剣士・前編




男は枯れた両手で自分の杖を握りただ海を見ていた。
老眼用の眼鏡がぶかぶかでちょっと落ちてしまいそうな辺りは昔の肥えた面影を失った好々爺というあたりか。
彼は黙って。座って。そして待っていた。





チョッパーとナミはその日、船を下りて二人で買い出しに行った。
買い物も済ませた二人は自然顔がほころんでいる。
麗らかな陽気の日で、澄んだ空気が散歩にももってこいだ。
サニー号に向かう海沿いの道の途中、村の外れに海に臨む大きな丘があった。切り立ったがけの上に向かう緩やかな草原は緩やかな風を受けて草の葉擦れがざわざわしている。その上の方に大きな木が一本植わっていた。細かな葉を付けた大きな木。海の風に吹かれながらの落ち着いた姿。葉の緑の香りはあくまで柔らかい。

その木の下に一人の老人が居た。

「お二人は・・旅の方ですか?」
穏やかな声だった。それまでチョッパーすら気付かず丘につながる細い道を登ってきたので驚きはした。この道は彼らが船を止めた入江にはつながるもののそこを選んだのは人目に付かないというそれだけのことだ。人が居るとは思いもしなかった。だが、その老人の嗄れてはいても穏やかな声につられて警戒もせずに見た。木陰においてある椅子に座ったその姿はすでに骨に鞣したような皮が浮いたような細身ではあったが瞳は穏やかに微笑まれたので、つい二人とも驚いた後に微笑み返した。



「カジ・・何日も食べてないみたい に見えるけど?」
医師の目をしたチョッパーの言葉にカジと名乗った老人は乾いた唇とかさかさになった皺の間から微笑んだ。皺はあるのに毛も抜け落ちた頭皮自身がミイラのように艶を放っている。むせて咳をする病人を放って置けずに側を離れようとしないチョッパーの姿に彼を見上げるようにナミも草の上に腰掛けた。普段のナミなら相手に話しかけるのだが、何かが引っかかる。この人を知っているような感じがする。こんな所に知り合いなど居るはずもないのに。



「病を得たので、潔斎をしております。病で・・私はもう歩くことすら覚束ない。
それでも命を賭けても私にはどうしてもかなえたい願いがあるんです」
軽く震える手、杖を持つ手もマッチ棒のようだ。葦のようにすぐ折れてしまいそうにも見える。
「願い?」
「ええ。ただ一つ・・・」

言いながらカジの身体がびくんと震えた。
深いため息が漏れる。
「どうやら私の願いは果たされそうだ」

彼の視線に喜色が満ちる。指先が、体が震え始める。
肌は紅潮し、頬もその皺だらけの手も指先まで、まるで少年のような笑みだ。

誰かがこの坂を登ってくる。ちょうど日の光を背にしていて、その姿はナミとチョッパーには見分けにくい。

そのカジはその方向を観たまま足元の長い錦織の袋を取って欲しいとナミに乞うた。
足下の、身の半分以上はある長いもの。ずっしりした重さはナミにも判る。これと同じものをよく知ってる。
(これは・・)
思わずカジの方を見上げたが彼は遠くから来る姿から視線を外すことなど無く、その枯れた腕だけをすいっとのばした。









視線の先には男が一人、ゆっくりとその丘を登ってきた。
「あんたか、オレを呼んでたのは」

「ゾロォ?!」
二人の声はこだましたがそれはどうやら他の二人の耳には届かなかったようだ。

二人の間の空気が一気に重くなった。ビリビリと切れてしまいそうな興奮にカジの体は包まれている。
ゾロも・・おそらくは動じるはずのないゾロもカジの目から視線を外さない。
何だかいきなり他の空間に放り込まれたような感じがチョッパーとナミを重く押しつぶす。
ゾクリと背筋に冷や汗が流れている。チョッパーの耳の付け根もびりびりと伏せてしまいそうな恐怖にも似た重さ。
舌が縛られたように動かなくなった。


「待ちました」

カジの口元は艶めいていた。怪しげな紅の色に、透き通るような恐ろしさと肌の真裏を流れる興奮した血液がある。幽鬼のようだ。

はらりと膝から下の細い足を隠していた毛布が落ちた。
両側からあわせたように羽織っている一重は腰の辺りの帯でまとめられている。その合わせ目の合間から枯れて、萎えたガリガリの足が見える。カジが「歩けない」と言っていたのも頷ける脆さにしか見えない。
ところがカジはすらりと立ち上がった。伸ばした手が受け取った袋を手元に引き寄せて長い袋をするすると解くと柄と鈍色に輝く鍔が顔を出した。
立ち上がり、真っ直ぐゾロを見た。
「私はこの国の剣道場の道場主カジと申します。これなるは我が愛刀 三日月 匂できの打除けの美しさよりこの名を頂戴しています」
「どえらく古い作法だな」
古き作法には正式の果たし合いには名を名乗り、得物を確認する。
「私も古びておりますから。しかし腕ばかりはそうではありませぬ」
そのものの言い様はさっきまでのカジとは違っていた。
すっくと立っている。滑らかに揺れる重心の移動も腰がきちっと据わっている。正式の剣士の動作だ。
震えも収まり、かちっと刀に手を掛けて刀越しの瞳を中心に顔の作りが輝いている。

見返すゾロの口の端にも皮肉を含んだ笑みが浮かんでいる。

知り合い・・名乗っているところを見るとそうではなさそうだ。
「のようだな」

鍛え上げたゾロの前に立ってカジは引けを取らなかった。見るからに背の高さはあまり変わらないが付いている筋肉の量が桁違いだ。当たり前だが大人と子供のようにも見える。ところが気迫は全く引けを取らなかった。

「腰に三本とは珍しいですな。折れたときの工夫ですか?」
言う台詞にも侮りはなく、揶揄でもない。相手の力量を肌で測る剣士の問いだ。

「いや、オレは三刀流だ」
「ほう。初めてお目に掛かりますな。それは素晴らしい」

うっとりした声で呟いては見ても声の艶は胆力を持ったものの響きを含んでる。

ゾロが右手を白鞘の鯉口に掛けた。かちっとかすかな音が響き左手は刀を抜いて口にくわえた。
「こいつが、和道一文字」
白靭が光を受けて光る。すらりと滑らかに光る刃紋の上に二人の気迫が映って光る。一見静かで、それで居て荒々しく力強く打ち払えない気迫が刀に映る。映った力は持ち手であるゾロを侵略していくようだ。
「こいつは三代鬼徹。妖刀だ」
残る二刀をゆっくり抜く。朱の太刀拵えは粘りを持つような暗い光を放つ。粘り着くような刃紋も切れ味ばかりは引けを取らないと歌うようだ。
「そしてこれが」
黒刀は硬く荘厳に、それで居て大きく逆巻く丁字はそこに流れる荒々しさを隠さない。

「それは・・秋水ですか?」
「知ってんのか?」
「歴史に残る名刀です。キング・ド・リューマの腰のものと。失われたとばかり聞いていましたが。いずこで手に入れられた?」
「本人に貰った」

本当のこと故に事もなげに言ったゾロの答えは本来おかしいモノなのだ。ゾロはその刀をゾンビになった彼に貰ったのだから。
だがその違和感にもカジは頓着しなかった。
どちらにとっても問題にすらならないようだ。

「そして俺はロロノア・ゾロ。海賊だ」
ゾロは左腕から黒の手ぬぐいを外すとそのまま額に締め始めた。

「待ってくれよゾ・・」
チョッパーの声は彼に届かない。
「・・ロ・・」

ナミは声も出せずにぎょっとした。手ぬぐいの意味合いは聞いて無くても知っている。こんな老人相手……だからこそ?問うように視線を向けたがそんな状態のゾロからの答えはない。ならばなおのこそ、自分たちはここにいるべきではない。

こんなに麗らかな日なのに。ゾロなのに。まるで知らない男のような冷気だ。
だがナミは知ってる。これは・・・ゾロなのだ。
ナミの周囲にまでしんしんとゾロとカジの気のような冷気が敷かれた。




「下がってろ出来るだけ遠くへ・・だな」
最後の問いかけはもうナミやチョッパーに向けたものではなかった。
「ああ。私もそう願いたい」
カジの答えにナミはきゅっと唇をひき結んだ。
結んだ唇に思いをこらえて、沈黙のままくるりと振り向くとチョッパーの手をこれも固く結んで駆け出した。
「ナミッ?」
引きずられるようなナミの異様さにチョッパーは抵抗できなかった。最初は人間型になろうとしたのだ。それをナミの手はさせなかった。人獣の形から見上げれば真っ白な顔をしている。
「ナミッ?」
草原の中、少し離れたところに大きな岩がいくつかそびえているところがあった。そこにたどり着いてようやくナミは肩で息をついた。
チョッパーには何が何だか判らない。けれどゾロの本気とナミの本気は判る。彼も口もきけなかった。

「刀が鳴った気がしてこっちに来たが・・拾いもんだったぜ」
「これほどのものが呼べるとは・・呼んだ甲斐がありました」

カジは静かに構えた。磨き上げた鏡のような湖面に映る揺れない月のごとく。刀に浮かんだ幾つもの白い三日月だけが真昼の光を受けてその色を変えた。

「こねぇのか?ならこっちから行くぜ」
ゾロが構えて打ち込みに行った。その移動は獣のごとく大股で走り込んでも音をたてない。


ギィン!

互いに向かい合う瞳には相手と太刀だけが映る。

空気中に広がりながらも凝縮される剣の狂気。

カジの全身が歌い上げる。ああ、この幾年、貴方に会える日を待っていた。
全身を興奮と歓喜が貫く。

交わった太刀の音が、二人の醸す空気が、穏やかに見えたこの草原中に響いて嵐を起こした。






(続く)