男が立っていた。
洞窟の奥、二人の反対側の泉のほとりに。先ほどのマントのような衣装だがこの男は顔を見せている。男は背が高い。非常に長身で細身な体躯で黙ったまま、ただ絡み合った二人の側に立っていた。
いつから二人をただじっと見つめていたのか、その気配はいつ現れたのかゾロにもナミにもわからなかった。
年齢を感じさせない褪せたような長い髪が足下にまで下がっている。視線に気が付いたゾロが顔を上げ、ナミも振り返った。
「誰・・・?」
「ここは禁足地。足を踏み入れただけで呪いを受けねばならない。入島の際にそう言われているはずだがそれも理解しえない獣に島の地をふむ機会を与えたというのか??」
男の声は静かに響く。反響はせずにただ、山の方に声が抜けていく。

「何っ!」
「この島の神官としては、そう言う行為をこの島の母なる泉でなされれば許す訳にはいかん。」
ゾロは既に構えの気配に入っていたが、静か故に怒りを秘めた声に、二人ははっと体を離した。それでもふたりはじっと相手を見据える。強く。誰何するように。己の全身をかけて相手を。

「母なる泉?」
それでもナミはぺたんと座ったままだった。瞳の強さ以外は力が抜けたようになり鸚鵡のように相手の言葉を繰り返す。
「何という強き瞳・・・何故お前達がここにたどり着いたのだ?
教えよう。この水がこの島の全ての生き物の体内に入り、島に霞と現実を交錯させる・・・。こここそがこの島の存在する故なのだ。島の源流なのだよ。この水が島を潤し皆をそれぞれの世界に連れて行く。だからこそそこを守る神官としてはそこを汚されては絶対に許せない。」
「汚すったってここにいただけじゃない!それくらいで・・・・」
「ここにはここのルールがある。己の尺度で罪を決めて貰っては困る。そうならぬように警告してあったはずでこちらに落ち度はない。
 それを破れば皆同じ。罰を受けて貰うのだ。」
静かなる宣告。空島の五月蝿い神官よりももっと冷たい声だった。
「ふむ・・『男を誘いたる女の方が罪が重い。』」
「んだと?」

すっくと立ち上がったゾロはナミを背後にかばい逃げろと身体を押しやった。

「関係あるか!勝手にそっちが言ってる事をはいそうですかと受けてられるかよ!」
ゾロの気が一気に膨れあがる。だが相手もゾロの気負いに鏡のように相手の気も強くなる。強く、静かなまるで植物のしなやかさを持った物言いが耳に響く。
「問答無用。島の呪い、受けて貰う。」

その言い方がゾロの逆鱗を一気に攻めた。はじけ飛んだようにゾロの周囲からしぶきのような湯気のようなオーラが飛び散り始める。
「呪いだぁ?んなもん糞っくらえだ!おもしれぇ!受けて立つぜ!」
「ゾロ!!止めて!」
既に腰の得物に手をやったゾロは構えて呼吸を沈めた。手ぬぐいはそのままに三本を抜くタイミングを計っている。
男の前に立ちはだかる物が現れたのだ。理由など要らない。男は真っ直ぐ前しか見ていない。こうなった彼にもはや言葉など無意味なことをナミは嫌と言うほど知っていた。


「ナミ!?どうした?」
「ナミさん!どうした?」
ナミの叫びと同時に実にタイミング良くサンジもウソップもチョッパーも現れた。
洞窟だったはずの周囲は壁がなくなり谷間の壁に彼らの声が響き渡る。ナミ達と反対の方向から現れた彼らの姿に少し安堵する。
「どうしたぁ?みんなで何やってんだ?」
のんびりした声も聞こえてきた。
「ルフィ!!何処行ってたのよ!!」
仲間が揃った。もう大丈夫。


だが。
良く通る声で言上げされたその言葉は皆の耳にすんなり入った。
素直に入って皆の中に染みいった。

「獣であるは男のほうか。では呪いはお前が受けるが良かろう。お前に言葉など必要在るまい。喋れぬ獣。太古の獣、黒き獣となれ。」

声と共に落雷が落ちた訳ではなかった。
ゾロが光った訳でも、煙に紛れた訳でもなかった。
だが皆がそこに見たのは巨大な狼だった。



「これ?」
「おいマジかよ・・。」
「狼だ!!」
直立に立てば本来のゾロくらいの大きさはあるだろう。四つ足で立っても小さいチョッパーより遙かに大きい。鋭い目つきに全身は緑に光る黒。黒と赤と白に光る歯。そして左耳には三本ピアスが揺れていた。

そのまま狼は池に立つ人影に飛びかかろうとする。が、池にかかった木の枝を薙ぎ払っただけだった。だが向こう岸の岩も蝋燭を切ったように落ちた。切っ先は鋭い。まるで鋭利な刀で切ったように。だが狼に見えるゾロの手に得物はない。
「今・・歯で斬ったぞ!!」

狼は一旦水面に映った己の姿を見たようだ。だが一呼吸の逡巡の後、狼は男を襲うのを止めようとしない。
「止めて!そんなことして戻れなかったらどうすんのよ!!」
今一度のナミの叫びに臨戦態勢に入りかかった全員の緊張に亀裂が入った。

「どうしたの?」
別働隊だったロビンが鬱蒼と枝垂れた木の向こうから追いついてきた。枝を押しのけて池の周りの緊張を不思議そうに見た。
「ゾロが・・・ゾロが・・・狼になっちゃったんだよ!」
チョッパーが潤んだ瞳で叫んだ。
「航海士さんを襲ったの??」
「違う!!」



四つ足の獣は水面に映った祭壇の前にいる男の前にじっと立っていた。
ただ見つめている。
ただ見つめている。
男もただ見返している。ただあるがままに耳の中に入ってくる。
男の声は晴れない空気の中、凛と通る。無理はなく。
「我がお前の何かを奪ったと言うのか?
 我は敵ではないそれでも我を敵と狙うか?」

詩の朗読のように静かな声は沁みてくる。
己の行動を移す鏡をその眼前に置かれたような気持ちになる。
 
「我の命を奪うはたやすい。拳も刃物も持たぬ身だ。持つは己の天命のみ。
 主が我を敵として斬るは己が招いた運命を人のせいにして生きていく無責任と通ずる。
 主がした事もしなかった事も全て主の物だ。勝つも負けるも生きるも死ぬも。
 それを受け入れないのなら大人しくこの島で我の命を狙うがよい。
 我はその定めに従おう。お前はそう言う生き物なのか?」



黒狼は視線をそらした。
興味を失ったように後ろを向いた。


二人の間に漂う緊張が途切れ、その間に涼やかに声が通った。
「仮に姿を変えられたのだとして。」
ロビンの静かな声はルフィやサンジをも落ち着けた。
「その姿を戻す方法は?」
あまりな・・だが冷静な質問に皆の視線がロビンに集まった。ロビンは男を見たままにっこりと微笑んだ。
「あるでしょう?」


男は深呼吸を一つ。
「この島にはない。早く立ち去ることだ。」
「・・・“言葉”だったかしらね?」
男はじっとロビンを見て背を向けた。
「さぁな。欲しければ探せ。この島にはないぞ。お前達はそれが出来る命達なのだから。」
男の姿はかき消えた。後には黒狼と6人が残された。







昼遅く過ぎに遠くの海の嵐が澄み渡り、空が少しばかり晴れた。霞がかかったような空気の中、日は落ちつつあって茜色に海が染まって来ている。
巨大な光の具合によっては緑に見える黒狼が一頭甲板に寝そべっていた。
巨大な獣はあくびをしてそのまま頭を前足の間に置いた。その目つきは確かに似ている。皆がいる前で変わったのだ。だから疑い様はないのだが・・。刀は何処に行ったのだろう?服もそのままで何処に消えたのか?細かく言えば切りのない疑問は目の前の奇跡に飲み込まれる。

あの夜、狼は黙って船に戻った。
ナミも「疲れた・・。船に戻るわ。」と言ったので、クルー達も三々五々と何となくその気になって小屋には戻らず船に帰ってきてしまった。
そのままナミは部屋から出てこない。食事はロビンが運んだが、殆ど手を付けられないまま帰ってきた。疲れたから・・と他の誰に会おうともしない。航海士不在のまま霞の中では出発できずにその日を過ごす事になった。

船の上だが霞は晴れない。だがいつもの船に戻りいつもの生活が始まる。賑やかでざっけないいつもの暮らしが。
狼はただ甲板で寝そべり、何もしなかった。
たまに請われればマストに登ったり何故か器用に仕事を片づける。食事はさすがに皆と同じ物を、ただキッチンではなく甲板で独りで皿を空けていた。何も言わなかったが、サンジが食べやすそうなゾロの好物をわざと作ってくれていた。

昼にもなれば眠るゾロの回りをルフィとウソップとサンジが囲んでいた。
「今日一日見てたけどさ。こいつが狼でもあんまり・・変わんねぇな。」
「ああ。トレーニングしなくなっただけだもんなぁ。いつも寝てるし、いざとなったら強そうだし。」
「このままの方が良いんじゃねぇか?このエロ狼ならナミさんに手も出せめぇって。」
その一言にはさすがの狼もじろりと睨み付けた。
寛いで4人でいる姿も余りにも普段通りで違和感がない。ロビンも相変わらず遠巻きに見ているだけだし、ナミとチョッパーが籠もったり鬱いでいる以外問題はなかったのだ。


「なぁ、本当にゾロなのか?」
チョッパーが横からそっと話しかける。狼はちらりと一瞥をくれてそっぽを向いた。
「俺なら言葉がわかるんだぞ!会話だって出来るだろ?」
判っているのか益々狼は頑なに背を向ける。そのまま大口を開けてあくびをして寝てしまった。
「気にすんなよ!ゾロだって文句言ってないだろ!!」
「なにも喋ってないだけじゃんか!」
「俺たちが焦っても仕方ないぜ。なんせ『解決法はこの島にはない』んだっていうんだから外に行けば何とかなるって!」



頑なに喋ろうとしないゾロへの怒りとクルー達のあっさりさへの落胆を混ぜながら女部屋の本棚の前でチョッパーは持っている医学書を並べて少しでも解明の糸口がないかと次から次へと本を引っ張り出していた。本達は以前男部屋で玩具にされかけたのでこちらで預かって貰っているのだ。
先にぼんやりと船窓から外を見ていたナミが何も言わずに立ち上がって部屋を出て行った。ずっとその腕に持っていたらしい本をぽんっとカウンターに放っていく。目が赤い。よほど読み込んだのか?とチョッパーは思った。入れ替わりにロビンが帰ってきた。
「出航は明朝らしいわ。」
「いいのか?ゾロがあんなままで。」
「いいんじゃない?航海士さんが言ってたわよ。」
「ゾロもゾロだ。」      
チョッパーは口を尖らせて本に没頭しようとした。  
ロビンがその本をすっと閉じて取り上げて目を覗き込んできた。肩に毛布も掛けてくれた。                     
「勉強熱心もいいけどこんなお伽噺知ってる?『言葉を疎んだ少年は言葉を取り上げられて獣になってしまいました。』」
手に取った別の本をチョッパーの頭にぽんと軽く乗せる。
「俺は知らない。それは何処の童話だ?サウスか?グランドラインか?」
「古い・・古い昔話よ。寝物語にしてあげましょうか?」
「そいつはどうなるんだ?」
「さぁ、ね。でも答えは彼が持ってるわ。」
チョッパーはおとなしくソファに掛け直して毛布を被った。



甲板にかかっている霞の中に匂いがする。
島から少し離れた所が良いというロビンの進言で船は島の海域のぎりぎり端に寄せられた。
潮の匂いは良い。いまでは陸から戻るとほっとする。とはいえこの島ほど逃れたいと思う島は今まで無かった。
夜半まで寝ていたゾロは誰もいない事に気が付いて目が覚めた。皆はもう船底で寝ている時間だ。
起きついでにトレーニングもやってみたがどうも乗らない。この島が悪いのか?己の状態が悪いのか?確かに普通でない状態のはずだが、ゾロは現状をあっさりと受け入れた。さらなる疑問も持たずに一日居たようだが独りになってみてさすがにおかしいと思い始めた。

あの時・・あの男の言葉で考えた。
俺はあの男に何かを奪われたのか?
敵とは・・・俺の邪魔をする者だ。


刀の息づかいははっきり解った。
そして・・俺は俺のままだった。
多少形が変わっていたとしても俺に間違いがない。
奪われていなければそれは敵ではない。
船に戻っても奴らと過ごす時間は変わりない。
コックの飯は旨いしルフィやウソップの騒ぎも変わらない。俺の居場所も。
何も奪われなかった。


だが。
何かがなくなっていた。
腰が据わらない感覚はいったい・・・


月が昇った事は霞の中でも解る。うっすら明るくなって闇夜に慣れた目には船が海上に幽霊のように浮かんで見える。
ゾロは自分一人だと思っていた甲板に人影を見た。








→next

home