く言いつけられた。


「先生?」
彼女の声は細くて透き通ってて天上の声。
「先生?」
「え、、あ・・ドクターくれはならもうこの部屋にはいらっしゃいません。呼びますか?」
二人は今出て行った。ここに今、俺たち二人っきりだ。こんな事態だけど『達』という言葉がくすぐったい。その嬉しさを隠すように出来るだけきりっとした声で答えるようにする。ちょっとあいつの真似をした方が大人に聞こえるかもしれない。悔しいけど子供扱いされる方が嫌だ。人型のオレは大きいからキッと大丈夫のはずだけど。
チョッパーが答えると彼女はおかしそうにくすくす笑った。
「あら?私がお呼びしたのは貴方の事よ?だって、存じ上げないけど貴方も『先生』なのでしょう?」
一本だけ彼女の指がオレの方を指している。
ええ!?!?先生??オレのこと?
「よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
ふふふと包帯の下に見える口元が桃色でドキドキする。









彼女の足は回復が早かった。
言いつけにはきちんと従う患者だったし、松葉杖で出来る限りのことをしようとした。
目については不安だったのだろうが、何も聞かなかった。
いつも微笑んでベッドに座っていた。
交代で書いてくれるオズワルドのカルテを見ると丁寧に病状が記載されていた。彼女の訴え、観察。
ドクトリーヌも何も言わなかったところをみるとこれは気に入ったようだ。


そして、空いた時間にオズワルドは持ってきた鉱油から糸を作る技術をオレに教えてくれた。
最初は怖かった。
人といることに慣れなかった。
「違う!君!順序の確認を!そして量はきっちり量るんだ!力のいれ具合に細心の注意を!」
丁寧で、粘りの強い指導だった。要求は完全を。オズワルドはオレを差別も甘やかすこともせず、一人前として扱ってくれた。そのおかげでなのだろう彼といることはあまり苦痛がなくなってきた。

糸は予定以上の本数が仕上がった。オズワルドは嬉しそうにそれを並べていた。
「これでもどうかな?・・何かがあったら間に合わないのだから。」
丁寧に包み、滅菌器の中にそれをしまう彼の背中が大きい。大きな手に丁寧な扱い方。宝物のように扱う姿は気持ちよかった。ちょっと良い奴かもしれない。そう認めることは容易かった。
だが、それを認めると同時にアビーが彼に惹かれてしまったらという気持ちが浮かんできた。なんだろう?いつもと違うドキドキだ。



「その・・アビゲイル・・さんは何か言ってましたか?」奴に聞いてみたことがある。
「体調に関しては君の方がずっと一緒じゃないかと思うけど?私は目の検査データの方が気になるよ。」

そう!同じ助手だけどオレの方がずっと彼女と一緒だ。ご飯の好みも覚えた。甘いのは好き。辛いのはちょっと苦手。苦いのは平気。足音も聞き分けられる。たしかにオズワルドが行う様々な目の検査が珍しくてオレも気配を消して黙っている約束で見学させてもらっていた。
けれどその間二人とも検査のこと以外は互いが居ることを気取られないように終始無言だった。

そんなオズワルドは会う度にチョッパーに一言だけ必ず言った。
「君の名は?」
毎回チョッパーは首を横に振った。




******





「ロシュが手に入らないか北岸に行ってこようと思う。君が金槌なら私が行くから待っていてくれ。」
「なんだよ!お前が大きいからって!オレが何も出来ないと思うなよ!」
「いや、大きさや年ではない。糸を作る技術を君はすでに会得してしまった。その器用さは外科医としての財産だ。大事にするといい。」
こいつは真顔で答える。その瞳の真摯さにおびえを感じながらもその言葉がチョッパーの中に広がる。
「オレをほ・・褒めてもなんにも出ねぇぞ!」
「褒めた訳ではない、ただの事実だ。」
おだてようとする裏は感じない。だが優しいとも感じない。ただ冷静に言い放つとオズワルドは旅支度を抱えて外に出ていった。
こいつにばかりアビゲイルの事を任せてたまるか!オレが獲ってきたいくらいなんだ!
漁師町の連中は皆反対したらしい。オズワルドが聞き込んできたところによると若い者達からは見たこともないと断られて、ようやく長老格の引退した年寄りにのみ話を聞くことが出来た。ほっとしたオレに更にあいつは続けた。
「やはりこの数十年、幻の魚だそうだ。だから私自身が潜ってみようと思う。」
「無理だっ!人間の業じゃないよ!」
「そんなことはないさ。医師の修行の一環と思えば案外なんだって出来るよ?」
奴は静かな微笑みを浮かべた。大きくそびえるマウントロックのようにどっしりした静かな微笑みだった。
落ち着いたその笑みが、どうしてこんなに神経をざわつかせられるんだろう?悪い奴じゃないって判っているのに。なのにこの黒い気持ちを抑えられない。
「お前になんて行かせるか!アビーの目を治すのはオレだ!だいたい見えないくせに!」
オズワルドは少し翳った様な笑みを見せた。
「確かに私は見えない。だからこそ見えない人間の飢えが判る。こんな気持ちを他の人に味わわせたいとは決して思わない。アビゲイル・・さんの目を治したいという気持ちを私も君も持ってる。私達は二人ともが同じ思いだ、違うかい?」
なんでこいつはこんなに落ち着いてて、オレはこんなにイライラしなきゃいけないんだろう?なんにも判らなくなる。


結局漁師町ではなんの収穫も得られなかった。
素人が潜ることをさんざ止められて、止められて、止められて、悔しそうに奴はその町を後にした。




別れて俺は考えた。
倉庫の情報もひっくり返した。
昔の論文。国の記録。カルテ。
ドクトリーヌの書庫はこの国の国を支えるほどの量と質があった。

だがどこにも突破口はなかった。
オレが何日も書類と格闘している間、本業に戻ったあいつは顔を見せなかった。
ずっと。
諦めたのかと心の隅っこで少し腹が立った。



或る朝。連絡用の鳩便がドクトリーヌの元に届いた。
そう言う中味はオレはまだ見せて貰えない。だって半人前だから。


その連絡の紙が無造作にドクトリーヌの机に置いてあった。覗いちゃいけないって判ってた。
充分判ってた。
だってそれをやったらドクトリーヌの『お仕置き第三弾』が待ってる!

判っていたのに手に取ってしまったのは紙の一番裾に、あいつの名前が見えちゃったから。

『城の書類で調べました。ロシュの捕獲された最後の記録はエルベ河です。遡上する記録がなされた最大のそこにもしかすると時忘れのロシュが年を越えているかもしれないそうです。海ならば無理ですが、あの湖ならば案外深くはありません。なんとかなるかもしれません。ちょっと行ってこようと思います。オズワルド』

衝撃が走った。

ドクトリーヌの書庫こそが最上の情報を持つと俺は思ってた。
だけど城や国のことなら、あいつが調べられる城の情報の方が新しくて確かだ。
あいつが珍しくもこっちに顔を出さなかったのは、つまり自分が出来る最大のことをやってたって事なのか!?


その時、オレの中に沸きあがった気持ちをなんといえばいいのか?
ドキドキした。あいつを凄いと思えた。これは尊敬したと言うキモチだ。

けど反面。悔しかった。
オレが出来ないことをやってのけるあいつが羨ましかった。ねたましかった。
ヒトヒトの実を食べて以来の始めて沸きあがった気持ちだった。
これが人の心なのか?

そして羨ましくもあった。
オレが手に入れられないことを知ってるあいつが羨ましかった。
調べ尽くせるあいつがねたましかった。
これが多分、人になるということなんだ。

信じられないくらいの気持ちが次から次からオレの側を駆けていった。
俺の心に浮かんだキモチはとってもとっても複雑で複雑で・・・ああ。人ってのはどれだけ沢山の感情と付き合って生きていく生き物なのだろう。



だけど。
オレはあいつが気になってた。
そうだもの凄く、気になってた。
これだけは絶対のキモチだった。





********




「!おや!足が速いんだな!」
感嘆したように笑いながらオズワルドはオレを出迎えた。
まるで俺が来ることを予想していたかのように。

エルベの河は島の上方のエレ湖から流れ出てる。
エレ湖は標高が高すぎて村の人は夏にしか訪れない。ここの苔はバイ菌を押さえるから夏にはオレも取りに来る。冬になんて俺だって遠慮する奥地だ。人間が来る所じゃない。
なのにあいつは湖畔に立ってた。
人たちが夏に過ごすためのロッジ。雪に埋もれたそこの建物を支える湖に面した柱の脇で立っていやがった。

今のオレは人型で、あいつの知る姿だ。人が動物たちを使って移動するならば単身の獣型のオレの方が速い。その通りで山も谷も飛び越えて、手紙を盗み見た俺はここにたどり着いた。

「糸を垂れても乗らない。餌もさほどの興味も引かない。難攻不落のお姫様のようだ。」
オズワルドは笑ってる。
けどあいつが何かを何度も試したことは湖畔の捨てられた糸や湖の縁の不整な形の雪をみれば判る。

(こいつに越されたくない)

俺がそう思ったって仕方ないほどあいつはオレの先を走ってた。


「潜ってみるべきだと思う」
字面だけを追えば的確な意見だ。だが自分を襲う今までにない寒気。零下の気候の厚い氷の下の湖。裸でいられるほど人という生き物は強くないことも十分知っている。人間の潜れる時間の長さも知っている。
氷に穴を開けてみればなおのことその冷たさを実感した。
「釣り糸の長さ、これは申し分ない。けど網も利かない以上調べなくては・・」
淡々と言う言葉にオレの口から言葉が出た。
「なら俺が潜る!俺の方が面の皮が厚い!」
「そんなことを言ってはいないよ。私が言い出しっぺなんだからそれくらいは譲ってくれても良いと思うがね?」
困ったように微笑む姿に頭がかっとなる。アビーを助けるのは俺なんだ!お前なんかに取られるわけに行かないんだ!!


にらみ合う俺たちの前に光が差した。それまで吹雪いていた雪と風は湖の上にも同じく降りそそいでいた。
だがそれが今は晴れている。光が俺たちを照らして、湖も照らしてる。
「行くなら今だ!」
「まて!」
「うるさい!俺が行くったら行くんだ!!」
「待て!ちゃんと準備もしないうち・・」
もめていた俺たちの前に氷の小さい穴を押し広げるようにこじ開けて大きな魚が飛び跳ねた。
俺たちの側まで氷の穴が開いてその中に再び落ちてゆく。
銀の鱗に金の大きな瞳。
「あれ?!」
「まさか!? 本の通りの・・」
ロシュなのか?氷の割れたところからもう一度飛び上がってまた戻る。日の光を受けて喜んで踊っているようにも見える。そして、オレを誘っているようにも見えた。
「オレ、行ってくる!」
「あ、待て! だって、君は!金槌なんだろう!」
静止の声を振り切ってオレは海に飛んだ。体だけはとても怖がったけど気持ちがそれを吹き飛ばす。オレがアビーを助けるんだ!

どぶ〜〜ん!

飛び込んだのは割れた氷の真横、薄く見える氷の辺りだった。ぶつかった衝撃なんて痛くない。水の冷たさも気になんてならない。

だが水に触れた瞬間からだが気持ち悪くなった。
皮膚から何かをはぎ取られてしまうような不快感。
なのに逃げようにも手も足も動かない。心臓まで拒否してるみたいだ。
水浴びとも違うなんだか絡められて力が抜け・・て・・。
意識までもぎ取られるような中でオレは何か大きな物にぶつかった気がして・・・・・・本能的に爪は伸びた。歯も伸びた。
オレは何かをつかんでた。

「まて!!今行くから堪えろ!!」
鼓膜を水が埋めてゆく。意識が遠くなる。遠くに声が響くだけになる。
「必ず助けてやる!」




***






「悪魔の実・・噂には聞いていたが本当に金槌になるのだな。」
囁くような・・自分の声かと思った。そんなはずないのに。
意識が戻った俺は熾してあった焚き火が洞窟の壁に揺れているのを見た。火の音が反響して暖かい。濡れた体も少し乾き始めてる。何かの胎内にいるみたいだ。
あったかい。

はっと気がついた。ここにいるのはオレとあいつだけ。水に潜って・・・。助けられたという訳だ。
更にはっと気がついた。オレ!人獣型??あいつにみられた??やばっっ・・・!!と・・今は側に誰もいなかった。
無理矢理人間型に戻した所で小屋の入り口に掛かっていた菰が巻き上げられて、あいつが入ってきた。

「意識が戻ったようだな。」
「はぁ。・・・オレ結局助けて貰ったんですね。」

聞いたらいいのか?オレの変身を見ましたかって?
きっとそんなことはない。だってこいつの態度は前と変わってない。変身なんて見たら普通はこんな普通に話せない。

ちょっとホッとした。
「・・・・ごめんなさい・・」
だから小さい声で、でも何とか声を絞り出して謝った。

そんなオレにオズワルドは目を細めて温かいお湯をくれた。味はしなくても暖かい物は体が嬉しい。
「もし私の師匠ならこう言うときにはこう言うんだ。『医者は自分だけは助からなくてはいけない。自分が無理をしてはいけない。代役を立てられるときには迷わず使え』って」

は?オレは耳と顔を上げた。
何のことを言いたいのか・・けどそれって狡いだろう?自分が手を出さないで何をするんだ?そんな臆病者を医者と言っていいのか?
思わず不満の意思を隠せずに見上げる。そんなオレをオズワルドはじっと見た。

「我々は医師だ。だから我々には怪我も病気も許されない。
怪我も当然。自己管理の低下もいけない。伝染性の病を貰ってもいけない。患者に移すかもしれないから。
我々が動けなくなればその間に救えない命が出るかもしれない。

だからこそ我々は己が身を守ることを躊躇ってはいけないんだ。
常に冷静にでなくてはいけない。
いつでも己が出来ることと、やらねばならないことをきちんと判断できるくらいにはね。」

洞窟に広がる焚き火の音と低めの彼の声。

体が冷えた訳じゃないのに水の中で固まってしまったオレ。
無理をしたオレ。
おかげで魚をにがしてしまったろうオレ。

悔しくてぼたぼたと涙が溢れた。


今の言葉は重い。
こいつが臆病だから言ってる言葉じゃない、大人の、男の意見だ。
俺が出来るかもしれないことをやって何が悪いんだ!そう叫ぶ心はまだ俺の中にある。
けど、けど、それを口にしてはいけないと判る。
口にするのは子供だから。ただの言い訳だから。

悔しい。もの凄く悔しい。
本当に悔しい。

「泣いちゃ駄目だ。だからこそ今から君は頑張るときだ。さあ一緒に帰って彼女の光を、取り戻そう。」
打って変わった陽気な声にオレは面を上げた。
彼が指さした外を見ると氷付けになった銀色の魚がいた。
「お前が!?」
クックッと笑いながらその指さした鼻面にはオレの歯形がついてた。爪に蹴られた鱗も取れてる。
これじゃ痛かったよな、ごめん。
「運がよかった。水中に沈んだお前を拾いに行ったらへろへろになったこいつと出くわしたんだ。やっつけたのはお前さんの最初の一撃のおかげだよ。ありがとうな。」
オズワルドは大きな口を開けて笑った。
笑う奴から薄く血の香りがした。

「お前の肩!」
背中がうっすらと赤い。服の隙間から血がにじんでいる。
「ああ、これはたいしたことはない。ちょっとな。ロシュと少しばかり格闘が要ってね。まぁもう少し圧迫すれば止まるだろう。」
「嘘付け!どうしてだよ!俺を助けてそれから潜ったからか!?見えてないくせに何でそんな無理するんだ!?」
「さっきも言ったろう?我々はやらなくてはいけないときにはやらねばならないんだ。さて、帰ろう。ほら、彼女が待ってる。治すんだ。」

オズワルドが立ち上がったのでオレも立ち上がった。ちょっと頭がくらくらする。けど急がなきゃ。
なのにこいつはもの凄くのんきだ。
「で、ここまでいっしょに戦ってるのに俺にはまだお前の名前も教えてもらえないんだな?」
「あ、あったりまえだ!」
「不便だなぁ。」
もの凄く爽やかに響く声だった。彼は痛くない方の肩を壁に寄りかかる。あはははと笑ってる。

ちょっとドキドキしてきた。もしかしてこいつにオレの正体をばらしたら大丈夫かも・・・・でもきっと駄目だ。
折角こいつがちょっと所かかなり凄い奴だって判ったのに。そんな奴に化け物といわれるのはオレは絶対に我慢できない。

「お前の足は?」
一人でこんな所に上れるわけがない。
「ああ、王宮用のヤクーを一匹連れてきているよ。魚はそいつのソリに繋いであるから俺たちは歩きだな。」
足元の火を消しながら見れば顔色が悪い。白から黒い感じだ。
「お前待ってろ。側にチョッパーがいるからお前は乗せて貰え。」
オズワルドは軽く驚いた顔になった。だが首を横に振った。
「乗るなら君の方だ。溺れた体を舐めちゃ駄目だよ。」
「煩い!オレの言うことを聞け!お前は今は怪我人だ!」
「いいや。私は医者だよ。今までも。そして今も。」
俺たちはにらみ合った。オレがかいてる汗は冷や汗なのか、熱いからなのかよくわからない。
オレだって医者だと言いたかったけど言葉にはならなかった。
ただ睨んでいた。

「チョッパーが居るなら私が呼んでこよう。彼は賢いから・・」
オレはオズワルドが伸ばした手をふりほどいた。ふりほどいて外に向かって走り出る。できるだけしゃんと歩いて見せよう。足を踏ん張るんだ。森の陰に入って・・一気に駆け抜けて変身して戻ってきた。
「チョッパー!?」
オレは自分の背に乗れと鼻面をこいつの腕に寄せた。もう判ってる。こいつはオレの青い鼻を嫌がらない。
これは精一杯のオレなりの愛情表現だ。
「彼は?」
オレは首を横に振った。
強く。何度も強く。帽子の下からきっとオズワルドを見上げる。
譲らない。
譲れない、譲っちゃいけない。怖い、けどいけない。
オレは真っ直ぐに睨むことではなくただ真っ直ぐにあいつを見据えた。

「判った。」

オズワルドはその間中オレの瞳をじっと観ていた。
じっと息を堪えたように、なのに突然力を抜いた。
外に出ると雪の原は吹雪いてきた。空は重みを増している。だがこれだけならまだ大丈夫。
視野はとれる。雪は固まっててまあ走りやすい方だ。側のヤクーにもオレに付いてこいと声を掛ける。
「・・けどお前もかなり頑固だなぁ。彼みたいだ。」
どきっとしたオレを横にオズワルドは入り口の方に向かうと血の滲んだ服の上に上着を羽織って振り向いた。
「では頼むよチョッパー。男の頼みだ、聞いてくれ。」
もう一度首を縦に振る。これは了解の印。


オレは走る。慣れた山の中を、野原を。
気持ちの問題なのか?背の奴の巨体が軽い気がする。

「この大きさのロシュでよかった。眼球のサイズがほとんど人間に等しいんだ。これなら彼女も視野が取り戻せるかもしれない。チョッパー、見えない苦しさは判るかい?これがけっこう辛いぞ。まぁ慣れてしまうがそれでも損をしたと思うよ。俺はチビの時に頭をちょっとやってな。先に治療を受けた目の怪我は治ったが、その頃もう神経は戻らなかった。視神経領域の梗塞って奴だ。命があっただけありがたい。腕をなくす奴も足をなくす奴もいる。それでも人は生きていく力がある。俺の場合半分見えるしな。最初に見つかったとしても治ったかは判らない。俺の目に生きる力と運があったかどうかなんだ。医者が出来る事なんて本当は一握りのことだ。」

オズワルドはしばらくは黙っていたがオレの背の上で独り言のように語り始めた。橇はオレの全力だから風はもの凄いけどヤクーの奴は懸命に付いてくる。オレの背の上で座りながら段々体が前傾してきた。お陰で小さな声だったけどオレの耳なら聞き取れた。いつもならオレの答えがないと黙る野郎がちょっと多弁なくらいに語り始めていた。

「まぁ、誰だって360度全方位をみられる訳じゃないし、俺の場合それがちょっと狭いだけだ。損はしてるがその分気配でわかることもある。けどやはり損だと思う。
だから治してやりたい。彼女は治したいんだ。医者が諦めなかったら、患者が諦めなかったらきっともっと治すことが出来るとDr.くれははおっしゃった。
諦めることも大切だ。受け入れることも。けど、そこまで出来るだけやったかどうかというところが大切なんだと思・・う。
だから俺は諦めない。彼女のことは諦めない・・彼女には又、光の中で歌っていて欲し・・・・。」
徐々に背中の声が少し間延びする。生あくび。冷や汗をかき始めて・・少し青ざめた顔・・・やばい!こいつの怪我の方が危ない!!
「おい!?」
「チョッパー・・無理を・・悪いが急いでくれない・・早く、行かないと・・。オレは大丈夫だから。だが、今だけ少し・・」
ぐらっと上体が倒れた。慌てて止めたが顔色が悪い。なんてこった!こいつもう意識が無いじゃないか!!
「医者〜〜!・・・オレだ・・。」
同時に血の臭いが強くなってた。血圧の低下で出血量は弛んでいるだろうがここじゃ縫えないんだ!仕方ないから雪をかぶらない木陰に入って奴を降ろした。服を脱がせてもう一度傷口を診る。ダラダラと血が漏れている。動脈性じゃないけどこれでは・・。傷口をきつく縛り治して脈をとった。人間型になって奴を背負ってから獣の形に変身し治した。脈は弱いながらもある。今のうちだ。
距離を詰めるために又オレは必死に走り始めた。



***********


城の地下牢にコッソリと忍び込めたのはまだ自分が少年だったからだ。牢番に渡す賄賂を預かっていったが、大半の者は見つけないふりをしてくれた。奥へ奥へとは入ってゆくとかび臭い臭いがどんどん濃くなった。中に人の脂の臭いがする。清潔感の足りない人のすえた臭いは知ってた。手入れをされない死期に近い人の臭いだ。

一番奥にその人はいた。
「先生!」
「・・・オジー?」
骨の浮いた顔。顔色の悪さは牢でも判る。医師の診断を待つまでもない完全に栄養失調の顔だ。
「先生?まさか、何も食べてないんですか!?どうして!」
「・・や・・ばれたか。だって彼は食べることに異様に欲を示すだろう?だから訴えるなら食で対抗するしかないと思って・・やりすぎたようだな。多分僕はもう保たないみたいだ。」
「先生!」
彼、とまだアレを人間扱いする先生に舌打ちしたくなった。
「おかしいかい?だって僕らは医者だよ。病んだ心を治すには患者と同じ視線まで行かないと判らないじゃないか。」
「アレは患者でも国王でもないです!化け物相手に何を説いても・・・」
「いや、一介の患者なんだよ。」
その時の澄んだ眼鏡越しの瞳は忘れることが出来ない。何を言っても無駄だとあの時判ってしまった。
「さて自分の寿命は判るよ。医者だからね。ああもう保たない・・この命は次の世代を育てられない。だがこのまま行ってしまえはドラムの医療の火は消えてしまうだろう。
ワポルは駄目にしてしまう。けれどその前も正しくはなかった。だからといって医療が滅びてしまう事は、それだけは避けなくては。判るだろう?」
頷くしかできなかった。やせ細った先生の鬼気迫る気配は肯定しか認めなかった。そしてこの人こそが彼の師だった。
「けど、おばさんが・・」
「妻は・・彼女は判ってくれるよ。何も言わなくて良い。一番心配なのは、アビゲイルだ。これも・・君に頼んで良いかい?」


頼まれたのに。自分は彼女のためには何も出来なかった。それどころか、裏切り者と大きな瞳が涙をボロボロ流し、精一杯堪えた唇から溢れた。
辛い言葉を浴びせて彼女の生活の足場全てを失わせたのはオレだ。
だから、憎まれるのは構わない。
それでも治す。
治す方法を考える。
彼女の光だけは絶対に失わせない。







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