「なんか言うこと無いの?」
日が落ちて夜半過ぎの甲板にもこの島の霞がかかっている。霞越しの月は朧になってすぐそこにいるはずのナミの姿が遠くに浮かんで見える。
こんなに近くにいるのに。ゾロはふと思った。半歩だけ脚を進める。ナミはゾロに言うように、自分が唄うように言葉を続ける。
「まぁ、元から必要な事は喋らないとこ在ったし。あんたって面倒になると言葉を探すのも止めるものね。最初から要らなかったのかしら言葉なんて。」
ナミの足下にはかなり強い酒の空瓶が数本転がっていた。彼女ならば一〜二本では素面と同じだろう強さではあるが。
だがその声はどこか遠くに話しかけるように消え入りそうになる。彼女ののおかしさ加減を放置してもおけずにゾロはそこに立ち止まった。
四つ足の獣のまま。

「でももう・・人型のあんたには会えないのかしらね。」

月の影を受けて光る水晶がゾロの足下に転がった。
濡れた床を見て雨か?と空を見上げると空からではなかった。

涙。

落ちる水滴はこぼれ落ちる珠のごとし。
ナミの面からその滑らかな頬の上を音もなく滑っていく。ナミも泣いている自分と気が付いていないかのようだ。視線は宙をさまよいそしてまたゾロを見る。その白く冷たくなった頬の上を軌跡を描いて月の光を受けた涙が流れてこぼれ落ちる
次々と零れていく涙はそのまま顎の先に伝って落ちるのを待つばかり。この霞の中でかなりの時間一人でいたのだろうか、髪はしっとりと濡れ、けぶった睫の先に付いた露は涙の上で珠を待つ。肌の色は透き通りいつもの血色の良さは伺えない。
真横でそれを見るゾロの動悸が一つ大きく打った。以前にもこの動悸は覚えがある。その音を自覚するとその心臓ごと口から飛び出してきそうに感じて唾を飲み込んだ。

彼女が泣く所など・・いつ以来か。記憶を探っただけでも心が落ち着かない。
その姿を見ているだけなのに、口の中が乾いてくる。脈は反芻して頭の中に響いてきた。
そのままのナミを見ているよりも己の心臓が止まった方が楽だった。

声を掛けようとして気が付いた。己の形が変わってしまっている。
今のゾロにはナミを抱きしめる腕もない。
こぼれ落ちる涙を掬ってやる手もない。
そして・・・語れない口は何一つ言葉を掛けることも出来ない。
言葉が・・これほど使えずにもどかしい思いをするのは初めてだ。
言葉とは己の言上げをする物。状況を確認する為の物。ナミに伝える為の言葉など今まで取るに足らぬ物と思っていた。
だが伝えられなかった思いは己の中に渦巻くだけでナミには伝わらない。思いの伝わらないナミは涙を止めない。
かつての己の傲慢さに寒気がした。

せめてもとゾロはナミに擦り寄った。首かから頭を身体にこすりつける。その肌は既に冷え切って氷のようだ。あまりの冷たさにせめてもと身体を押しつけてもナミからの反応はない。人とも思えないほどナミの気配も弱まって霞の中に連れ去られそうな気がしてくる。
今まで腕を廻せばいつでも絡みついてくるその肉感的な胸と細くとも張りのある腰のくびれ具合が好きだったことをこんな時に思い出す。その感触も。その前足に。

ゾロは項垂れ、蹲った。
「阿呆」と言って尻を蹴飛ばしてやりたかった。押さえつけて抱いてやれば落ち着かせる事が出来ると信じていた。
今までは。


だが、ただの獣に出来る思いを伝える術と言えば、落ちる涙を舌で掬ってやることだけだった。

狼は鼻面を頬に寄せ、そっと鼻で涙を受けた。
そのまま口の中に潮っぽい液体が入ってきた。それをごくりと嚥下する。
ナミの体液。あれ以来身体が変化してから二人は触れ合っていない。
軽く掛け合う日常の言葉もけんか腰の言い合いも一切は失われたまま・・
今までそんなに多くの会話をしていたのかと聞かれたらよほどコックの方がナミとは話をしている。それでも自分が埋めてやれる物があるとどこかで疑ったことはなかった。だが。

たとえ自分の想いが溢れてきていても伝えなければナミには届かない。想いは届かぬまま己に帰り反響し増幅していくだけ。そのまま膨れあがって初めて。その形を認めることが出来た。


己の中の、ナミの重さを。

髪も身体も表情もぽんぽん出てくる悪態もその反応の早さも。嫌じゃないとか悪くないとか彼女に使った全ての言葉はウソではないが。
形にならないままに体内を言葉が駆けめぐる。
出口のない言葉はゾロの体内でぐるぐる駆け回って重くなってきた。


「一度くらいは愛の告白聞きたかったなぁ。」

今も夜半の海上の風にこの島の匂いがうっすらとする。
ナミは独り言のように揶揄のように、口元で薄く笑いながら隣の狼に話しかける。その口を見ていると脳髄がくらくらしてきた。
喋れないことは仕方ないとは強く思うが、気持ちが落ち着かなくなる。
なんだかそわそわする。言わなくてはいけないような気になる。強く。強く。
胸の鼓動がドキドキ言っている。こんな鼓動は初めてだ。



泣くな。
失った言葉が一つ心の中で反響する。

泣くな。
獣の舌が頬を舐める。

泣くな。
顎から、頬に、眦に舌が動き続けてもナミの涙は溢れるままに止まらない。

泣くな。俺の為に泣くな。
静かに流れる涙がまた一つ浮かんでくる。

心臓は大きく響き続ける。
このままではナミは消えてしまいそうな気がして呼び止めることが出来ればと己を呪わんばかりにゾロはナミの顔中を舐めていった。
まるで何かをぴったりと被せられたままナミと身体を重ねようとしている拘束感に全身が悲鳴を上げる。
やはりこの女を抱いてやる事すら出来ないのだ。

また目の前に星が落ちてくる。苦く苦しい想いが吐き出せない。


泣くな。
俺の為に泣くな。

己よりも小さいナミの涙は音もなく流れ落ちる。音のしないシーンを覗いているようにまるで別世界のもどかしさが現実感を失っていく。ゾロの耳に聞こえるのはもはや己の心臓の音一つ。
どきん・・どきん・・正確なリズムに内に秘めた興奮が熱くひび割れていく。

お前が泣くと・・俺が・・・・お前が・・・・。
「好きな女に黙って泣かれたら俺が辛い。」

ナミの身体が固まった。
ぴくんと跳ねてからゆっくりとナミはゾロの方を見た。
「・・ゾロ・・?」

「もう泣くな。」
自然に前足がナミの上体を包んだ。包んで腕になり、ゾロはナミを抱きしめていた。
太い腕がしっかりとナミを抱え込んだ。背の大きい男のそれはいつもの匂いがした。
見るからに黒くごわごわしていた体毛はなくなり背中に回した手が触れるのは頭髪だけになった。
いつもの柔らかい大きな胸がナミの頬の涙を止める。
しっかりまわされた腕に触れてもすべらかな肌で、胸の傷もはっきり判る。
ナミは両手をゾロの顔にまわした。これだけが前のまま残ってしまうのではないかと怖かった。
だがそこにはいつもの慣れた感触があった。少し伸びた髭がチクチク痛い。狼の毛ではなく。
舐めまわしていた舌は唇になりナミの顔に寄せて言葉を漏らす。
「お前が泣くと、何より辛い。」



「ゾロ・・・・・・?」
「・・ん?・・・・ああ???・・・・・・待て戻ったか???」
いきなりゾロはナミから手を離した。己の顔を、身体を確認する。

嬌声があがった。










「旅人達を驚かせすぎたのではありませんか?」
「我は構わぬと思う。彼らは持ち得ないほどの命に溢れている。あれくらいの脅しなどなんでもない。むしろ彼らの持つ生命力はこの島にとっては毒だ。仕方あるまい。はかなすぎるこの島の住人の為にはな。汝は彼らと共にいる事が出来たか?」
「いえ・・私が求めたのはここの平穏ですから。」
島の守として生きる事を選んだのは己だが目映すぎる彼らのような力は目に全身に眩しすぎて少し呼吸が辛かった。あれ以上側にいては自分たちが耐えられない事が解っていた。見てはいけない。いきなり現れたあの煌めく瞳達は。
磁力が島にもたらす影響というのはかほど者とふれあう事すら認めないのか・・。

フードを脱いで脇に置く。
ここの大気と同化すればもはや現実には戻れない。植物の茎のように衰えた体躯はそれでもこの島に住む者達にとっては優しい造りとなっている。彼らと道を同じくする必要はない。我らは影の住民となって影の夢に生きる道を選んだのだ。芥子が見る夢を。







チョッパーがはっと目を覚ますとそこは女部屋だった。
着替えたロビンがにこやかに笑みを向けた。
「おはよう。昨日はあのまま寝てしまったわ。覚えてる?」
きょろきょろと周囲を見渡すとナミはいない。戻った気配もない。床には昨日自分が引き出した本が積まれていた。
「ナミは?」
「一晩戻ってないわ。」
「俺、あのまま?」
「ええ、答えがわかるまでって頑張ってた。」
くすくすとロビンは口元に手を添えて笑っている。

「答えはゾロが持ってる?」
チョッパーがソファから起きると一晩中抱えたまま離さなかった本がごとりと一緒に音を立てて落ちる。
「ええ。では解説しましょうか?」
棚から取り出した甘い飲み物を渡された。

「この島の仕組みって解る?貴方が体験したはずなのだけど。」
「俺が?」
「最初に変な匂いでおかしくなって『コックさんの料理を食べたら元気になる』そう言われたでしょう?」
「ん。」
「そして元気になった。と思った。」
「俺は元気だったぞ!!」
「でも目の焦点は合ってなかった。眼振が出てたし手足は痙攣も起こってた。解る?」
「ばかな・・。じゃぁなんで!!」
チョッパーは語るロビンに詰め寄った。まだ信じられない。確かにおかしいけれど元気だったはずだ。
「そうして貴方は元気になった。でも体は調子が悪かったはずよ。この島に漂う薫り・・剣士君が呑んだという水から強く匂っていたのだけれどその周囲にある花が実を付けていた。古代芥子の一種よ。宗教国家と共に滅んだとされていた・・。」
「それが?」
「この島が毒性の強い花と共に滅んだとされている島なんじゃないかしら?地磁気の影響で花が出来たのか、地磁気の影響で国が滅んだのか今となっては解らない。でも、何らかの形で残された。あの泉の水がこの島の源で、木や花がこの水を吸ってこの霞を吐き出し、この霞を吸った者達には己の語った言葉がそのまま力となる・・。」
「それってつまり・・暗示か?」
「そうも言うわね。」
「ってことは俺たち集団催眠にかかったのか?」
「そうなるかしら?」
チョッパーは愕然とした。その横でロビンは薄い唇の端を少し上げている。目が実に楽しそうだ。

「ロビンはどうして解ったんだ?」
「私独りが神官の言葉を直接聞いてないのよ。だから貴男の言葉を聞いてからもう一度口にしてみたの。『剣士君は元のまま。』私には剣士君は元のままにしか見えなかったわ。ずっとね。ま、あなた達にとっては結局何も変わらないから視覚上の問題どころか違和感すらなかったみたいね。」
ぽかんと口が開いた。少しそのままでいたらロビンがクスリと微笑んだのではっとなった。本人も回りも狼だと思っている姿を独り黙ってみているなんて人が悪い。つい向けたチョッパーの批判的な視線にロビンは嬉しそうに見返した。

「不満?だって、所詮一時の幻よ。薬が切れたら醒めるわ。だいたいその方が二人は仲良くなれたみたいだし。それに。」
ロビンは自分のグラスをぐいっと呷った。彼女の横のカウンターバーに先日から読んでいた一冊の本をそっと置いた。背表紙の厚い古ぼけた本は昨日ロビンがチョッパーに示した物だった。その本をゆっくりと押して板の上に滑らせた。
「望みを幻で見なくてもあなた達にはそれを現実にする力がある。そう言う人には向かないわこの島は。まさに世捨て人の見る夢の島。」
一瞬向けた視線は遠く島を見つめていた。そのままロビンが飛んでいって消えていってしまいそうに思えて慌ててチョッパーは目を擦った。アラバスタの王墓で死ぬつもりだった彼女が望む未来は彼女自身が作り出せるのだろうか?一番この島に惹かれてしまうのは彼女かもしれない。




「呪いが解けたわよ!!」
ドアが開いて朝の光と供にナミの声が浮かれて飛び込んできた。その声に続いて本人達も現れた。
確かに見慣れたゾロだ。髪を掻く仕草も、大きな身体も。
その声につられてルフィ達も起きてきた。狭い女部屋の入り口に人が溢れてくる。一気に宴会の気配が漂ってくる。

宴会は好きだ。騒ぐのは好きだ。たとえゾロが狼でもルフィたちはかまわなかった。ゾロがゾロであればそれで。迷わされないその心の強さ。それを彼奴等は確かに持っている。でも俺だって負けない。俺たちに幻なんて要らない。未来は自分で作るから。描きたい未来を。確実にこの手で。俺は・・海賊船医になるんだ。
皆をそして少し離れたロビンを眺めながらチョッパーは強く心に思った。口にしてもしなくても強い気持ちは未来を描く。


ロビンは軽やかに甲板に向かって歩き始めた。暁光が差し込み、晴れた海が見える。海上の空気は澄み切って島を覆う影だけが霞んで見える。
「そろそろ出発しましょうか?船長さん?」

「そうだな!行くか!!」
暁の海、澄んだ空気に船は滑り出す。現実に向かって。










皆が去って、女部屋に本が残された。
本のタイトルは『芥子の見る夢』。






The END








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