『二日月』 written by 尚美さん |
桟橋に座って足をぶらぶらさせながら、沖を飛び交うカモメを見ていた。 膝の上に乗せた、ハトロン紙の袋からこぼれ落ちそうなジェリービーンズを 一緒に頬張りながら。 海はとても穏やかで、眠たくなるような、夕方前のはちみつ色の太陽が、 わたしたちの背中を照らしていた。 お菓子屋さんのお店の前で「ありがとうございます」ってお辞儀をしたら、 「いい子だ」って、その人は頭を撫でてくれた。 ほらね、このおじさん・・・本当はきっと、見かけほど怖い人じゃないよ。 ・・・・お母さんの事? ずっと前に、本当のパパとママと一緒に暮らしてたころの事は、あんまり 憶えてないの。 ママの焼くホットケーキや、パパのちくちくするお髭のことを考えるのは 楽しいけれど、ついでにどうしても、怖かったあの日のことも一緒に思い出して しまうから、考えないようにしていたら、いつの間にかだんだん思い出せなく なってきちゃったんだ。 突然、わたしが住んでた島の港に、髑髏マークの船がたくさん来て、家を壊したり、 火を点けたり、言う事を聞かない人を鉄砲で撃ち殺したりしたの。 白い服の人が乗った白い船もたくさん来て、髑髏の人達と鉄砲で撃ち合いを始めて、 そうしているうちに、町はみるみる滅茶苦茶になっちゃった。 わたしのお家も、いつも行くパン屋さんも、パパの工場も、みんな爆弾で吹き飛んだ。 パパとママは・・・・・・どうなっちゃったのか分かんない。 壊れたお家の中から這い出して、途中まで一緒だった事は憶えてる。 でも・・・気が付いたら、知らない赤ちゃんを抱っこして、ひとりぼっちで知らない 道を歩いてた。 あちこちから煙があがってて、人がいっぱい倒れてて、ものすごく嫌な匂いがしたの。 怖かった。本当に怖かったよ。 お昼間だったのか、夜だったのかも忘れちゃった。 真っ暗だったような気もするし、ぎらぎらお日様が照ってたような気もする。 足も手も痛くて、とっても疲れて、もう一歩も歩けないって思った。 そしたらその時、わたしの足元に寝てた、酷い怪我をした女の人が急に起き上がって、 わたしに話し掛けてくれたんだ。 「妹?」って、わたしの腕の中の赤ちゃんを見て。 赤ちゃんが笑うのを見て、わたしとお姉さんは一緒に笑った。 人の気も知らないで・・・って、血と鼻水と涙で、グチャグチャになりながら。 それが・・・今のわたし達のお母さん。 「つらい事を思い出させちまって済まねぇな」って、その人は頭を下げた。 「大丈夫だよ。だってもうずっと前の事だから。」って、わたしは口をもぐもぐ させながら笑った。 本当は色々な事を思い出して、少しだけ泣きそうになっちゃったんだけど、大きな 身体をした強そうなおじさんが、しょんぼりとした顔でわたしを見るから、何だか 可哀想になって、ちょっとだけ無理をしたの。 でも、前よりは、ずっとずっと平気になったんだよ。 だってわたしには、ちゃんと新しい家族がいるもん。 お母さんのベルメールさんと、妹のナミ。 ベルメールさんって呼んでるの、と言ったら、その人は不思議そうな顔したね。 わたしだって、不思議だと思ってた。だってベルメールさん、いつも口癖みたいに 『あんた達はわたしの娘だよ』って言うくせに、絶対にお母さんって呼ばせて くれない。 だから一度だけ、どうして?って聞いたの。 だって、妹のナミはまだ小さくて、本当のパパとママの事なんてひとつも憶えて なくって、黙っていればきっとベルメールさんだけを、本当のお母さんだと思った はずだから。 「お母さんって呼ばれるってことは、10ヶ月の間、大事に大事にお腹の中で あんたたちを育てて、必死の思いであんたたちをこの世に産み出してくれた人 だけが貰える勲章なんだよ。そんないっさいがっさいをすっ飛ばして、あんたたちの 可愛いほっぺやぷにゅぷにゅの手足を楽しんで、こんなに毎日幸せに暮らしてる あたしが、勝手にそれを貰って言い訳はないでしょう? あたしはもう、あんた達から、抱えきれないくらいの宝物を貰ったよ。 だからせめて、その呼び方は・・・・あんたたちがいつか年を取って、天国で もう一度その人に出会う時まで、大事にしまっときなさい。」 ベルメールさんの口調を真似てそう言うと、その人は「あいつらしいな」と笑った。 ベルメールさんって、昔から勲章貰うのが大嫌いだったんだって。 どうしてそんなこと知ってるのかって聞いたら、その人は昔、ベルメールさんと 同じ学校に行って、同じお仕事してたんだって教えてくれた。 ベルメールさんは、お仕事でたくさん悪い人を捕まえて、偉い人から表彰される 事になったのに、式典の日に急にいなくなっちゃって、みんながどこを探しても 見つからなくって、それで偉い人はカンカンになって、怒って帰っちゃったことが あったんだってさ。 「それであいつ、どこにいたと思う?倉庫の屋根の上で、野良猫と昼寝して やがったんだ。」 それ聞いて、またその人と一緒になってゲラゲラ笑った。 まったくあいつときたら・・・って、その人はたくさん楽しい話をしてくれた。 わたしの知らない、ベルメールさんの昔の話。 もしかして、わたしに悲しい話をさせた、お詫びのつもりだったのかな。 呆れたふりをしながらも、その人は何故だかとっても楽しそうで、ああ、この人って きっと、ベルメールさんの事が好きだったんだなって思ったの。 わたしはまだ子供だけど、それくらいの事はちゃんと分かるんだよ。 だってわたしも、ベルメールさんの事が、世界で一番大好きだから。 でも、その頃と今、ベルメールさんはどっちが幸せなのかなあって言ったら、 その人はまた、困ったような顔して黙り込んじゃったから、わたしは慌てて話を 変えた。 ベルメールさんて、面白いんだよ。 他のおうちのお母さんと、言う事が全然違うの。 大人は大抵、「人に迷惑を掛けちゃ駄目」とか、「決まりをちゃんと守りなさい」 とか「お友達と仲良くしなさい」とか、そういう事たくさん言うでしょう? でも、ベルメールさんはいつもひとつだけ。 「自分で決めなさい」って、それだけ。 自分で決めて、それがどうしても必要だと思ったなら、迷惑掛けても、決まりを 破っても、お友達と仲良くなれなくても仕方がないって。 でも、後で困ったり傷ついたり後悔したりても、それは自分で決めた事だから、 責任持って自分で解決しなきゃ駄目なんだよって言うんだよ。 自分で決めるって、難しいね。 ちょっとくらい窮屈でも、いつも他の誰かの言うとおりにして、迷惑掛けない ように決まりを守って、みんなと仲良くしてる方が、ずっとずっと簡単。 でもね・・・ わたしはジェリービーンズをもう一掴み口に放り込んで、その人に向かって ニッコリ微笑んだ。 本当はね、知らない人に物を貰ったり、ついて行ったりしたら駄目なんだよ。 ゲンさんにいつもそう言われてるもん。 あ、ゲンさんって、ココヤシ村の駐在さん。 そういう事すると誘拐されちゃうんだぞ、世の中には悪い奴が大勢いるからなって、 怖い顔して教えてくれた。 ・・・けれどわたし、おじさんはきっと、そういう悪い人とは違うって思ったの。 どうしてって聞かれても困っちゃうけどね。 だから自分で考えて、自分で決めて、わたしは今、おじさんに買ってもらった お菓子を食べながら、おじさんとここでお話してるんだ。 この後もし、おじさんがわたしを誘拐したら嫌だけど・・・自分で決めた事だから しょうがないよね? そう言ったら、その人はまた笑った。 おまえさんはやっぱり、まぎれもなくベルメールの娘だなって、とても嬉しそうに。 笑って笑って、その後で、急にしんみりと口を噤んで、その人は空を見上げて呟いた。 「あいつも・・・・自分で決めたんだな。これからの自分の生き方を。」 って。 独り言みたいに、小さな声で。 それからその人は立ち上がって、封筒から白い紙を取り出すと、それをびりびりと 小さく破いて海に捨てた。 それなあにって聞いたら、ただのゴミさ、って言ってたけれど、MARINって 金の浮き彫りの入った上等そうな紙に、たくさんのサインがしてあって、本当は すごく大事な物だったんじゃないのかな。 ゆっくりとその人の指の間から零れ落ちた紙吹雪は、ゆらゆらと水面に浮かんだ後、 みんな遠くに流れていってしまった。 それから最後にその人は、これも必要ないなとまるで何かのついでみたいに言いながら、 小さな光る物をポケットから出して、空高く放り投げた。 それはきらきらと輝いて飛びながら、あっけなく波に飲まれて消えた。 「・・・・・さて、帰るか。」 しばらく黙って遠くをを見つめた後で、その人は言った。 もう?ってビックリしていたら、用事は済んだからなって言われた。 おじさんの用事って何だったのって聞いたら、その人は少し考えて、ずっと仕舞い 込んで忘れてた、ゴミを捨てに来たんだって言うの。 そんなの・・・・嘘に決まってるよね。絶対、嘘に決まってる。 「おじさん・・・・本当は、ベルメールさんに会いに来たんじゃないの?」 それからいくら待っても、答えは返ってこなかった。 風もなく静かな海辺に、カモメの声だけが響いて、ピンで留めたみたいに動かない 二つの影が桟橋に伸びてた。 それから程なくやって来た連絡船に乗り込みながら、その人はわたしの前にしゃがみ 込んで、もう一度頭を撫でてくれた。 「俺が来た事は内緒に・・・・・・・するかどうかは、自分で決めな。いつかまた 一緒に、ジェリービーンズ食おう」 そして、2本いっぺんに咥えた葉巻に火を点けて、唇の端だけでちょっとだけ 笑うと、また背中を向けて、もう二度とこっちを振り返らなかった。 吐き出した煙だけが、まるでサヨナラって手を振ってるみたいに、小さくなってく 船の上でいつまでも揺れてたよ。 船が見えなくなってから、わたしは深呼吸を一つして、家に向かってゆっくりと 歩き出した。 足の裏でサンダルがパタパタいう音を聞きながら、その人はきっともう、2度と この島にはこないだろうなって思ったの。 それから、今日の出来事は誰にも秘密にしようと決めて、途中みかん畑に寄って 手で穴を掘って、残りのジェリービーンズを土に埋めたんだ。 木々の間にこっそり作ったまあるい土饅頭は、まるで何かのお墓みたいに見えた。 頭に乗せられた、その人のあたたかい手を思い出したら、ちょっとだけ涙が出そうに なって、泥だらけの手をぎゅって握って、わたしは神様にお祈りした。 ――世界中の人が残らずみんな、大好きな人と一緒に、幸せになれますように―― 空の色はいつの間にか青から群青色に変っていて、畑の向こうには、細く尖った月が 光ってた。 それはその人が海に捨てた、小さな指輪によく似ていた。 The END
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読後雑感 |