【  初 戀  】 5



ショウキョウはすぐに採取できた。夜のうちに土を洗い落とし、乾燥の下ごしらえをする。力は要らないが丁寧な作業だ。次の日の朝その一部を袋に詰めてこっそりとトルクの街に向かった。
空は晴れている。足取りは軽い。
心も軽い。
人型の足跡が残らないように外に出てからはトナカイになって山を下っていく。本当に足取りが軽い。

街の外れに入ったときにはいつもと違う気分がした。何となく、空気が甘い。彼女のカミツレの香りが煙突の煙の中から残り香のように漂っているのだろうか?町の中に届いたその香りで咳の患者も治るみたいに思える。
そして店の軒先には昨日の桑の根の皮が干してある。その香りと光景がチョッパーにはものすごく嬉しかった。



「あら、トナカイ君?」
店内が空だったから裏を覗いてみたらいきなり大きな洗濯物を彼女が広げていたところに出くわした。
「どうしたの?又くれは先生のお供?」
もう最後の方だったらしく沢山の洗濯物を広げて干し終えて彼女はエプロンで手を拭きながらチョッパーに気軽に声をかけてくる。俺はといえばそんな彼女の行動に、思わず周囲を見回して人の目を気にしてる。
目が、手が泳ぎそうになってこらえた。今のおれはただのトナカイだし。
ちょっと奥に入った彼女の家は誰の目も気にすることなく居られてほっとした。薬草の香りに落ち着く。カミツレの他にいくらか干してあるなじみあるものの臭いにちょっと深呼吸した。
「これ?見て良いの?」
袋のガサガサという音が聞こえる。チョッパーが差し出した袋の中を不思議そうに彼女は覗き込んでいた。
「これ……ショウキョウとナンテンよね?しかも滅多にないくらいに色が濃いわ。え・・っとドクターくれはが下さったの?」

俺って判るわけ・・・ないか。ちょっとがっかりきたけど思い直した。
えっっっと、本当は俺からだけど。そう言いたい。

けどしゃべれないから説明できないし。

仕方ないからこくりと頷いた。
こくんと帽子を振る。

それを見た彼女の顔色がぱあっと明るくなった。人が輝いて見えるってこういう事なんだな。
うん、嬉しそうだ。ちょっとしぼんだ俺の気持ちよりも彼女が嬉しそうなことの方が何倍も嬉しいしドキドキする。
何度も袋を覗き込んで溢れる黄色がかった亜麻色の髪がさらさらして音楽でも鳴らしそうだ。

「あ、待ってて!」
奥に駆け出す彼女の靴音が乾いた家の中でカラコロと跳ねる。
「入って頂戴!これなら貴方も大丈夫でしょ?入って!」
両手に大事そうに抱えた厚手のソーサーから湯気が立ち上る。
(俺に?)
誘われるまま人の家の玄関に入った。脇に暖炉がある。
彼女が入れてくれたのは甘い、カミツレの蜂蜜で味付けしたホットレモン。良い香りだ。
丁度温くて暖かくて、猫舌のオレでも飲みやすい温度になっている。
「口に合うかしら?」
俺の顔を間近で覗き込んでる。湯気のせいかドキドキがもっと熱くなる。
湯気だけじゃなく中身まで鼻で吸い込みそうになってむせた。


それをくすくす笑いながら彼女は椅子を引いてチョッパーの横に座った。
「ドクターくれははお寂しくないのかしら?国王に追われながら隠れ住んでいるなんて・・それでも今は仕方ないのよね。」
湯気の向こうで彼女が少し薄め唇をむっとした形で慣れた手つきで自分用のお茶を注いでいた。中に甘いジャム。ちょっと酒の入った保存用のジャムは紅茶に合う。たまーーにドクトリーヌに入れて貰うそれも美味しいがきっと彼女のお茶はもっと美味しいんだろう。彼女の声が
「けど王宮に無断で医者にかかれば死罪だなんて馬鹿げた話!ドクターくれはがあれだけ財産を要求してくれないと『許可なく医者に診せた罪』で皆が逮捕されるなんて本当に馬鹿げてるわ!・・本当なら私の家にも来ていただいていろいろ薬のこととか教わりたいのに。」

「!?」

ドクトリーヌの取り立ては容赦ない。自分たちの生活に必要ではないその大金はいつしかドクトリーヌの家から消えていく。チョッパーにその仕組みは良く判っていなかったが変なことだと思っていた。
きっとその話とつながる話なんだ!
彼女は何かチョッパーが知らない話をし始めているらしい。
思わずチョッパーの耳も鼻もぴくんと彼女を一気に見上げた。
「なぁに?聞きたがりさんな顔して。」
彼女はくすくす笑ってチョッパーの鼻をぽんと指ではじいた。
この鼻にそんなに気安く触る人なんて初めてだ。これももの凄くびっくりしたけど彼女はもっとおかしそうに笑ってる。
その笑い声が耳にはくすぐったかった。

「貴方はいくつかしら?トナカイにしたらまだ小さそうだものね。じゃ、教えてあげる。きっと貴方も知らない頃の話でしょうから。」




昔あるところに医療大国といわれる国がありました。奥様を病で亡くされた立派な国王陛下はその経験から病を取り除くことが国民の平和への道だと心に決められたのでした。偉い王様の下で国民は皆一丸となって病気と闘う国を作っていました。
ところが偉かった王様が亡くなって国を次いだ次の王様が言いました。
「この国の医療はすべてオレ様のものだ。他の奴らにはやらん。」
言うことを聞く医師だけが残されて、言うことを聞かなかった他の医師たちは皆投獄されたり、国を追い出されてしまいました。
その後も残った医師達はこっそり治療を続けました。
それに王様は怒りました。
「医者に診てもらった患者こそが悪の元凶だ!病気がいるから医者を呼ぶんだ!患者を逮捕しろ!」
最初に逮捕されたのはドクターくれはが手術をした患者さんでした。逃げようにも手術後で動かせなかったからです。

その後からドクターくれはは自分で勝手に押しかけて患者を診るようになりました。
「無理な医療を押しつけられたのだ」
そう言えば誰も罰せないと思ったのです。
ところが国王はそれだけでは我慢できなくなってしまいました。
「金を払えばそれは医療を希望して受けたのと同じ事だ!」

そしてドクターくれはは診察した患者さんの財産を暴利で奪うようになりました。
強奪に近い形で。
患者は王様に泣きつきました「Drくれはに財産を奪われました!」
そうすれば国王は大喜びして診察を受けた患者の罪を忘れてしまうからです。

取られた財産は違う形で一部が帰ってきました。
家を手放した物はそこに家賃もなく住まわせてくれる人が現れるのです。
お宝は良く似たものが村のくじなどで帰ってくるのです。

今もそれは続いています。





「けど最近じゃそう言うことを忘れてしまって治してもらっても文句を言う人が増えてきたわ。悲しいことだけど。」
ポットのお茶をもう一杯自分のカップに注ぎながら彼女はそう締めくくった。
今は雪が降り止んでいる。鉛色の雲は切れることなく、又降ってくるだろう。
暖炉の火がじじじと揺れる。
何でだろう?初めての家なのに。
静かで、そして小さな世界がここにだけあるような錯覚すら覚える。

あったかい。

彼女の後ろ姿をみながらチョッパーは自分の中がゆっくりと暖められていることに気がついた。
部屋の中が暖かい。
暖炉の薪は細く、囂々(ごうごう)と燃えているわけではない。雪も深く、女手一つでは燃やす薪が少ないのだ。そうならば後でチョッパーが届けてあげても良いかもしれない。
暖かいのは部屋だけではない。彼女の身体の周りを覆うような柔らかさが暖かい。
自分のような妙ちきりんなトナカイも受け入れてくれるその彼女のが暖かいのだ。

アビーのおかげで今日、ドクトリーヌの謎が一つ解けた。
やっぱりドクトリーヌなんだと思うと嬉しくなる。
(エッエッエッ)
声に出して笑いそうになって必死にこらえていた。



「そうだわ!一度、ドクターくれはにお礼をお持ちしたいの!梅酒ならお好きなんでしょ?自家製の、美味しいのがあるのよ!」
目がきらきらしたなと思った途端、彼女がクルクル動き回る。それなのに柔らかい動きでせわしさは感じない。チョッパーは彼女をいくら見ていても飽きない気持ちがした。キッチンの方に向かって大きめの籠に色々詰め始めた。
「それとこちらのクッキーやハーブパンならお客様にも出せるわよ!この間も来ていたでしょう?魔女の森から一人あがっていく姿が見えたわ。」
どうして知ってるんだろう?
そう言えばほんとうに珍しいことなのだが少し前に男が一人来ていた。
そんなところまで見ているほどドクトリーヌのことが好きなのかと驚いた。




****




さっきアビーに届けておいた薪の山。山で刈って干しといた奴。昨日新しい薪を刈ったから持ち出しても怒られない・・はずだ。
家の裏手にどっさりと置いてきた。オレからだと判ってくれると良いな。
チョッパーの口元に笑みが浮かんでくる。
心の中にあの元気な腕まくりが美味しいお茶を入れてくれる姿が何度か浮かんだ。浮かぶ度になんだか暖かくなっては読んでいた本が進まなくなった。腕の映像は浮かび、その先の指にあかぎれがあったことも思い出した。
香油に薬草を漬け込んだ物がドクトリーヌの棚にある。あの臭いは自分にはきついが優しい花の香りがする。保湿にはあれが一番だと思い立ち薬棚のある倉庫に入った途端入り口が開いた。
「おい!!客だよ!出といで!」
客??客だって??!!
この家に?????


トナカイの姿になって玄関に向かうとドクトリーヌの背後に大男が一人いた。
彼はチョッパーを認めると大きな手を差し出してきた。人間としても毛深い方だ。その手がチョッパーの鼻には視線をやらずに頭を撫でようとした。手と全身から滲むように薬と消毒の香りがした。

(こいつ……医者?)

チョッパーは気色ばった。眉間に皺が寄る。
今、この島に自分たち以外にいる医者といえば21人だけだ。あのワポルの手下。
その事実に鼻白んで低く唸って抵抗しようとして見上げると男の瞳は柔らかい光をともしていた。
「噂の青鼻のトナカイ君ですね。貴方の助手とか。」
「書庫はあっちだ。」
質問はあっさりと棄却してくれはは書庫の鍵を手に取った。手術記録やカルテが年度と名前ごとに分けられている。古い物になると奥にありすぎて判らない。おそらくは優に百年を超えている物もある。
古い情報には大半は使えないが、たまに発見があるからと滅多にドクトリーヌはこれらの書物を処分しようとはしなかった。
「手術書はこっちにある。お前、どこをやりたいって?」
「感覚器を中心に外科系一般を。」
「フン、そういや気になってたのは目の手術か。」

二人は書庫の奥に入り込んでいった。
何でーーー?この男をこんな所にまで案内しちゃって良いのかな??!!
大男はドクトリーヌの後ろから覗き込んでメモを取ったりしている。
チョッパーは初めての光景に驚くどころか体が震えて仕方がない。さっきは唸ってみようとしたものの慣れなくて納得も行ってない。

ドクトリーヌの家に、しかもこんな奥に客が来たのは初めてだった。

恐い。
恐い。

人だから恐いのか・・いや医者だからか。
人も、医者も、チョッパーにはまだ恐い。それが自分の巣に入ってくるとなれば恐くて仕方がない。


どうしよう!昨日の本の続きも読みたいのに、それにオレがトナカイの形のままじゃ出来ないことがいっぱいある・・チョッパーは気になったがトナカイ姿のまま、声を出す事もはばかられた。
すると書庫の奥に向かうドクトリーヌの声が聞こえる。
「そうそう、ここにはもう一人いるよ。内気な毛深い大男がね。
 あれは人間嫌いで臆病者だから声掛けたり名前を聞いたりするんじゃないよ。」
男は怪訝そうにくれはを見たがくれははそれ以上説明をしなかった。頷いてそれを彼は受け入れた。受け入れなければ認めないドクターくれはの気迫を感じるくらいの勘はあるらしい。
「え・・?はい判りました。」
「それからこっちが材料室であっちには・・」
二人は話しながら出て行った。


ありがとう!ドクトリーヌ!!
っけど?
つまりこいつ又来るって事なの?
人型の俺も会うの?

本気か?!
・・とは口が裂けても聞けなかったが。



***



「私は今後出入りさせていただくオズワルドです。よろしく」
しばらくしてからチョッパーが人間型で書庫にいるときにやはり男は一人で来た。結構大きい男だ。
ドクトリーヌはこいつを置いてどこかへ出て行ったのだろうか?
こいつはチョッパーの返事を待っているように動かない。

俺には声を掛けない約束してただろ!そう言いたかったが声が出ない。
やはりドクトリーヌ以外の人間がうろうろしているのはこっちが落ち着かない。
しかも城の悪医者の仲間じゃないか。そんな奴をで居るさせるなんてドクトリーヌもどうかしてる。
だが彼は固まったチョッパーには頓着せずにすぐに離れて山積みに引き出した術書をむさぼり読みはじめた。


いくらほどの時間が経ったろう。冬の空に低いなりに高かった陽はもう傾き外は又雪が降り始めた。
「君が助手をやると聞いたが・・ドクターくれはは最近は手術はやっていないのかい?」
男はドクトリーヌのことをドクターくれはと呼んだ。
チョッパーは顔は上げたのに答えられなくて、首を振ることも出来なくて、またすぐに俯いてしまった。
オレ、なんでこんなに緊張するんだろう。
こんなで人間の患者が診れるんだろうか。






けど外に出さえすれば緊張することはなかった。
アビーの家をのぞきに行くことだっていくらでも出来た。彼女の家から暖かい煙が上がっていて、薪が役に立っているのだとちょっと嬉しくなった。たまに山野で見つけた木の花をおいてくることもある。冬の花は少ないけど樹木の物が多い。形はともかく色が鮮やかだ。


実際あいつは本来の職務の合間を縫ってにしては多すぎるくらい顔を出していた。実に何度も何時間もドクトリーヌに付き従い話を聞く。診察の時も、薬を作るときも。顔をすっぽり覆った外套のおかげでドクトリーヌの診察について行ったりするから「ドクターくれはのお化けの巨人」というあだ名が囁かれるくらいだった。
彼も素性がばれてはやばいのは俺と変わりないだろうが、それでもあいつはドクトリーヌの後に従い、言葉を聞いて、ひたすら目にしていた。
「しぃっ!ドクターくれはだよ!」
「又変なもんが増えてるよ!」
オレはいつもの通りのトナカイ姿で行くのでドクトリーヌの名に更に奇妙なものが付随してしまった。








今日もアイツが書庫に入ってきた。
けどオレは知らん顔をする。だってオレだって勉強に忙しいし。しなきゃいけないことはごまんとある。医者になるからには一つだけ知ってれば良いなんて訳はない。オレは何でも治す医者になるんだから。だからアイツの相手なんてしてる暇ないんだ。どうしてだかアイツはオレに話しかけたがるけど。
気づかないふり、オレは気付いてない。無視無視。


アイツは目的の本棚がアレなんだろうそこへ向かって突進していった。そこから数冊を開いては戻しを繰り返して選んでいく。悩んでみたり考え込んだり、高い棚に向かってはしごを使う。天井に届く本棚にはオレだって上は届かない。あの辺りは古いけど手術記録の宝庫だ。本から目を離さずに必死に見える。一体何を調べて居るんだろう?
ああなんだかオレも落ち着かないじゃないか。これだから落ち着かない。だいたいいつもいつも話しかけようと五月蠅いのはアイツだというのに今日は全くの無視とはこれも面白くない。いつもと違うことをされるからか?いや、アイツが侵入者だからだ。

深く息を吸い込んだ。咳払いを一つ。
俺が先に居るんだぞ。気付けよ。
気づいたらしい。一瞬あいつは棚の本から目を外した。俺と視線があって心底驚いたらしい。

「うわあっっっっっっっっ!!!」

オレの咳払いにあわせたかアイツの身体がびくっと震えた。そしていきなり大声を上げた。幽霊でも見たみたいだ。あれじゃ全く予想もしてなかったって行動だ。え?
はしごが揺れた。一番上に巨体をのせたはしごがゆっくり揺れ始める。ゆっくりと、そして加速度を付けてなだれ込む。

どぉん!

「痛ってぇ!!!!!」
これにはオレが驚いた。どうしたんだ?おれのせい?

本棚達は揺れたけど本は大丈夫。流石ドクトリーヌの書庫だ。巨体の男は倒れても手にした本だけは守っていた。見上げた根性だと感心した。そして気づく。そうじゃなくって意識は?

「おいっっっ!お前大丈夫か!!?」

男がゆっくりと動き始めたからほっとした。頭を振る動作にさする動作まで付いてる。命は大丈夫そうだ。痛そうなくせににこっと微笑みながらこっちを向いた。その瞳は巨体に似合わずちっこくてのんきそうに見える。とてもあの悪辣な城の悪医者イッシーの一人という感じじゃない。

「いやーー君、居たんだね?ごめんごめん気がつかなかったからもの凄く驚いたよ。」
笑顔にほっとした。ほっとしたついでにちょっとむっとした。
俺はいたのに気づかないってなんだよ。オレなんて無視かよ。

「済まないね。ああ本と棚が無事で良かった。ごめんね、君が居るって全然気がつかなかった。それと言い訳すると実は僕はこちら半分は見えてません。昔ちょっとした事故でね。見たいと思えばみれるから自分は全然気にならないんだけど」
「ええ!?」
オズワルドはさらっと自分の手のひら半分で顔面を覆った。部屋の入り口で言ったら俺の座ってた所は死角になる。だから気がつかなかった?
「いつもは気も付けてるし、全然問題はないんだけどね。だいたいカバーできるし見えなくっても気配でわかるからなぁ。けど君さ、気配を消すのとっても巧くない?まるで獣みたいな見事さだよ。」

あはははははと軽く笑ってみせる。こともなげに言った台詞にオレの方がぎょっとした。
ちょっと待てよ?ドクトリーヌに包丁を投げられてるときにはどこからでも紙一重でかわしてたじゃないか。とても見えない奴の動きとは思えなかったぞ?違和感なんて感じない・・そんなそぶりも見せなかった。

それに・・オレがしなやかな野生の獣だって?
参ったなぁ。そんなに見えるのも仕方ないよなぁ。

「気にしないでね。人間全部が360度全方向を見てる訳じゃないし。俺のは人よりちょっと狭いだけ。ただの個人差個人差。」
飄々としているというのはこいつのような事をさすんだろう。こともなげに言い放って立ち上がった。ぽんぽんと手元の本の埃を払ってる。

視野か・・。
トナカイに戻っているときにはオレの視界は広い。前でも後ろでも同時に見える。けどその分画像がはっきり見えない。色もない。距離も判りにくい。これは獣の瞳が顔の両脇に付いているからだが、人型になると視界は高いけど見えすぎて辛いときもある。その点では人獣型の時が一番獣と人のバランスが良い感じだ。これらは変身出来るようになって一番驚いた事なんだけど。

ぼおっと考えていたらこいつがにこにことした顔で又話しかけてくる。
「けど嬉しいね。腰も強かに打ったが収穫はあった。君が話しかけてくれるなんてな。」

しまった。オレ、こいつと喋っちゃった。









その日の吹雪は強すぎてオズワルドは外に出られず帰ることも出来ずにドクトリーヌの家に足止めを食らった。
食卓兼書類机の大きなテーブルの上にアビーがくれたパンと梅酒を出した。
こんな奴にアビーのパンを・・と思ったがドクトリーヌの命令だから仕方ない。
オレは人型で黙ってテーブルの端に座って、硬くなっていても香りの高いパンをかじっていた。
「イッシーってのは結局なんだい?」
静かな夕食の途中でふとドクトリーヌが話しをふった。
「は?ああ、ただの奴隷ですよ。何も出来ない。」
「お前、その一人なんだろ?恩師も追い出してその地位を手にした国一番のエリート様が何を言う。」
素っ気ない男の答えに、くれはは嫌みを含ませた。余りらしくない物の良いに獣姿になったチョッパーは耳をそばだてた。オズワルドは快活そうな笑みを表情から消した。口元が引き締まった。唇を噛んで大きな拳をぎゅっと握り込む。
「言い訳しないのかい?」
「言い訳など・・・。私の師はワポルの意見に真っ向から反対して獄死しました。それでも私は医者を続けなきゃいけなかったんです。この国で医者であるためには彼に尾を振るしかないじゃないですか。」
ふん、とくれはは鼻を鳴らした。不満なようだ。
「お前は、トルクのクレイの弟子だったんだろう?あいつが言ったんだね?」
どうしてそれを・・とオズワルドが不思議そうにくれはを見返した。観念したように次の言葉を繋ぐ。
「彼は初期に制裁を受け命を落としたその一人です。まだ子供だった私はあの夜に何とか城に忍び込んで、看守を買収して一度だけ会いに行きました。」

オズワルドは暖炉の火をじっと見つめていた。


【たぶん僕はもう駄目だよ。そしてドラムの医療もこのまま行くと絶対に崩壊する。いいかい僕からのお願いだ。ドラムから医療の灯火を消してはいけない。どんなに小さい火もいつか又大きく燃える事が出来る。消しさえしなければ、それは必ず後生に伝わってさらに発展する。
もしかしたら君は裏切り者と呼ばれるかもしれない。けど君にだから頼めるんだ。頼んだよ。そして・・】



「医師でいることは師の命令です。だから私は城に残るためにあらゆる手段を取りました。
それが・・どれだけの人を押しのける事になっても。それも自分もどんなに汚れても。」
言いよどんでいた言葉は決意を固めるようにきっぱりと言い切った。
「恩師の家族を追い出しても、かい?」
男の淡々とした声の調子と同じように小さく、だがはっきりした声でくれはが質問した。
固まったまま男は動かなかった。
「・・・ワポルに取り入るにはそれこそが必要でした。過去は捨てて、ワポルにのみ仕えるという明白な意思表示が。」
男の声は淡々と淀みない。後悔はしないと決めた男の声には抑揚がなかった。
震えずに淡々と男は語る。

「ふん。男はいろいろたいへんなこったね。」
「いえ、そうでもありません。」
「うぬぼれるな。ただの馬鹿だ、って言ってるんだよ。」
「・・・・はい。」
「本当に馬鹿だよ。お前達は。」
「はい。」


オズワルドはなお真っ直ぐに暖炉の火をじっと見つめている。赤い炎。薪がはぜて木の香りが炎に移る。良い火だと思うがそこに何が映って見えているのかトナカイのオレには判らない。
見ていたドクトリーヌは黙って次の酒瓶に手を伸ばした。









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