『煙の行方ロビン編12』
小さな島のオレンジの夕日の中。 想い出はいつもそこに帰っていく。 「べるめーるさぁん!おきゃくさんだってぇ!」 村の人に教わった家の玄関先で小さい空色の髪をした女の子が大きな目を開け大きなフードの中の私の色の強いサングラスをじっとみてから家の中に転がるように走っていく。 「ノジコ、しー。やっと寝たんだから。」 「ほぇっ」 女の子は急に息を吸い込みその口を両手で押さえた。 ベルメールの手の中にはおくるみの中から見えたオレンジ色の髪の毛。 その物体をそっと小さな箱に作った粗末なベッドに置く仕草はとても戦場で見たものと同一とは思えなかった。 顔を上げたベルメールはその子のおくるみを解いて布団にすると、そのまま家の玄関先に呆然と立っていた私の横に立った。 「出ようか。ノジコ、その子看ててね。」 「うん!」 口元だけに笑みを浮かべた気怠い彼女らしい無愛想さに変わりはない。 先に立って歩く彼女が足を止めたのは自宅からすぐの広く海の見えるやや大振りの木の下で、崖の上だった。村とは反対側で静かだ。他の人の気配はない。 「良い眺めだろ?ここの海は最高なんだ。」 先ほどからの無言。さらにはのんびりした気配に私の神経がぴりぴりときれそうに尖っていく。耐えきれなくなって後ろから側頭骨を狙い拳を入れた。通常の人ならぶつかった衝撃が効率的に脳にダメージを与え脳震盪を起こさせられる所だが軍人の彼女が反応出来ないわけがない。 その一撃は腕一本で軽く止められた。伸びたまま捕らえられた私の長袖の厚い軍服と分厚い手袋の隙間から腕輪が飛び出すようにはみ出した。三連のそれは殺気を放つ私と受けるベルメールの間でしゃらんと澄んだ音を立てる。 「危ないなぁ。」 にっこり微笑んで空いた方の手で煙草を取り出し箱から唇にくわえて、そして私にも差し出した。 「どう?」 「ベルメール、あんた・・・・・・・!」 「ウサギ。あたし、降りるからね。」 確固たる声の響き。 「止めに来たんだろ?けど、あたしはもう降りる。軍人には戻らない。」 風がまだ陸から吹いている。島の夕暮れは長い。 自慢だった赤毛はその根元から皮膚をもケロイドに剥きその根元を奪いもはや波打つあの髪の煌めきを見ることはない。残り少なくなった髪をかき上げて軽くいなした口元に余計に腹が立つ。一度この職に就いた者は離れられないはずだ。本能的に。そう信じたのに。 もう彼女は行ってしまう。 遠い大地に根を据える。 「無理に決まってるじゃないの。一度戦闘の味を覚えた人間がそんな簡単に野には下れない。」 普通の人間ならその特権に味を占める。だがそんな女ではないことは百も承知だ。それでもこれこそが彼女の天職と信じていた。だから彼女の思いをもう一度問いたかった。 だが彼女の口元からでるのは煙草の煙だけ。血に染めたその手は地には染まらない。判っているくせに。 「皆の期待も背負って、人に煙草の悪癖も押しつけて・・それでもあんたは子供のために降りるっての?」 私の言葉も言葉にならない思いも、もとより全て彼女に届いているのはわかっていた。 「うん。もう決めた。降りるよ。」 涙があふれ出た。 サングラスもマスクも堰とはならなかった。日光に弱い私の肌でもかまわない。 蜜柑色の、私にとっては強烈な日差しの下で私はわんわんと子供のように泣き始めていた。 泣いている間ベルメールは何も言わず私の白い髪をなでていた。 「相変わらず泣き虫だよねぇ。」 「・・・・・誰のせいよ。」 その答えの代わりに口元が笑った。 「あたしはここに残る。だからあんたはあたしの分も頑張ってよ。」 これからも二人で同じ道を行くと信じていた。遠くで滅多に会えなくても思い合うつながりを感じていた。 それが失われてしまう。 悔しさと無力感に拳を作る私の腕ではみ出した金の環がまた鳴った。普段はこんな目立つ物を長袖からこぼすような事はない。決して見つからぬように仕込んだ袖にしてある。それがこぼれた事にふと奇しき縁を感じた。 「判った。これもってって。」 自分の左の腕にある血飛沫が掛かってもその色も艶も失われない三本の金の細工。部族を切り捨てて名前まで変えた私の最後の品だ。 腕輪の上に通常の五倍の細さの線で描かれている細かい彫りの模様。さほど太くはない腕輪にびっしりと書き込まれた文様は部族が一番大切にしてきたものをモチーフに描かれている。その部族は滅び、また仕事を変えている。 指しだした手にベルメールが苦笑したそのとき。 「べるめーるさぁん!」 細い声が大気の間を通ってくる。声と一緒に小さな女の子が走ってきた。さっきの子だ。ベルメールと家族として生きていく子。 子犬のようにくるくるした髪ではぁはぁと息を切らして全身でぶつかってくる。そのままベルメールの腰に両腕をまわして絡みついてしがみついて、あたしを睨んだ。 己の巣を奪おうとするモノへの敵愾心か、目つきだけは一人前に。じっとこちらを見上げて視線もそらさず睨んでくる。 「なんだいノジコ、あたしは今お客さんと話してるところだよ。」 子供相手でも唇を曲げて睨んで見せている癖に眼は優しい。 「あのね、あの子、またないてるよ。こんどは、なきやまないの。いま、ドクターが、だっこしてる、けど。」 一身全てをベルメールに向けてたどたどしくもたくましく話す姿。空色の柔らかそうな髪。 いと小さきものを見たとき、この瞬間胸が痛い。自分の命を繋げないという誓いが私の根本を縛り付けている。誓いは絶対だ。長の命に従えなかった私でもバウの誇りはやはり捨てられない。 逆らえない私こそがこの温もりを欲しているのに、ベルメールだけがこれを手に入れるなんて。過酷な戦場を下りるだなんて。 もうひとつの小さい命。それくらいは私が貰っても罰は当たらないのではないだろうか? そんな暗い誘惑が私の胸の隙間にこっそり忍び込もうとしていた。 「ノジコ。『あの子』じゃないよ。名前はナミ。」 ベルメールの声音は優しくてそして透き通っていた。叱咤ではない。子供はきょとんとした眼をしていた。瞬きを忘れてぽかんと開いたまま。それが一呼吸置いてぱっと輝いた。 「・・きまったの?」 飛び上がってベルメールの回りを跳ね回る。 「うわ〜〜い!ナミ!ナミだね!!あのうみのナミなの?すっごい!」 「そうよ。それにもっと凄い意味もあるんだよ。」 「そうなの?すっごい!!」 跳ね回っていた子供はぽんと気が付いたように振り返ると慌てて来た道を俄然とって返し始めた。 10歩ほど行った頃に振り返る。片手を大きく振っている。 「ベルメールさん!ナミ!ナミだね!!きっとそうよんだらなきやむよ!おしえてくる!!」 ナミ・・・・私の耳だけがそう動いて、それは音にならなかった。 走りゆく子供を転ばぬように眼で追い掛けていたベルメールがそっと呟いた一言は私の心臓を止めんばかりだった。 「ノーナ・ミヴァス」 低い、ややかすれた声が私の名を呼ぶ。 たった一度、別れる前に私が呟いた、ほんのささやかな言葉を彼女は確かに覚えていた。 ・・私の真の名前。 余人には教えない、部族に伝わる本人と親しか知らない本当の名前。己の子孫に伝えねばならない大切な名前。神に捧げる名は人の物ではない。伝えゆく尊きものなのだ。 ベルメールはニカッと笑って固まって動かない私に振り向いた。 「“空”“命”“大地”だっけ?その三連。“ノーン””ナミ””ヴァス”」 「覚えていたの?」 「みさごっていうあんたの名前もあたしは好きだけどね。」 みさごは白き鷹の名。そしてその三語はバウの古語だ。真の名は古語で付けられる。 己の親と子にしか伝えることを許さないその名を例の訓練の最後の時にベルメールにだけ口にした。たった一度、囁くように。 その時ベルメールは返事をしなかった。みさごにとっては彼女の耳に届かなくても良かった。 だが伝えた。もう子供は持つことはできないという部族の掟に縛られてしまった自分の精一杯の抵抗だった。 煙草の煙は二人の間から空へと拡散する。ベルメールは指で軽く私の頬をはたいた。 「名を継ぐことが部族の誇りって言ってたよね。」 その環と共に繋げられていく、命と言葉とその言葉が生涯の守役になると言う誇り。 「もう次へ繋がないって言ってたけどあんたとあんたは続けられる。人が伝えるのは血じゃないよ心意気。あんたという親からもこの名前を受け継いだこの子はきっと命を大切にしてくれる子になる。 いいえ、あたしがきちんと教える。生きていく事の重さと尊さを。」 親??聞き慣れぬ言葉に戸惑う私をからかう、昔からの癖のある笑顔は更に大きく大きくなっていく。 ベルメールは私の腕を引いた。長袖の中の腕輪を差し出させる。 「さぁ、どれがナミ?」 恐る恐る指で示すとベルメールは三連の環を外し指さした一本以外を私の腕にぎゅっと返した。 「これがあんたがあの子の親である印。あの子等が大きくなって継がせる気になったら持ってきてよ。それからノーン、空はどれ?」 言われるがままに示せばベルメールは空の腕輪も私に返してよこした。 「みさごは白き鷹。飛べる鳥。だから空は持ってないと。地に降りたあんたはまだ見たくないよ。」 そして最後の一本を彼女は自分の腕に戻した。 「そしてあんたが命を全うして堂々と大地に根を下ろす気になったらその腕輪ごと伝えにここにおいで。あたしがこれまでその“ヴァス、大地”を預かるよ。」 ベルメールの顔が陽に輝いていた。返された二連の腕輪は私の白い腕で陽の光に輝いた。 今までよりも誇らしげに。 いにしえより部族に伝わる腕輪だ。部族がその日を消し去る今、もう託す者などいなくなるはずだった腕輪だ。私が死ねばただの環になる。その由来も意味も名前とともに消失ずるはずの。 私の中に鼓動が響く。道も想いも途切れはしないと答えてくれる。跡切れない命には些細でも価値がある。失っては行けない。粗末には出来ない。伝えるべき言葉が想いがその相手がいるのだ。 ベルメールはもう一度胸のポケットから煙草を取りだした。 オレンジの日差しの中、ベルメールは短くなりすぎた煙草を吸い殻入れに入れ、新しい煙草に火を付けた。 二人の腕に細いオレンジ色の腕輪が輝き、私は差し出された煙草に手を伸ばしていた。 後に空の腕輪は奪われた。 奪われて、流転して。その腕輪が最終的にナミの盗品に含まれていることが調査で解った。 知ったとき心臓を捕まれるような運命を感じた。 腕輪自身が自分でその行方を見つけたのだろうか。すでにアーロンはその腕輪を受け取ることなく捉えられ、金額を変えた麦わら帽子の笑顔がグランドラインにばらまかれていた。 そして絶対見つかるはずの空の腕輪は驚いたことに大地の腕輪と引き替えられて空色の髪のノジコの元にあった。飛べない空よりも大地を選んだ少女の成長した腕に入れ墨と共に輝いていた。「空も海もナミと繋がっている、だから寂しくなんか無い」そう言いきって笑顔を見せる彼女の腕にそのまま残してきた。 伝えられるべきものはベルメールがきちんと伝えてくれていた。だから何も言わず、ただ空からも大地からもその恩恵が彼女に届いて欲しいと心から願った。 彼らが通した風穴から海からの風が吹き込んでくる。 壊したのは古く使われなかった塔。今後は改装されてこの海域を照らす灯台として再び命を得るだろう。 彼らの内に眠っていた情熱を引き出してくれたのは彼女の娘の仲間だった。 きっと彼女は心から満足した顔でこの煙草をくわえ嬉しそうに言うだろう。 (いいでしょ?) 飛び立った娘へ思いを馳せて懐から取り出した最後の一本の煙草に火を付ける。 深く吸い込んで口の中で溜めてゆっくりと吐き出した。 手足の冷え込みを伴う深い恍惚感。 自分ももう旅立つ。後顧の憂いはすべて煙とともに風に乗って飛んでいった。 「お前だけは最後まで一緒について来てくれるのね。」 軽い含み笑いとともに内ポケットの新しい箱の封を切って、そこを軽く叩いて新しい煙草に手を付ける。 新しい煙が一筋、夕焼けの空に吸い込まれていった。 終 |
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Photo by Sirius