【 初 戀 】 4 |
自分一人しかいないはずの静寂の中、ザザッという音に彼女は振り返った。木の上からどさっと落ちた大きな雪の影に大きな茶色の獣を見た。 まずその大きさに足がすくんだ。野生の怖い生き物は少なくない。ドラムはこれでいてラパーンを始め出会うだけで致命的な生き物が徘徊していてもおかしくなはない山の中だ。ポケットに入っているはずの護身用の笛を片手で探しながらミトン型の手袋が動きにくくて舌打ちしかかった。しかし。彼女は視線を外さないまま自分の動きを止めてみた。 その獣はといえば最初に思ったのよりは小さかった。しかも震えている。倒れそうに足をふるわせながらも横に長い獣独特の大きな眼でこちらを凝視ししている。けれど、不思議と恐いとは思わなかった。 その瞳と周囲の色彩に何故か目が奪われた。 ピンクと茶色。そして青。 あ、帽子?そして鼻先が・・青い。 見えにくい裸眼で思わず身体ごと振り向くと、ちょうどその獣とにらめっこになった。 茶色の毛皮に両脇に張り出した大きな角。トナカイだ。 トナカイならば森の中には沢山いるはずだが、野生の生き物が自分のような「人間」の側に来る例は自分は一頭しか知らない。 それでもきちんと見たくて、凍るとやっかいな自分の眼鏡を鞄から取りだしてかけてもう一度覗いた。丸い眼鏡の視界がはっきりする。 やはりトナカイだ。さっきその姿がもっと大きく見えた気がしたのは自分が怖いと思ったからだろう。判ると怖くなくなった。 「そのお鼻の色・・。貴方・・・ドクターくれはの所のトナカイさんね?」 声をかけるとトナカイは又一段と大きなぴくっで身体を硬直させる。 じっと見つめると少し臆したように顔を引き気味にして、身体の重心は逃げる体勢を作ってる。 それでも腰は残ってる。逃げようとしていない。 二人の間でしばし言葉のないにらめっこが続いたがトナカイは姿勢を変えなかった。 それどころか、自分の顔をじっと睨んでいたかと思うとちらちらと自分の背後の木に視線が移る。 意志がある? クワーの木をみてる? まさかとは思った。自分の発想も馬鹿げてるとも。 彼女は思いながらも疑問を口にしていた。 「もしかして・・貴方もお使いでこの木に用事があるの?」 トナカイは更に大きなびくりと表情を変えている。その反応はまるで人間みたいだ。 そう思ったとき又自分とトナカイは目があってしまった。 トナカイにこれだけ表情があるなんて今まで知らなかった。だが、確かにこのトナカイは自分の言葉を理解して、反応している。 トナカイは少し震えを押さえたかと思うと肩をぴくーんと張って仰け反った。一呼吸置いて頭を凛と上げる。人が意を決したように深呼吸したかと思うと逃げ腰だった足を前に進め始めた。 一歩ずつ、ゆっくりと。 彼は・・彼というのは間違っているかもしれないけれどこの仔トナカイにはそう言いたくなった。トナカイとしては小柄だが、それでも人を乗せたり、荷を引くことが出来るくらいのたくましさをこの歩く姿に感じる。ちっちゃな少年トナカイ君だ。 自分の目の前をゆっくりと通り抜けて、木の下に立つとトナカイは背中の荷を下ろした。角と足を器用に使って結構上手に雪を掘り分けていくと、あっという間に氷を含んだ土が顔を出した。背中の籠から掘る道具を出して口にくわえる。更に手慣れた様子で土をかいていくと木の根が顔を見せた。出てきた根を慎重に選びながら咥えたり折ったりして容易く刈り集めていく。 その周囲の土はやや柔らかい様子ではあったが、それよりも堀り慣れているとしか言いようのない獣の姿に目は離せず、声も出なかった。 トナカイは土をかぶせて大地を元通りに治すと籠から取り出した腐葉土らしき物を蒔いている。 その姿は人間の、生薬を育てる薬師のそれと一切変わりがない。 じっと見つめる彼女の視線のせいか、ややぎこちない動作でトナカイは集めたそれを持参の籠に入れると一部をそっと彼女の足下に鼻面を使って寄せた。 顔を見上げて見つめてくる「もっていけ」とばかりに顎をしゃくり上げた。 「いいの?貴方の物なのに。だって……貴方これが大切な薬だって判って居るんでしょう?」 落葉した今の季節ではクワーの葉は手に入らない。代わりに養分は根に集まり薬効となる。 この時期だけ手に入る貴重な薬だ。養蚕用のクワーの根を分けてくれるような養蚕家はおらず、自生の木を探す羽目になる。自分だってようやく見つけた一本なのに。 「どうして?」 トナカイはまるで照れたように視線を斜め下にずらして立っている。そう、まるで人間が照れてるみたい。 雪の上に放り出された根っこからはまだ樹液の滴って雪の上に流れ出してそこだけ薄緑色をしている。足下の樹根を手に取る。指先ににじんだ樹液はこもったような緑の匂いが強い。凝縮された良い薬の証拠だ。 彼をじっと見つめてみた。自分の考えがおかしいとは思わなかった。この獣には本当知性があるみたいだ。知性には答えを用意しなくてはいけない。人に対するのと同じ答えを。自分の口元が微笑んだのも自明の理だ。 「ありがとう」 彼が渡してくれた幾本を受け取ると大事に空にかざしてみた。これの樹皮を剥いで水洗いして干した物が良い咳止めになる。砕いて煮出しても良い。そっと手巾でくるんで自分の手提げ袋にしまい込んだ。 微笑んでみせるとまた彼の鼻の色が少し紫になった。そしてすっと立つ姿が誇らしげだった。 「信じられない……けどさすがはドクターくれはよね。ペットのトナカイにまでこんな能力があるなんて。もしかしたら貴方は他にも薬を知ってるの?」 *** 彼女の方から流れてくるモノがある。 雪野原なのにまるで春の金色の風みたいな、もっと暖かく夏が近づいたときの大地のぬくもりを吹くんだ小川の水のような柔らかさと確かさを持った流れを感じる。 あったかい。 相手が恐い人間だって事を忘れそうになるくらいに。 「ありがとう」 人間にはこんなに嬉しく優しく響く言葉があるのだと初めてチョッパーは知った。 昔、ドクターは言ってくれた言葉だった。 ”ありがとうよ、おめぇがいてくれて嬉しいぜ。” 身体がそんな気持ちを思い出したのだろう背中の辺りからなんだかぽかぽかしてくる。 根を掘り返している間中、彼女はチョッパーの行動を妨げるどころかただ見ていてくれた。 恐ろしい獣だなどとは言わないで、怖がる仕草も見せずただ黙ってチョッパーを見ていた。 クワの根を分けたのはおそらくこれを求めに来た彼女に対する気持ちと、そのお礼の意味もあった。 そしてもう一つ、彼女の言葉と声にドクトリーヌへの賞賛があった事にチョッパーは一番驚いた。 正直、いくらドクトリーヌが町の人を治しても浴びるのは非難ばかり。致命的なものを完全に治療したというのに家財強奪の罪を中心にして街からも国王からも追い立てられる。人の口に上るのは悪口ばかり。 隠れ家に住んでいるのはこの国には居てはいけない「医師」だからというだけではないのだ。 彼女の罪状はチョッパーが耳にしただけでも数えきれない。 それでもくれはは何も言わないで患者のもとを駆け回っている。 作業が終わると彼女はチョッパーの横に立ち、一緒に歩き始めた。山裾、トルクに向かう道はこのまま降りればいい。 「貴方も昨日、先生と一緒にトルクに来てたわよね。ダダの・・あそこのおかあさん、とっても喜んでいたわ。」 彼女の声は甘く聞こえる。ふわふわしてる。気持ちは良いのになんだか歩きにくい。 チョッパーは身体の関節は硬くなり、前足と後足が同じ側を同時に出していて歩きにくいことにも気がつかない。これが緊張から来るものだとはチョッパーは全く気づいていなかったけれど。 彼女はチョッパーの鼻に怯えもせずにチョッパーの横に一緒に歩いてくれている。 それどころかまるでチョッパーが知り合いであるかのように話しかけてくる。 「ドクターくれはには以前死んだ私の両親が親しくさせていただいていたのよ。残念なことに私自身はあまり覚えていないの。小さい頃のことだからなぁ。私は両親が年を取ってできた子供だったから。特に父親との記憶は薬のにおいと大きな背中ばかり。結構有名な医者だったのよ。その医者仲間だったみたいね。」 もっと薬を知っているかと聞かれたことがくすぐったくも嬉しくもあった。 知識に自信はある。薬草学の本は最初に読み終えてある。アミウダケの教えを忘れたくなかったからドクトリーヌの本の中でそこから始めた。 けれど、人間相手に言葉を話すことにはまだまだ抵抗がある。うまく話せる自信もない。 でも・・彼女の声が自分に、話しかけている。彼女の声がもっと聞きたい。もっとその瞳で見つめられていたい。ああだけど、怖がらせてせっかくのこんな時間を台無しにしたくない。 だから今はただのトナカイのふりを続けておかないと。 硬く、心に刻み込んで見上げる形で彼女の姿を横からちらちら眺めていた。 だがチョッパーの仕事はまだ半分しか終わってないのだ。ショウキョウはドクトリーヌの畑に寝かせてある。冬まで来ると香りも成分もぐっと上昇するので今が掘り時だ。彼女が付いてきているのがちょっと誤算だけど教えてくれと云われたのだから教えてあげても良いかもしれない。だって自分を恐れず一緒に来る人間なんてドクターとドクトリーヌの2人以外じゃ初めてじゃないか! ドクトリーヌの家は本当は皆が知っている。魔女の森といって誰もが近寄らない、そんな森の奥にある。薬草園はドクトリーヌの家の側にある。そのドクトリーヌの薬草園に近づいてきた頃、空模様が一気に悪化した。 そこから村まで帰るにはあの厚い鉛色の雲と風は危険性が高い。チョッパーが悩みつつ空を見上げていると 「今日はありがとう。」 彼女の口がそう言った。 「もう帰らないと雲が怪しいわね。」 そう言って彼女は口笛を吹くと自分の騎乗用のヤクーを呼んだ。丁度この辺りに放たれていたらしいヤクーのメスは山の半分向こうから息せき切って飛んできた。ヤクーは俺の方をちらりと見たけれど何も言わず指示もないまま亜麻色髪の彼女を乗せて歩き始める。アビー、嵐が来るから急がないと帰れないよ。そう呟いたヤクーの声がくぐもって聞こえた。 「ありがとう。あら?ちょっとっ早いわよ!けどトナカイ君!助かったわ!ドクターくれはによろしくね!」 彼女は背後の俺を振り向きながら大きく手を振ったかと思うとヤクーはその足を速めた。 アビー。 アビーって言うんだ。 偶然ヤクーの声が教えてくれた名前。 素敵な響きだ。 小躍りしたくなる。 いつまでもいつまでも。チョッパーはその姿を見送っていた。 今から掘る予定のショウキョウも乾燥させてある薬草たちも少し届けてあげようと思いながら。 ********* 森の奥に大きな樹でカモフラージュされたくれはの家のストーブは外に煙を出さない構造だ。そのまま上にのせてある湯沸かしがゆっくりしゅんしゅんと音を上げていた。脇にドクターくれは愛用の厚手のグラスがおいてある。梅酒を温めても旨い。考え事をしすぎて冷めてしまう場合もあるが。この森の家は少々手狭になってきている。居間と玄関がすぐな作りは一人暮らしには良かったがチョッパーも増えてその勉強道具や実験道具が溢れてきている。書庫ももうすぐ満載だ。 「ドクターくれは!お久しぶりです!ようやくお会いしました!!」 「待ってろとも来てくれとも言ったつもりは無いね。患者でもないのに勝手に押しかける奴を待ってなきゃならない理由なんてあたしにはないよ。ましてやお前は一番小便たれのガキのイッシーじゃないか。」 声をかけてもらえるだけくれはの態度はありがたい。 その後からオズワルドは身体の上に積もった沢山の雪を払ってドアを開けて中に入った 初めての日、ドアを叩き待つこと二時間、ドアは開いたが隙間から出てきたのは刃物の嵐だった。 メスで鍛えた彼女の腕は身体を貫通させることも皮膚一枚を滑らすことも難しくない。 そのメスをかいくぐって訪れた男を相手にくれはは自分よりも縦も仰ぎ見る、横は数倍の大男を何も聞かずにぽいっと外に放りだした。 「あばよ。」 「うわっ!あ、待ってください私は・・・!」 その巨体に似合わぬ可愛らしい声にくれはは目を丸くした。 その時視線が合ってしまったのが災いしたのか男はその日、追い出しても追い返してもくれはの家の戸を叩いた。数時間の後、家の前で雪にまみれたあげく巨体に似合わぬ小さな瞳で何度も何度も「あのーー」「すみませんーー」とされて、ついにくれはの方が根負けした。 入れてはもらえたものの、彼女は黙って刃物を手で弄びながら反対の手で手元の梅酒の瓶を呷っている。身ぐるみ剥がれそうな気配の中、くれはの目の前の巨漢はそのとりつくしまのない言葉を聞いていたのか聞こえていなかったのか、唇をふるわせていたかと思うと・・いきなり彼女の前に身を乗り出した。 「お願いがあるのです!!先日城の医療図書室で偶然貴方の50年前の目の手術記録を見ました!!あれは・・!当時はまだ確立されていない術式だったはずです!そしてその患者に会いに行ったのです。」 おや?とくれはは男を見た。 「50年前?目のopeで王宮に記録・・ああミンナだね。元気だったかい?」 くれははカルテではなく記憶から50年前のカルテを引き出す。 「今でもご壮健でした。目に至っては手術痕さえ普通の診察では判らない!あのレベルを再発も再手術も無しで未だに健在だなどと・・・」 「当たり前じゃないか。それが医者の仕事だろ?」 「ですが・・・あれは・・あの手術は未だにその成功率がまだ一割を超えない物の一つです!城のイッシー達の手では不可能で・・驚きました。貴方の手は神の手だ!」 つい言葉をかけてしまったが褒め言葉に両手をすくめるとくれはは後ろを向いた。 「おやおや、けど褒めたって何もだしゃしないよ。言いたいことを言ったろ?さっさと帰んな。」 「ドクターくれは!お願いです!!私に!私に貴方の手術を教えてください!!」 土下座どころではない。彼の身長は人間体のチョッパーくらいはある。かなりの高身長のくれはですら見上げねばならないくらいだ。その大きな上背を一番小さな固まりにして地に額をつけ、涙混じりの声とその鼻から鼻水も漏れている。プライドなど全てかなぐり捨てて大の男が必死に頼み込んでいる。 くれはは大きくため息をついた。馬鹿な弟子志願はどうしてこう泣きべそが多いんだろうねぇ。 遠い空の向こうに独特の笑い声が聞こえる。 ふんと鼻でため息をついた。 「ワポルにばれたらお前の首が飛ぶよ。」 「でばっっ!!」 「あたしゃいつも通りにやるだけだ。観たけりゃ勝手に観な。」 「あでぃがとうございばす!!」 「馬鹿には勝てやしないさね。しっかしお前の声・・・・本当に面白いね。」 最後の言葉は分からなかったがオズワルドは許可の言葉に必死にすがりついた。 →next ←back back to home |