dilemma


重い真夏の夜風は、時間と共に肌にしみこんで神経を重く溶かしていく。

しかし、甲板には張り詰めた空気が存在し、そこだけ周囲から切り取られていた。


満月が明るく船内を照らしている。
ゾロは一人、刀の手入れをしていた。
打ち粉が夜風に舞い、月明かりにきらきらと散っていく。
今日は妙に目が冴えていた。
昼に船を襲った嵐のせいで体は深い眠りを欲しているはずなのに、その疲れが逆に意識を明瞭にし、神経を高ぶらせているのだ。
油を払った和道一文字を満月に翳すと、切り取られた一片の剣光が瞳を鮮やかに照らす。
じっとりと滲んだ汗も微かに月明かりを映し、体を青白く浮かび上がらせていた。



・・・・・・・
静かに扉を閉める音が響いた。
それすらも分かっていたように、ゾロは振り返りもせず手入れを続ける。
さわやかな香りが張り詰めた空気をゆっくりと切り裂いて近づき、青白い背中を包んだ。
「珍しいわね、夜にやってるなんて」
「・・・・まあな。目が冴えちまったし、丁度やらなきゃならねェところだったからな」
「へぇ・・・大変なのね」
ナミは、月明かりを返して光る刀をそっとゾロの手から抜き取り、夜空に高く翳してみた。
整った顔に不釣合いな、冷たい光の傷が走る。
「おい、気をつけろよ」
「平気よ・・・・きれいね・・・・満月の下に三日月が降りてきたみたい」
動かすたびに形を変える光が綺麗で、ナミはゾロの背中を離れてゆっくりと刀を翻す。
「ねえ、どこかの国には刀を持って踊る『剣舞』っていうのがあるのよ。
 今日みたいな夜はきっときれいでしょうね」
ナミは刀を片手にゆっくりと甲板を舞う。
緩やかに空を切る音と足音だけが小さく響き、月光の蝶が飛び回る。
その眩しさに、ゾロは目を細めた。

いっそ、この腕で捕らえてしまえたら

そんな考えが頭をよぎる。

ばかな・・・

小さく自嘲って、自分の愚かな考えを否定する。
いつもこの思考の繰り返し。


 それは お前の望まない束縛
 それは おれの望まない束縛・・・・



柔らかな香りが、重い空気を洗っていった。
その姿に見とれていたゾロは、ナミが手摺に近づきすぎていることに気づかなかった。

「あっ」
ぶつかった拍子に、刀は舞の勢いと自らの重みでナミの手を滑り落ちていく。

 ゾロの一番大事な刀・・・!!

ナミは反射的に手を伸ばす。
柄に手が届いたとき、その身は海の上をゆっくりと落下していた。


それすらも、幻想的で。


「・・・っ!」
我に帰った時には、ナミが手摺の向こうに消えていた。
「あンのばかが・・・!!」
ゾロは刀も持たずに手摺を乗り越え、暗い海に飛び込んだ。



満月とはいえ、夜の海は視界が限られる。
月明かりの差し込む水面を離れると、底はどこまでも暗く、沈黙の支配する世界。
一瞬、微かに刀身が返した光の欠片が見えた気がした。

 あそこか・・・・

近づいていくと、突然ナミの白い肌が闇の中に浮かび上がってきた。
意識を失っているようだ。瞳は閉ざされ、重みのままにゆっくりと沈んでいく。
落ちたとき水面で首か背中を打ってしまったのだろう。
それでも手には刀がしっかりと握られていた。

 まったく・・・無茶しやがる

そっと抱きかかえる。静かに腕の中におさまったナミは、相変わらず動かない。
刀を手から抜き取り、ナミを傷つけないように腰に挿した。
水面を仰ぐが、もはや月明かりは届かない。
ナミを片手に抱え、もう片方の手で大きく海をかき分けながら浮上を始めた。


 いつもそうだ
 そうやってお前は おれを掻き乱す

 おれの腕をするりと抜け出していくのに
 いつまでも指先をつかんで離さない

 自分勝手で  頑固で  強がりで
 
 眩しくて  愛しい・・・・


・・・・・お前まで  おれを置いていかないでくれ





鈍い水音と共に頭を衝撃が包み、一瞬にして周りの温度が変わった。
水泡に覆われた海面に、青白い満月の影の中、無数の星屑が舞い上がる。

 夜光虫・・・?
 初夏って感じじゃないのに・・・

ぼんやりとそんなことを考えながら、薄れていく月明かりの中でゆっくりと目を閉じた。
刀に導かれるように、海の底へ落ちていく。
手足は動かせたが、不思議とそんな気は起きなかった。

 この懐かしさはなんだろう

ナミは不思議と穏やかな気持ちになっていく自分に気が付いた。

 このまま音もない世界で
 闇に抱かれ  
 どこまでも落ちていけたら・・・・


しかし、その願いはかなわなかった。



浮遊感。
闇の中で、暖かな体温がそっと体を包んだ。
刀は手の中から逃れ、海底へと沈む。

 私を残して・・・・深く  深く



水の流れが変わった。
力強く、ゆっくりと浮上していく。
夢から覚めたような心地で、ナミはそっと目を開けてみた。
相変わらず闇に包まれた視界の中、白いシャツがぼんやりと浮かび上がる。
鍛え上げられた胸、しっかりと自分を支える腕の体温が、冷えた体に心地いい。
腰には、海底に消えたはずの刀が鈍く光っていた。


 あなたも  この男と共に生きるのね

 深い静寂ではなく  熱く激しい想いの中に

 ・・・・・・この胸の痛みはなんだろう


薄く月明かりが差し込んできた。頭上に穏やかな水面がきらきらと揺れている。
息はそんなに苦しくない。数分も経っていないようだ。
片手を、水面を目指すゾロの首にそっと回した。
突然泳ぐのをやめてナミを見下ろしたゾロは心なしか厳しい表情をしていたが、ナミが微笑むと悲しげな苦笑を返し、ナミをゆっくりと引き寄せた。
腰に回された手の暖かさとこめられた力が、ゾロの心の痛みを悟らせる。


 こうやって  あなたは私に囚われていくんだわ

ゾロの肩で、ナミは悲しく微笑む。

 あなたは私をおいて行く
 何者にも囚われず  ただ自らの野望のために


 それは 私の望んだ未来
 それは 私の望まない未来・・・・       


そんな思いに気づいたかのように、ゾロはナミを体から離して優しく唇を覆った。
海中のキスは唇に儚げな温もりを残し、気泡にのって消える。

 あなたの味がしない  優しくて悲しいキス



海面から顔を出すと、満天の星空と満月が変わらずそこにあった。
今夜は停泊していたゴーイングメリー号も、海上に影を下ろしてたたずんでいる。
ふと現れた流れ星の軌跡を追って、ナミは仰向けに海へ寝転んだ。
耳元で揺れる水音が、現実と夢の狭間に漂わせる。

「ねえ、ゾロ。死んだら星になるって本当かしらね」
暗い海に、ナミの声が明るく響く。
ぬれた手を夜空に翳すと、そこには星が降りていた。
こぼれた雫が、濡れた頬に馴染んでいく。

 なに泣いてやがる・・・・

涙はなかったが、その声は微かに震えていた。
「さァな・・・・死んだら朽ちていく。それだけだ」
「もう、ロマンがないわね!」
勢いよく起き上がり、ゾロをにらむ。
その顔には、いたずらっぽい笑顔がのぞいていた。
「死んだあとのことなんて知らねェよ」
ナミからそっと視線をはずし、昇りきった満月を仰ぐ。
「あとのことなんて考えずに死ねるよう、生きてくだけさ」


 気休めの言葉なんていえない
 たとえ こいつの笑顔を曇らせても



「・・・・そうね」


『じゃあ、あたしより先に死なないで』

その言葉を、ナミは飲み込んだ。

 そんなこと、言える筈ないじゃない・・・・


 あなたが息絶えるとき  
 あたしの事なんか気にせず逝ける様に
 『約束破っちまった』  なんて
 後悔しながら  逝くことがない様に
 
 あなたが  私に囚われてしまったのなら
 あたしのために  後ろを振り返らずに済むように



 ・・・・それでも最期は
    あたしを思い出して欲しい なんて
    なんて わがまま



視界が、微かに揺らぐ。
どうやら、飲み込むには大きすぎたようだ。
涙が暗い海に吸い込まれるより早く、ナミはもう一度暗闇に向かった。

深く  深く

冷たくなっていく海水の中、涙だけが熱い筋を作って後ろに流れていく。



さっきよりかなり深いところまで来ると、少し息が苦しくなってきた。
ナミはようやく潜るのを止め、辺りを見回す。
どこを見ても、闇。
自分が沈んでいくのか、浮いていくのかさえわからなくなりそうな。
さっきとは打って変わって、不安が胸を締め付ける。


死には優しく、生には厳しい海。

でも、ここで生きていくって決めた。
あの人と、あいつらと。
弱さは全て流して。


のどの奥に引っかかっていた感情を、空気と一緒に吐き出す。
気泡が、涙のあとを洗うように顔を撫で、上昇していった。

『さよなら』

愛しそうに海底を見つめた後、ナミは水面へ向けて浮上を始めた。


 何度でもここへ捨てに来よう
 胸を締め付ける痛みも 弱さも 矛盾も

 この感情に きっと終わりなんてない



上の方で小さな光が瞬いた気がした。

 星・・・そんなはずない
 まだ月明かりすら届かないのに

再び押し寄せる不安。
それを振り切るように、ひたすら浮上する。
と、突然白い人影が見え始めた。

  ゾロ・・・・

ゾロはナミと目が合うと、少し泣きそうな顔になって手を伸ばす。
ナミが答えるように手を伸ばすと、強くナミを引き寄せた。
強引で深いキス。
そして、熱い息。


 今度はちゃんと  あなたの味がした



ゾロはそのままナミの手をひいて泳ぎだす。
月明かりが差し込むと共に、三連のピアスがきらきらと瞬いた。

  これだったんだ・・・・・

せめてこの後姿は、いつまでも見ていたいと思った。




「ったく・・・・なにやってんだよ・・・・」 
 こっちの心配も考えずに 勝手な事ばかりしやがって・・・・
二度もナミを救う羽目になったゾロは、不機嫌そうに呟く。
「捨ててきたのよ」
「あァ?なにを?」
「な〜いしょ♪」
ナミの笑顔には、さっきまでの悲しさは残っていなかった。

  まったく・・・・・

それでも、まあいいか・・・と、思ってしまう。

 お前の望むものなんて知らない
 ただおれは、おれのために
 おれの望む、この笑顔のために




「冷えちまうと悪いな。早いとこあがろう」
「そうね。もう一度お風呂に入らなきゃ」
縄梯子の下ろしてあるところへと泳ぎだす。
先にたどり着いたゾロは、ナミのほうを振り返る。
「おい、先に行け」
「えっ!!い、いいわよ。あんたが先に行って」
ナミは今日もミニスカートを履いている。
このまま先に上ったら、確実に下着が見えてしまうのだ。
「また落ちるんじゃねえのか?」
ゾロが、からかう様に笑う。
「そしたらまた上るわよ!いいから先に行って!」
全く強情な奴だ・・・・そう呟きながら、ゾロは先に梯子を上っていく。

上りきって振り返り、後についてゆっくりと上ってくるナミに手を差し出す。

ナミは笑顔でその手を握り、ゾロの胸の中へ。


 こういうのがいいな


そう思いながら。


少し傾いた月が、さっきより長いひとつの影を甲板に落としていた。



 


<御礼>
萌芽さんに投稿して戴きました。
おねだりはしてみる物ですね。

夜陰の甲板の上の月の光・・刀の上にすべる光・・跳ねて煌く光・・
波の光・・水面を下から見上げた光・・夜空に輝く星とも見まごう三連の光
静かな夜の見えない世界を微かな灯りを集めて互いを捜す
二人の身体まで燐光を上げそうなその互いの心理が重なる光の中で綺麗です。
綺麗な作品をありがとうございました。嬉しいったら有りませんvvv

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