【 初 戀 】 6 |
冬の合間が一休みして弛んだように暖かい日だった。 溶け始めた屋根の雪から日の光に映える滴がしたたり落ちて和音をなす。 冬の寒さが行き着き、どこか春の暖かさを予感させるそんな日だった。 「チョッパー、降りるよ。」 ドクトリーヌが街に降りるというのはいつも急な話だった。準備が間に合わない。一度準備の時間が欲しいと言ったら 「死にそうな患者と病気が待ってくれるってのかい?」 と静かに睨まれた。医者の早飯、早食い、早グソは当たり前なんだ。 そして彼女が山を下りるときにはいつでも重患が待っている。当たり前だと思っていたが、かなり不思議な話だ。どうやって患者を見つけてるんだろう? 目的の村は山越えすればすぐの距離だがチョッパーだけならまだしもドクトリーヌを連れては通れないのでいつものケーブルを使った。ギャスタからは遠いその村だが今日は子供の泣き声がしていた。周囲には家族だろう、おろおろした女親と祖母と、そして苦り切った顔の男親が見えた。近所の人らしい姿も遠くにちらほら見える。 あれ? その家に入ろうとしたときにチョッパーは目の端に金色の髪を見た。ああいくらトナカイでもオレの目だもの間違いない。彼女が、アビーがその村から山に向かっていた。だが声にして呼びかけるわけにはいかない。山にあがる彼女の後ろ姿に心惹かれながらチョッパーは診察の助手に向かった。 「今の病気(ハッピー)、忘れんじゃないよ。」 請求額に家の中では様子を見に来た村民が揃っていつものごとくブーイングが巻き上がった。それを軽くいなして外に出るとその子の祖母がじっと扉の外に立っていた。 「ドクターくれは。」 おっとりした声を彼女はかけてきた。浮かんでいる微笑みはとても親しげだった。 「ミンナ。達者なようだね。お前の顔からも病気の影が薄れたまんまだ。」 ドクトリーヌの視線も柔らかくなってる。治った患者を診る目つきだ。 「はい。言ってはいけないことですが・・孫が助かりました。ありがとうございます。それから帰り道は雪が弛みますのでお気をつけ下さいね。」 「ああ、けど今日このまま長老の所に行ってくるよ。」 「ようございました。新しい積荷は届いているそうです。それから長老からも人体実験についての新しい相談があるそうです。」 「しっ」 くれはは軽く指を自分の口に立てて相手の言葉を止めた。くれはは判っていると軽く数回老婆に向かって頷く。 「チョッパー!その間にお前は一人で先帰ってな!!」 この村にはちいさな港がある。そこの港事務所はすぐ後に森を構えている。前の視界は広く、単身逃げるなら森に入ってしまえば地元の人間は迷わない。 「じゃ、キナの粉は三日後だね。」 「はい。」 「最近の監視はどうだ?ばれやしないかい?」 「薬の選別、抽出は町で行うとしてありますから。『王宮におかしな物や悪臭を持ち込むわけには参りません』といったら通りました。」 「あの馬鹿息子は本当に素人なんだねぇ。」 小さいろうそくしか灯されない部屋ではくれはの顔も憂いてみえる。その隣には村長が立ったまま。反対の椅子には面当てをした男が一人座っている。ふとくれははにやりと微笑んだ。 「それはそうと、何であたしんとこにあの小僧を寄越した?」 唐突な質問に村長はどう答えて良いか判らず面当ての男を見た。固まったのはむしろ彼の方だった。 「・・誰のことですか?」 答えた声は既に落ち着きを取り戻していた。 「ミンナの手術記録が王宮にあるはずがない。あんな古い物をとっておく場所もない。有るとすれば関係者だけだ。」 くれはは両手を組んだ。 「なぁ第二助手。」 「ご記憶でしたか?」 「当たり前だ。」 ふぅと大きく肩を落として、男はゆっくりと面を外した。 下からは長く後で結わえた白髪が大きく揺れた。そこにいたのはイッシーの中でも最長老だ。同時にイッシーの長を務めている。 「彼が一番若いのです。貪欲で、まだモノを知らない。書物で知識を増やしてはみても多くの患者にさわれません。だから怖さも、限界も知らない。」 くれはは黙って聞いている。 「今の我々の問題の一つは後継者です。ワポルは今ある、私たちが手にしている技術の秘匿ばかりを気にしている。ですが我々は技術を維持するのが精一杯。患者無しでは更に発展することも難しい。 医療は技術です。人から人に伝わらねば失われてしまう。そしてDrくれは。貴方は弟子をとらない。我々は同時に貴方の技が失われることも怖いのです。」 「逃げたのはお前の方じゃないか。」 「今ならあの時戻れば良かったと思いますよ。しかし、あの時には他にも師匠がいると言い訳をして逃げてしまった。」 彼も昔弟子入りを希望して・・二週間で逃げ出した。彼女の弟子志願の中では粘った方だった。 「彼なら、と思うのです。」 「クレイの弟子だね。」 「はい。彼が命を賭けて残した種子です。」 「確かに、まだ種でしかないようだね。」 芽が出るには種は殻を破らねばならない。 くれはが村長の家を出るともう日は昇りきって午後の傾きを見せている。今日は風は少し柔らかい。 「あたしに弟子は・・・居るんだけどね。これもまだてんで芽が出てこない。」 ため息ともつかない細い息をそっとくれはははいた。 **** ドクトリーヌが行ってしまって、荷物のあらかたは村長の家に置くよう指示されていた。どうやら後日取りに来るらしい。ならば荷も軽いから帰り道はチョッパー一人なら近道が出来る。 それに・・さっき山に単身あがっていった彼女が気になった。 (追いかけてみようか) 二人とも山で旬の薬を採取するのだ。偶然出会うことだってあっても良い。会えれば又手伝ってあげられる。 (驚いてくれるかな?) なんなら移動の際には自分が乗せて降りてあげても良いのだ。人の足に雪山は深すぎる。荷物だって軽いはずがない。 (運んであげたら喜んでくれるかな?) 丁度彼女が向かった先に心当たりがあった。カシンの木の大きいのがこの沢の向こうにある。 カシンの実は一抱えもある固い殻にくるまれた中に液体が入っている。原液はアルカリが強いが薄めた濃度次第で強心剤にも消毒薬にも出来る。一番薄い濃度では目の消毒にも使える。冬が一番濃く硬く熟成するので普通はそのままのものを採ってそのままの形で保存しておく。お茶にはしにくいと思うけど。 彼女の向かった先の実は一ヶ月前にはまだ若く採取に全く不向きだった。でもそろそろ良いのかもしれない。 ドラムロックの麓への道はそちらにも通じていた。チョッパーの想像は正しく、明るく光る白い雪の中に彼女のほっそりした姿が浮かび上がった。 嬉しくなって獣の脚で駆け寄ると彼女も茶色のなじんだ姿に気づき手を振ってくれた。その笑顔が陽に映えて眩しい。 「又会ったわね!貴方もカシンの実を採りに来たの?」 よく通る声の歓迎を含んだ響きが嬉しかった。 「私の見立てじゃけっこう良い具合に実ってると思うんだけど。」 今年のできはやや遅いようだ。まだ青いような気がする。多分……熟していない。タイミングを逃すとただの硬い木の実でしかない。 けど彼女の見立てに逆らうつもりはない、楽しげのこの響き。もっとうっとりとこの弾む声を聞いていたい。きっとこの実を今日採ったって、悪くない気がする。この実だって彼女がもいだなら又実るだろう。 彼女は実の一つ一つに触れながら俺に話しかけてくる。 「貴方も助手だから、判ると思うけど。」 おおらかに開く口から明るい声と白い息が飛び出てくる。山は冷えてきているのだろう、彼女の吐く息はきらきらと氷の粒に変わる。変わった氷の粒が陽の光を受けてきらきらと輝いている。雪交じりの空は重く垂れ込めているのに彼女だけが輝いて見える。 「助手無しじゃお仕事でき無いわよね。」 オレはこくんと頷いた。その通りだ。どんな名医も一人より助手が要る。 「医者になるのが駄目ならお手伝いが増えたらそれでいいのにね。」 もっと頷いた。 「私もお医者さんになろうと思ってたんだけど、どうしても血の色と臭いが駄目で・・そうしたら幼なじみの子が『代わりになって挙げる』っていってくれたの。けど、本当はそうさせるべきじゃなかったのかもしれないわ。」 最後の言葉はよく聞き取れなかった。ちょっと俯いてアビーはすぐににこっと顔を上げた。 「・・貴方になら聞いてもらってても良いかしら?薬の採取から患者さんに渡す薬にするまで薬の専門家だっていても良いと思うのよね。同じ薬だって材料の善し悪しがあるじゃない。そこもちゃんとできたらお医者さんのお手伝いが出来るわよね。お医者さんより詳しくなって、頼りにしてもらえたらきっと嬉しいと思うの。」 その発言にどきっとした。 ドクトリーヌの手伝いをしたいのかな? いや、ドクトリーヌの知識は半端じゃない。手伝いが必要なのは若い医者だ。 俺がちゃんと見習いじゃなくって医者になれた頃になら手伝ってもらえたらどんなに嬉しいだろう。 「ああん・・もう。やっぱりちょっと青いかなぁ?」 彼女はチョッパーの方を向いて小首をかしげる。チョッパーは力強く頷いた。その後横に首を傾けた。 彼女はいきなり唇を尖らせた。 「なぁにそれーーまるで『あんたに見立ては無理だよ』って言ってるみたい!そこまで言うんなら良い出来のカシンの実を見たことあるんでしょうね!」 挑戦的に腰に手を当てる彼女の言葉は問いなのだと考えた。だからチョッパーはこっくりと頷いた。だって。 「え?」 何度も何度も。 「ほんと?」 彼女に意志が通じている興奮から何度も何度も頭を振り続けた。 「え・・ああ!ドクターくれはの薬草庫にあるの?」 チョッパーは首を縦に大きく振った。獣型の今の身でも、彼女には言葉が無くてもきちんと意志が通じてる。 「見たいな!私にも見せてくれない?もちろん見るだけよ!」 眼鏡の奥の大きな瞳の真ん中にそばかすが二つ。そばかすなんてただの雀卵斑。なのにそれがとても可愛く見える。 うっとりしながら彼女の言葉を反芻した。 え?今すぐ? 今日は帰っても一人であることを今ことさら実感した。 今なら、見せるだけなら、ドクトリーヌにはバレっこない。 だって大きなあいつだって薬品庫にも出入りしてるじゃないか。 うん。だいじょうぶ! 気の大きくなったチョッパーは最後に大きく(うん)と大きく頭を振った。 **** 「ここが・・。」 彼女も興奮しているのかいつになく無口だった。ドクトリーヌが魔女の森に住んでいるというのは島でも有名な話だ。だが隠れ家の本当の場所を知っている奴は居ない。魔女の森は深く、そして普通の人間は入ってこようとしない。大人達は子供達に何があっても入らぬように戒める。それはもう、厳重に。 村人の意思を知ってかドクトリーヌの家は木々の重なりと天然のほらを旨く利用して遠くからは判別の付かないようにしてある。住居は案外狭い。寝所が一部屋。他にあまり使わないベッドだけある部屋がいくつか。そして書庫と薬庫ばかりが大きい。 「今日はドクターくれははお出でじゃないの?それなのに良いのかしら?」 チョッパーは頷いて見せた。最近は家中の至る所に自分の出入りは自由になっていた。 「でないと掃除が出きやしないだろ」 ドクトリーヌがそう言ったのはほんの数ヶ月前。ここに来た当初は色々なところに絶対に入れてもらえず、一年以上経ってからようやくドクトリーヌの後を付いてはいることが許されたのだ。後から薬品庫は危ないからお前みたいな素人を入れるわけにはいかなかったと言われて、やっと弟子として認めてもらえたのだととても嬉しかったことを思い出した。 (えっと・・・・だって彼女も医療関係者じゃないか) ふと言い訳のような思いが心をかすめたが気にしないことにした。それに最近じゃあいつも薬品庫にも出入りしてる。 もちろんドクトリーヌか、俺が必ず一緒だけど。アビーだって俺が付いててあげたらそれで良いじゃないか。 薬草庫は雑然とした物が古くからの薬の基準で整理されている。取り違えの予防のためにこの位置を動かすことは許されない。 目当ての乾物の棚を開けて覗くと大きな木の実であるそれはすぐに見つかった。三つばかり縦に並べて入れてある。 「あ!あれね!」 ちょっと上の方においてあったので、人間型の自分ならば楽に取れるはずが、この獣姿では届かない。その迷いが彼女が駆け出してその実に手を伸ばす姿に後れをとった。 「ああ、届かないわねぇ、あ、それ、足台に出来るわね!」 彼女は足下の木の箱に目を付けてそれを移動させた。薬品を入れた重い箱は中身を少し取り出して軽やかに持ち上げられ、彼女は興奮したまま足をかけて勢いよく登った。 箱は少しきしみながら彼女を支えた。実を手にとってそのままの姿勢で眺める 「へぇ……熟成するとここまで黄色くなるんだ。それじゃさっきのはまだ早いはずよね。」 彼女は両手にそれをつかんで少し持ち上げた。 「!」 とらないで・・!危ないから!チョッパーはそう言いたかったが声は出なかった。 「何か言った?」 彼女はそのままチョッパーを振り向いた。その拍子に足下の箱がきしんだ。持ち上げた手から彼女にカシンの実の重みが加わり、きしんで揺れたかと思うといきなり木の箱は大きく砕けた。 崩れるように割れた。 「きゃぁ〜〜〜〜〜!!」 「!」 倒れて落ちただけならば良かった。彼女はカシンの実を手放していたからチョッパーが獣姿で助けようとして彼女のお尻の下にクッションになって済んだ。彼女は獣型のチョッパーの上に落ちてからその大きな背中から滑り落ちた。 ところがその衝撃で棚が大きく揺れた。 棚の上に縛られて残っていたはずの他のカシンの実が落ちてきた。 上を振り向いて実を眺めるのが精一杯がその実の異変にチョッパーは気づいてしまった。 (・・・・・一個腐ってる??) 頑丈この上ないはずの殻の一部が腐っていたことは獣の目でもはっきり判った。転がって、棚の角にぶつかった衝撃で大きな木の実は腐ったところが丁度角にぶつかり、彼女の顔の真上でいきなり割れて中のアルカリ性の強い液を彼女の顔に思い切り浴びせた。 「あ”!あ”〜〜〜〜!」 声にならない悲鳴が納屋中に響き渡った。 「 !!」 「アビーーーー!」 チョッパーは一気に人間型になり彼女を抱えた。抱えたまま水場に連れて行く。水場は薬庫を出てすぐだ。井戸の汲み上げポンプの側に連れて行き一気に顔から上半身にかけて掛け流す。大量の地下水は掛けるまでは温いが湯気を上げるのもつかの間すぐに冷えてしまう。極寒の雪の中、彼女の身体を気遣いつつもこれでもかと言うほどの水を髪に、上体に、そして瞳にと掛けてから彼女を抱え込んだ。アビーはまだ声を出さないがとりあえず呼吸は出来ているようだ。真っ赤に弾かれた顔の肌がめくれてこないことを確認しながら今度は部屋に運び込む。 体温を下げないようにありったけの布でくるんだ。そして雪を袋に詰めて水枕を作る。そのまま顔に当てて服の確認をした。濡れた衣類も火傷と共に皮膚に癒着する場合がある。剥がすことだって焦りは禁物だ。 水をタライにいくらも汲み上げて、暖炉の熾火を強くして湯の準備をして・・・。 「痛・・い・・。」 「もうちょっとだから、我慢して。」 口を利いたことにほっとしつつ、やらねばならない作業をこなしながらもスローモーションのようにさっきのシーンがチョッパーの目の前で繰り返される。 肌は赤い。だがちょっとずつ赤みを帯びているくらい。冷やしているからか?多分彼女は目を開けていたと思う。目も損傷しただろうか?大丈夫だろうか?角膜が損傷していたらただでは済まない。眼鏡をしていてくれたらそんなこと無かったろうになんて今更言っても遅い。 怖い想像ばかりが浮かんではよぎる。 (ドクトリーヌ・・早く帰ってきて・・) 冷たい水を自分も被りながら心からそう願わずには居られなかった。だがドクトリーヌは遠い村だ。 ドアがぎぃっと開いた。 「!!」 「どくとりーぬぅ!!」 おそらくは偶然だろうが、オズワルドを連れたドクトリーヌがドアの前に立っていた。部屋に入りたての彼女にチョッパーは涙ながらに必死に窮状を訴えた。 ドクトリーヌはいつもと変わらなかったがオズワルドの赤みがかった黒い顔は明らかに蒼白に変わっていた。 →next ←back back to home |