(三日目夜)
雨がたっぷり降ったから緑の甘い臭いがいつもよりももっと凄い。その緑がどんどん濃くなって宵闇の紫に変わりゆく。その紫も濃くなって少しずつ闇が広がり島は闇に包まれる。空は抜けるように星が瞬いている。昨日から遊んだ森の中からは闇の中、ほうほうと鳥や虫の息吹を伝えてくる。
手を取り合ったり車椅子を押したり、この三日間で馴染んだお陰で班で固まって飛び出てくる者も、ゆっくりと来る者も気分はそぞろ浮かれてる。
今日の昼過ぎまでの雨の分、キャンプファイヤーをじりじり待つ気持ちが全体で大きく渦を巻いている。
仲良しになった誰かと思い思いの場所に陣取ってざわざわとした期待の渦の中、一番年のいった先生がマイクを握った。
「皆さん!これが最後の行事になります。
明日、皆さんはおうちに帰ります。
来たときにはそれは不安だらけだったみんなの顔が、今ぴっかぴかになったことを先生はとっても嬉しく思います。
あなたたちは未来の住人だ。限界など知らない。やりたいことは何でもできる。
ここはその第一歩です。おうちに帰ってからもここで貴方たちが出来たことを思い出して、そしてもっと元気になってください。」
深く、軽く。重く、静かに。じんとした感動が皆に伝わる。
皆、この三日間の短い間だったけどそれぞれに何かを感じて身のうちに蓄えているのだ。
点火の準備が進んでいく中、一人の影がすっと立ち上がった。
「ゾロ?」
「悪ぃ、小便」
「すぐ始まるぞーー裏の林ですりゃいーじゃん」
「ルフィさん!そんなこと言っちゃダメですよ。ちゃんと手も洗ってきて下さいね」
「いーじゃねぇか!ぼうけんに言ったら手洗いなんて無いぞ!」
「しーーだまっとけルフィ!」
真剣さを含むビビの声もルフィの笑い声も混ざって合わさって一緒に歓声に変わる。最初喧嘩してたくせにいつ仲良くなった物やら?ゾロも自分の背後で聞く声の楽しさに心が騒いだ。仲間に戻りたいと心が急かす。
手っ取り早く・・・・と思いつつもビビがうるさいので言うことは聞いておこう。小便に手洗い。
最初、島に来た頃はビビのほうがおとなしかった。いっそ鬱いでいる風もあったと思う。その辺りナミやサンジが面倒を見ていたのだろう。だが今は二人は離れたところで座り、ビビはうって変わって騒いでる。少々喧しいくらいで、キャンプファイヤーで興奮しているルフィとシンクロしている。
ナミは一番向こうで黙ってるのがある意味不自然だ。隣のサンジの懸命な声掛けにうつろに答えている。らしくないとは思うがそれほどナミを知っているわけでも無いのだからそう言うこともあるんだろう。
それより早く帰らないと点火が始まる。
宿舎の裏手に外用のトイレはある。手洗いして水を切って履いてるジーンズで手をはたく。
向こうの音が大きくなった。慌てて向こうを見ると振り回された木切れからどうっと火の粉が飛んだ。もっと沢山の歓声が聞こえてもっと沢山の火の粉のあがったのが見える。ちぇ、始まったか。
パチパチと、最初は小さな小枝や燃料が燃え上がる。それらが空中に火の粉を舞いあがらせる。
『綺麗だな』
ゾロは思った。
まるで燃える蛍だ。
不思議が大好きなチョッパーにも見せてやったら喜ぶだろう。
そう思いながらのばあちゃんの言葉が少し胸をよぎる。
(興味があってもなくっても少し見てくると良い)
今回のメンバーにぜんそくは数人いたがどいつも薬のコントロールがうまくいっていた。昔は病院に半分以上入院していた奴もいたという。うまくやればチョッパーもこういうところに連れてこられるかもしれない。確かに今のチョッパーは煙にも弱いから花火も無理だしここに居るだけでも発作になるだろう。発作が出たらすぐに吸入とか点滴とかが要るくらいまで悪くなる。だからまだ無理だ。
けど、ここまでになれる。いつのひか。必ず。させてやる。
チョッパーは何もかもを我慢している。その弟に何とかしてやりたいととても思った。
心臓と喘息と。この二本柱は辛いらしい。
あの強い祖母の見せない嘆きも本人の我慢から来る強さも知ってる。
体が弱いからと言って自分のようにたまたま剣道が強い奴らよりももっともっと強い力をチョッパーは持ってる。
チョッパーのために。
そして誰かのために。
それは自分のために。
自分のやりたいことがキャンプファイヤーの炎で揺らいだ大気の中におぼろげな姿になってゆく。
思って眺めているうちに大きな影がぶつかってきて走り去ろうとした。
「お・・?!」
「ごめん・・あ」
自分には力がないと、ずっと思っていた。
それを察していたのだろう姉はくり返してくり返してでも立った一人で言い続けていた。
「母さんはあんたを大好きだったんだよ。ああしなかったらその方が怒ってるよ」
静かに優しい瞳で語られるその言葉。
大好きな姉の言葉を疑うことなど一度もなかった。
それなのにこの言葉だけは 信じられたことはなかった。
辛いことがおこると無意識に肩の傷をかきむしってしまう。ナミの火傷は幸い左肩の大きな傷を残して他はわかりにくくなった。
見られたくない気持ちと見たくない気持ち。そこはいつも、いつも包帯で巻いて服で隠してある。
スタイルには自信があって、足や体幹に傷が残って無いから短いスカートやパンツで足を出し、いっそヘソまで出すことの多いナミが肩を出す服を着ることはなかった。
あの時。遠い昔。
忘れられない記憶。
ごうごうと耳の中で風と火がうねっていた。
いつも母は仕事だったから、買い物でもなんでも一緒にいるのがそれだけで楽しかった。
その日、買い物途中のビル火災で、逃げ遅れた自分を見つけたときの母の泣きそうな顔は忘れない。
母と一緒に脱出しようにも火の手は周囲からあがりもうもうと襲い来る煙で全く見えなかった。
僅かな隙間の空気を吸いながら隣の部屋に逃げ込んで、同じ状態の部屋で、天井からぱちぱちと火の粉と一緒に大きな固まりが落ちてきた。
窓際の机の下に逃げ込んで母はいつもの笑顔でこう言った。
「ナミ?大好きな蜜柑みたいに丸くなってごらん。手も足も蜜柑にはないよ?ほら。やってごらん。」
母の笑顔はいつもの笑顔だった。大好きな、母さんの笑顔。
ごうっと熱い物が来て母の呻き声とその机も吹き飛ばされた事もまだ覚えている。
母は覚悟を決めたのだろう。丸くなった私を抱えて走り始めた。
焼け落ちてくる炎に包まれた天井。母は全身で自分に覆い被さって何度か身体を震わせる。
「おかあさん、こわい」
「こわくないよ」
「おかあさんいたい?」
「いたくないよ」
母の声が優しくて恐くて・・記憶はここまでだ。
背中側の半分と両足を炎に焼かれながら母が自分を抱えて焼け落ちる寸前の窓から飛び出したことは後から聞いた。
落下の傷と火傷がナミを庇った以外の母の全ての肌を深くまで焼き尽くした。
そして、母は私のために命を落とした。
身体の皮膚と芯を揺さぶる焼け焦げる臭い。ぱちぱちとはぜる音。揺らめく火の動き。
どれもがあれから5年を超えた今でもナミの動きを封じ込める。身動きできなくなる。
例えばろうそく程度なら我慢できる。それくらいにはなってる。
それでも小さなたいまつも、ガスコンロも得意ではない。
ゆれる火の粉も炎も辛い。
だが。
キャンプファイヤーがあると判っては居たけど席も遠いし人も沢山いるから何とかなりそうに思ってた。逆を言えば遠くに大きい炎があることを判ってて一人でいる方が恐いからここまで来た。
ビビとケンカした後だけにキャンプファイヤーに参加しないで一緒に付いていて欲しいとも言えなかった。それにあいつらの騒ぎがもっと楽しいだろうと想像したが、もう小さな火をくべられたときから湧き上がる唾が押さえられない。身体は硬くなる。
押さえなきゃ。みんなといるんだし。倒れちゃダメ。
ナミはごくんと唾を飲み込んだ。余計に吐き気が強くなった。
わーわーと遠くで声がする。
遠くの声が反響する。
ナミの中でわんわんと響いたただの音は遠くなり・・ナミの意識も遠ざかる。
火のことは考えない方が楽だから意識なんて手放すのは簡単だ。こう思っちゃいけないのに。
だめだ。
やっぱりこんな大きな火は恐くて仕方ない。動けなくなるその前に。
「あたし・・忘れ物・・取ってくる」
「ナミさん?」
「ナ・・ナミ?」
横で気を遣ってくれてたサンジ君が付いてこようと腰を浮かしたので手で止めた。こんな姿は見られたくない。
皆に微笑みかけて軽く手を振ってナミは逃げ出した。
多分これでばれないとは思ってる。なんて小心なアタシ。
その横から呼吸が荒くなる。口の中が気持ち悪い。
遠くまで逃げなきゃ。それもうんと遠くまで。
ナミは必死に逃げ出した。
ぶつかってきたのはオレンジの髪だった。
「お・・?!」
「ごめん・・あ」
「すまね・・・なんだ?ナミ?」
ナミだ。
だけど昨日よりもずっと顔色が悪い。
まるで発作の時のチョッパーみたいだ。もちろんチョッパーは苦しそうで真っ黒に近くなるし、それに比べるとはぁはぁ言ってるがずっと白い。変なのは間違いない。
そう言う奴を一人にしてはいけない。ナミが倒れそうにも思えて思わず手を引っ張った。
「!・・はなして・・。」
「ダメだ、今度こそ先生呼ぶぞ。お前も喘息か?呼吸(いき)が止まったらやばいだろ。」
「やめてよ・・違うから・・」
捕まれた腕を振り払おうとしたナミの呼吸が更に荒くなった。
はぁはぁと制御がきかない。
短く激しく。呼吸が止まらなくなる。
そして足にも手にも力が入らなくなった。
身体が落ちる。
「おい!ナミ!」
ゾロが手を出したが間に合わず身体は下に崩れた。ゾロが握っていた手だけ離さずいてくれたおかげで頭は打ち付けず大丈夫だった。
彼女の頭ごと木の下の草地まで崩れるのを何とか横にすると
「おい」
声を掛ける。答えは返ってこない。だが何かを呟いてる。
「・・お母さ・・・・・・・・・・・・・」
ナミらしからぬ変な声だった。ナミも判ってる。意識はなくした訳じゃない。力が入らないだけ。なのに止まらない。
「・・や・・いや・・・・・火・・やだ・・・怖い・・」
ゾロは慌てた。かっとしてくる。これは・・ほとんどうわごとに近い。
呼吸が荒い。もの凄く激しい。見るからにおかしい。
火?
思い当たるのは・・キャンプファイヤー?
前のは竈の火?
こいつ?!火がダメなのか?
今も顔色は真っ白。独りで走ってきたところを見るとまた辛くなったのに誰にも黙って無理したんだろう。
こいつはいつもそうだ。
「なんでだ?こんなでキャンプファイヤーになんて出るな!!前ん時も火か?ダメなら最初ッからやめとけ!」
具合の悪い奴に怒るなっていわれてる。やっちゃいけないことは判ってる。
けど言わずにいられなかった。
「自分で自分を悪くすることねぇだろ?何も答えられないくらい悪いじゃねぇか!」
前回よりも具合の悪そうなナミを見ると落ち着かなくなる。
けどゾロは何も出来ない。これじゃ前みたいに側にいてやればいいわけじゃない。
何もしてやれない。出来ないのに怒ってしまう。
自分は最低だ。
ナミの意識はしっかりしていた。体に力は入らない。手も足も言うことを聞かない。口は勝手に何か言ってる。それでも意識はある。
だからゾロのやることを見ていた。
ゾロが怒ってる
だって。
一緒にいたかった。
みんなと居たかった。
こんなに楽しそうなのに一人で部屋にいるなんていやだった。
泣くつもりなんて無いのにどんどん涙が溢れてる。
「ちっっ」
ところがゾロはそのまま立ち上がって駆け出した。
驚いたし、ちょっと待ってと言おうにもおかしい。口が動かない。
一人で放置されてしまうと寂しくなるし恐くなる。どきどきが強くなってもっと恐くなる。呼吸もハアハアともっと苦しくなった。
こんなになるならキャンプファイヤーなんて無視すれば良かった。もうちょっとあいつらを眺めてみたかったなんて思わなきゃ良かった。こんなにあたし寂しいし辛いのに一人でほっていくなんて、ゾロの馬鹿!冷血!この間みたいにちょっといてくれたらあたし治るのに!
今度は力も入ん無いしそれに病人をこんな所に捨ててく事無いじゃない!
「おーーーーい」
数人の足音が響いた。
先生達が来て一気に診察されて小さな袋をくれた。それを口に当ててゆっくり息を止めるように言われた。驚いたけど言うとおりにしたらどきどきも苦しいのも少しずつ収まってきた。
「ロロノア君?ナミちゃんは大丈夫だから。ありがとう、もう良いよ。あっちに参加していらっしゃい」
先生の独りがゾロの肩を優しく押して言ってる。
ずっと端っこで見ていたのは知ってる。なんどか大丈夫だからキャンプファイヤーに戻るよう促されたがずっと居た。居てくれてた。
怒ってる?さっき怒ってた。きっと怒ってるよね。なのに居てくれたのは優しい奴だからだろう。
軽やかな足音が遠ざかる。ゾロは出て行った。私の中にあったかいものが消えたような喪失感だけが残った。
先生の声は優しく聞こえてる。
「急いで呼吸しなかったら大丈夫よ?キャンプファイヤーに戻る?戻れるくらいには直になれるわ。大丈夫だから」
ナミは首を横に振った。体は少しふらつくけどもう大丈夫。
「保健室で休みます」
「それが良いわね」