「なぁにロビン?ずっと出てこないと思ったら童話なんて読んでるの?」 「結構捨てたもんじゃないわ。ジャヤみたいなことだってあるし。」 「二匹目の泥鰌はいないわよ。」 「そうかしら。」 『芥子の見る夢』 羊頭の船は彼らの望むままにいつも大海原をひたすら前進を続けていく。 だがその日は午後から空が、波が、大荒れに荒れた。 頬に痛いくらいの疾風の合間に焼け付くような日差しが注がれたと思った途端に今度は雪が舞い落ちる。変わらぬ厚い雲の切れ間から見える太陽は中空から座を移し既に水平線に近づいている。風も、波も意のままとはならず航海士の腕に常に燦然と輝くログポースの示す方向は変わらなかったが、船先は七転し気候も荒れる一方で全く一定ではない。目まぐるしく繰り返される方向転換にもはやどちらに進むかも判らなくなりながら化け物揃いのこの船とは言え皆疲れ果てていた。 「また進路がずれてるわ!面舵引いて!左舷百三十度!」 「それってさっきの方向じゃねぇか!」 「うるっさいわね!仕方ないじゃないの!!これに聞いてよ!」 航海士の細い腕を伸ばされても、そこに鈍く光る丸い球体を示されても、手元は霞んでいるこの天候この距離では見ることはかなわない。よしんば見えたとしても航海士にしかその意味がわからないのだから無骨な男に見ろと言われても困るのだ。過労の証拠に普段こういう作業では黙々と働く剣士からも文句が出始めている。いつも多弁な狙撃手などはもはや舌が伸びきって元に戻らない。いつもの彼の軽口は聞こえない。彼は今船底に潜って泣きながらもその補強に努めているはずだ。 レインコートからからはみ出したオレンジの髪もびしょぬれで、睫から顎の先まで掛かっているのは雨なのか潮なのかもはや判らない。彼女が感じたぞくっとした寒気は中の服も濡れきっている証拠だ。もはやコートも着ている意味は無い。他の連中はいつもの服のままであるからいくら化け物達でも気候の変化はかなり堪えるだろう。 「俺・・・腹減った。」 馴鹿の不意の一言が船長の本能を刺激した。 「飯!飯!腹減った!!」 先ほどコックが追加した炊き出しも半分以上は船長のお腹に消えてしまったが、それすらもはや彼の体内に残っていそうにない。 「うるせぇ!今はそれどころじゃねぇだろ!」 船尾で三角帆を調節していたコックから怒声が飛ぶ。 また船が大きく揺すぶられる。気候は安定せず、その急激な変化にも憔悴感は増強される。 航海士は地図を知っている。偶然前の島で地図が確認でき、今回の旅ほど安逸な物はないと喜んだ後なのだ。口には出さないがまだ次の島までは距離がある。荒れに荒れている今回の航海はまだ終わらないのだ。船の真ん中に立ってログポースと遠くを見る航海士の表情は既に固い。窪んだ瞳の示す疲労はその重責を物語ってやまない。 ぱさっと後ろから、肩に毛布が掛けられほんの少し寒気が止んだ。見ると船内で二人目の女性が男部屋の隅から持ち出してくれたのだ。彼女は既に防寒衣をまとっている。毛布に風を封じられたおかげで期待していなかった温かさに心まで冷えた身体から本音が絞られた。 「こんなのは入り口だけじゃなかったの?」 「本来はそのはず・・・だけれど何とも言えないわ。ここはグランドラインだから。」 答えて微笑んで見せるその顔も精彩を欠いている。彼女も皆と同じように船を安定させ続けている。二人は船先から目を外して地図を覗き込んだ。使い込まれ、折り込まれたバギーの地図。これが完全に信用できる訳ではないとあれほど知っていたのに。 「まだ・・次に着かないのかしら?」 「これが間違ってなければまだよ。・・・でもこの際間違って欲しいくらい。このままじゃ保たないわ。」 クルーは信用している。船長の悪運の強さも。自分も倒れるつもりなど無い。倒れればそこでその歩みを止めなくてはならないことくらいは百も承知だ。己の安逸など秤に掛けるまでもない。この海域さえ抜ければ何とかなるはずなのだ。今までがそうだったのだから。 航海士は己を叱咤激励してはその緊張を確認する。 船底の作業が終わったのかウソップが戸を持ち上げて出てきた。開けて船の斜め前方を見渡している。 「えらく暗いな・・・もうこんなに暗くなったのか、まだ昼過ぎだろ?・・・・・・・おい!あれっ島じゃねぇか!?」 その一言は疲れ切った船内に伝わり皆が目線を上げた。今まで誰も気が付かなかったのがおかしいくらいに側に見える島影。 「そんな馬鹿な!地図にないわ!!ログポースも指してないし・・・・・それに島の側なら気候は安定するはずでしょう!!」 気候の安定は島に近づいた証拠。それもグランドラインの真理ではなかったのか? 「けど・・・島だぜ。」 「ああ、島だ。」 船はもうぼろぼろだ。未だに波は荒れている。その中に霞の向こうに浮かぶ島影。 皆の意見は聞くまでもなかった。 「上陸しよう。」 船が入り江にはいると今度はぴたっと波が静かになった。きっちり境界を敷いたように一定の所から静まる海など聞いたこともない。流れも穏やかに、風も無くなった。凪となった為オールを出してゾロとウソップが船の両脇で漕いだ。 眼前に聳える島はけぶったように霞に包まれている。ぼんやりして全景は見えない。だが少なくとも大きすぎる木もなければ恐竜も見えない。その向こうに見える緑の青々しさ。その間に見えるのは人家のようだ。煙も見える。旗も立ち、港のような入り江には船も一艘だけ浮かんでいた。 一同はほっと胸をなで下ろした。 人がいるのだ。少なくとも生活と文明を持つ物が。 その港に船を寄せた。碇を降ろして次々上陸していく。 上陸すれば霧に音が吸い込まれていく中に耳を澄ませば微かなる葉擦れの音。 入り江に動物の気配はなかった。 ただ薫りがした。微かに。 「陸地だ。あったけぇ!」 先頭を切るのは当然のルフィだがその後をウソップが飛び降りてゴーイングメリー号を舫に繋いだ。 「春島・・・かしら?」 梯子を下ろしてロビンが降りていく。確かに暖かい。芯から冷えていた皆にとって何よりの馳走だ。 霞の中で島の先がよく見えない。それでも緑と島の中程にちらりと見える住居の存在はほっとさせる物がある。そして霧の中におそらくは花の香り。何の薫りか知っているような気もするが知らない薫り。 「この島に入った途端に嵐が止んだ・・・。こういうのってありかしら?」 「さあな。」 ナミはレインコートを脱いで濡れた服を着替えてきた。甲板の中程から島を眺めながら乾いた暖かいタオルで髪を拭いている。隣でゾロが碇を海中に沈めた。 「とりあえず今夜が凌げりゃ文句はねぇ。陸なら少なくとも沈まねぇからな。」 「そうね、ありがたいわ。」 「おいチョッパー!!」 サンジの声が響いた。先に飛び降りたチョッパーがうつ伏せに倒れている。サンジは飛び降りてチョッパーを抱え起こした。上体を抱え上げると視線が変だ。少し焦点が合ってない。 「俺・・疲れたかな?腹減ったのかな?・・・なんか変かも、変な匂いもするし」 「おい、大丈夫か?飯は食えるか?」 サンジらしい質問を笑う力もなく馴鹿はぐったりしている。 「腹は・・減ってる。俺、船にいた方が良いかも。なぁサンジィ。」 「わかった。待ってろ。」 サンジは潤んだ瞳ですがるチョッパーを肩に抱えて再び甲板に飛び上がった。 「どうしたの?」 ナミが不安げに寄り添いチョッパーの額に手を当てた。特に変わった兆候はない。 「ナミさん先行っててくれます?なぁにこいつに餌やったらすぐ治りますよ!そしたら俺も行くから。」 「あ、うんチョッパーのこと頼むわね。」 「俺、餌じゃない。」 「判った判ったお前は喰わないよ。」 台所に行った二人と入れ替わるようにタオルを部屋に放り込みナミも降りていく。 ナミがそのまま陸地にあがると足下がはっきり見えないくらいに霞が深い。 霞の中歩を進めると先に降りた連中が固まって立っていた。変わったことと言えばウソップがロビンにしがみついているのは初めて見た。そのロビンはそれを気にする気配もなく真っ直ぐ前の人影達を見ている。 「何?」 大きな布をすっぽり被ったような服に被り物の笠。奥の顔は見えない。背格好も似通って、二三人と言っても複数揃えば不気味以外の何者でもない。 「お主等は全てを捨ててきた者か?」 「?」 響く声。この霞の中では彼らの誰が話しているのか判らない。 「・・俺たちは嵐でこの島を見つけた。だから来たんだ。」 ルフィの答えに返事はない。珍しくゾロが口火を切った 「嵐が収まるまでいさせてくれりゃいい。晴れりゃ出てくし何もしねぇから。」 後ろから同じ格好の人影が幾人か重なりながら現れる。一体建物などあるのか解らない位の霞の中でも彼らが驚いた気配は伝わってくる。 「漂流者だというのか・・。」 「旅人が何故・・・?旅人が立ち寄ることをこの島は好かぬ。入られぬようになっているはず。」 「この島は目からもログにも忘れられた島。」 「己を捨てられる者のみが滞在する島。」 「立ち去れ。己を捨て切れぬ物は立ち去れ。」 重なった抑揚のない声は次第にあからさまな警戒を見せ始めた。 あまりの真摯さに服装の怪しさはともかくも歓迎されていないことはわかる。彼らは海賊だ。そう言う視線には慣れている。相手の善し悪しはルフィ達には関係ない。だが。 黙って立ち去ろうと踵を返しかけているルフィ達に慌ててナミが横から割り込んだ。もう今夜だけは外洋にでたくない。骨の髄からそう思っていた。 「お願い!外はもの凄い嵐で・・・!もうくたくたなの!せめて一晩で良いからこの島に停泊させて!」 影法師達は頭を寄せた。 「停泊のみ許そう。」 「宿泊のみ許そう。」 「それならばこちらの建物で過ごせ。多少の毒気は仕方あるまい。食事は後で届けよう。しかし無体を働けば恐ろしいことが己等の身に起こる。必ずだ。」 「この先己の道を進みたい物は一晩おとなしくしておれ。島の禁足地に立ち入れば誰でも罰を与えられる。それを心しておけ。」 相変わらず抑揚のない声で綴られる恐ろしい言葉の数々。気配だけは濃厚に戒めを物語る。先の見えない霧の中。秘められたリズムは人の心に染みいる。全身を支配する。 だが現実的な彼らの脳裏には同じ映像が浮かんだ。クルーの視線は一気にニカッと笑う船長に注がれた。 「ルフィ!出てっちゃだめだ!」 「破ったら承知しないわよ!!」 「なぁなぁ!禁足地ってなんだ?」 「うるさいっっ!」 静かな島の海岸線沿い。場に似合わず大騒ぎになる彼らの騒動に影達が眉を顰めていることがはっきり判る。歓迎はされていない。彼らが海賊というだけではないようだ。その証拠に彼らの船すら改めて認識しようとしない。ただ一方的に不審者は全て受け入れようとしない頑なな島の空気。不思議な匂いと相まって遠い世界に来ている気がする。 「ところで・・この島の名前を教えていただけるかしら?」 黙ったままだったロビンが最後にふと口にした。 立ち去りかけていた影達の一人が振り返った。 「名など無い。強いて言えるなら『心強き者には見えぬ島』だ。」 →next home |
三部作の始まり。 |