Fly high 第6章
人は一人きりじゃ生きられないと言いながらも
二人で分かち合うことさえ充分にできはしないのに
だけど・・・
戻れない時の扉を開けて
あの時間へと もう一度
──── 帰りたい
薄暗い灰色をした雲の絨毯から、
生暖かい空気の合間を縫って
冴え冴えとしたそれでいてどこかうっとおし気な
どしゃ降りの雨が降り注ぐ
1日の始まりの夜明けはそんな日だった
彼女の思いにもよく似た
そんな雨だった
ナミの傷の具合は全くと言ってよいほど大したことはなかった
「跡も残らない」
そう、医師から告げられると
ほどなくして診療所から痛々しいくらい、
浮き出る鎖骨に絡まる
白い布を纏う彼女の姿は消えていた
色鮮やかなオレンジ色をした一輪の傘の花が
どんよりと雨で重さを含む潮風が注ぎ込む大地に
ポツリと咲き開く
「ったく、傷を負ったか弱き乙女に対して
迎えの一人も来ないなんて 最低だわっ
大体、ゾロもゾロよっ 一度も見舞いに来やしないでさっ 心底呆れるわ
あの、男にはっ」
足元に軽快なまでにも跳ね上がる水飛沫を感じながら
唇を尖らせそう彼女は毒つく
でも、それは彼女自身の自分に対する、
空元気であったのかも知れない
口にした言葉は、嘘なのかもしれない
そう少しでも不平不満を口にして居なければ
そう何も無かった頃の自分を装わなければ
視界を微かに覆うたっぷりと水を吸いしなだれる青々とした針葉樹の
緑色をした葉を見て取れば
見てしまえば
後に来る胸の中にある深い痛みが今にも引き裂かれてしまうのだから
ぼんやりと浮かび上がっている船影が歩みを進める度に
くっきりと色濃くなってゆく
久しぶりに帰ってきた戻るべき場所
戻れる居場所
それなのに───
しとしとと冷たい音を軋ませながら降り続く雨の中
彼女は静かにその歩みを止めた
「大丈夫・・・」
そう呟きを残して
濡れるゴーイングメリー号をじっと見つめ続けるその瞳は
酷く物悲しげな色を宿していた
「こんなことよりも ずっと辛く苦しかったことの方が多かったんだから・・・・
だから・・・大丈夫」
ゆっくりと彼女は視線を動かして空を仰ぎ見る
辺りを漂う新緑の匂いを感じながら
空高く落ちてくる針にも似た激しい雨に打たれて
流されてゆく気持ちを抑えきれない彼女の想いのように
さらけ出された彼女の身体から幾重にも雨の粒が流れていった
「ナミっ」
狙撃手と料理人の前にそう叫んだ声の主の傘が舞い落ちて。
鋭く尖ったその声音で叫ばれた名はあの時の声に似ている
2人の男はそう感じた
アーロンパークが陥落したと同時にその呪縛からも解き放たれた少女の名を発した
その声に。
咽ぶ雨雫の煙の向こう側
ルフィが消えていったその方角にサンジとウソップが視線を移してみれば
びしょ濡れの航海士の姿
酷く切なげなナミの姿
「ルフィっ!濡れたまんまでジャレないでよっ!」
でも・・・あどけなさが残る少年が纏わりつくように傍にいれば
「いいじゃんかよ〜〜お前は、俺の仲間なんだからよ」
慈しみ溢れる穏やかな姿へと変わってゆく
目を細めそんな2人をやれやれといった面持ちで眺めていたウソップは
悄然とする隣の男へ呟いた
「相手がデカければ、デカイほど・・・張り合いがある 燃えるってモンじゃないのか?」
と
扉を開くとシーンとした冷めたい空気が、さもこの部屋の住人のように
ナミの部屋に住み着いていた
「ほんとに・・・やんなっちゃう」
人知れず彼女は苦笑する
ナミを迎えにゆこうと船を降りた男達の前に予告なしに現れた
その彼女に彼らなりの考えがあったのだろう
『船に帰ろ?』と言う彼女を全く無視して
「顔に似合わず、気使っちゃって」
雨降る中へと消えてゆき
「あんまり、私を甘やかさないでよね・・・」
遠ざかるその彼ら1人1人の背中に問い掛けるように呟いた
「ダメなっちゃうじゃない・・・」
それは彼女自身へと問い掛け
視界に入るとても小さなソファ
ゆっくりと歩み寄り
愛おしそうに指を滑らし頬でそっと布を撫でてみれば
何度も何度もここで好きな男の体温を感じ
名前を呼ばれるたびに胸がドキドキして
それが心地よくて
それが聞きたくて
捉えて離さないその瞳を
逃がしたくなくて
何度も何度も彼を強く
抱きしめた
いっそこのまま
溶け合ってしまう事が出来ればいいと
毎夜毎夜、その一晩が終わるやるせなさと
1日が始まる不安との狭間で
一瞬よぎるその男の優しさに
感じあいたいと甘い夢をみる
ソファに残る男の残像が彼女の細く長い髪から爪の先までと
1つ1つ染み渡ってゆく
「あんたは、こんな時まで私を強くさせるんだね・・・」
くくっとナミは喉の奥で笑う
「悲しすぎると人は・・・・強くなるって・・・やっぱり、ホントだね
でも・・・いいよね・・・誰かの為に 1人涙を流す私がいても・・・
ホントにホントに少しだけ・・」
慟哭の叫びは激しく船を打ち付ける雨の轟音と共に飲み込んでは消えていった
耳を澄まさなければ聞えない程の
そのもの悲しげな声が鼓膜を射ち震わす
女部屋へと通ずる緊急用の扉に
片膝を立て背もたれていた男は
その壁の向こうからさし込むように流れてくる悲哀の音色に
切なさが胸に積もっていったことは
彼女は知ることはない
どのくらい時が過ぎたのだろう
船底を触れるかすかな波の音が聞えるだけで、
あとは静寂に包まれていた
雨はきっと止んだのだろう
ナミは1つ大きく頷くと鏡の前に立ちパンと頬を叩く
肩でゆっくりと深呼吸をすると
「よしっっ」
今度は私の番だ・・・
身体に刻み込まれている
この傷の痛みより
この傷の深さより
遥かに辛い闇を彷徨う傷を持っている人の元へ
覚悟はできた
扉の閉まる乾いた音だけが部屋中を満たしていった
外は朝の雨とは一転して
晴れ渡る澄みきった青空が水面に映し出されていた
大粒の雫で濡れきった甲板も真夏の照りつける太陽ですっかりと
乾ききっていた
きらきらと太陽が反射する眩しい海を
ゾロは手摺に肘を付きながらあてもなくただただ視線を巡らす
別段彼に変わった様子は見られない
ただ1つ、いつも肌身離さず持っているモノが無い事を除けば
本当に何も変わらないその男の姿
「いつまで そうしてるつもり?さっきから私がここに居る事知ってるくせに」
固く張り巡らしている甲板の木が壊れるのではないかと思うくらい
ズカズカとした音が近づいてくるのも全く気にも止めず驚くこともなく
ゾロは決して彼女の方へとは振り向こうとはしかった
随分と前から、ナミが後ろに潜めていたことを知りながらも
広く大きなその背中を波のように激しく全身に広がる怒りを
瞳に宿して
彼女の倍近くはあるだろう太く締まったゾロの腕を
ナミは持てる限りの力で掴み取り
ぐいっと自分の方へと向かせると、一際強い視線をゾロへと突き刺した
堪えきれないほどの不愉快さの影を滲ませて
怒りと哀しみが入り混じる低く押し潰した震える声音をゾロに吐き捨てる
「あんたの思いって、そんなに軽いモノだったのっ これを・・・」
じっとゾロを見据えた茶褐色のその瞳から放たれている偽りのない純粋さを
「これをっ 主を失くした迷子にさせたらっ」
手離したくないと願うのは男の身勝手というものなのだろうか
「私はあんたを一生ゆるさないからっ」
ナミは表情1つ崩すことなくゾロの目の前に手にするずしりと重い“それ”を突きつけた
男部屋に息の根を止めたように静かに横たえられていた
この男の信念、野望そして強さを秘めた3本の内の1本
船が揺れ様が雷が鳴ろうが雪が降ろうが槍が降ろうが
ましてや 人を斬った後では
どんな時でも手入れを絶やした事のないその刀には真っ白な白鞘には
似つかわしくない程今だこびり付いている
血痕が今だその刃に彩られている
和道一文字を
まばゆい太陽の光が彼女に注ぎ込み
さらりと揺れるオレンジ色をした髪がより一層鮮やかな色を放つ
きらきら光る逆光線の中の彼女ををまぶしそうにゾロは見つめる
虹色のベールに包み込まれている彼女の面をうまく読み取れずにいて
互いが互いを見つめて
沈黙の刻が訪れる
その沈黙を破るかのように
海鳥達の羽ばたきの音が蒼い空に奏でられて
ゾロは手を伸ばし彼女の手首へとその指先を触れさせる
雪走、鬼撤をナミの手中からそっと外し
それぞれの居場所へと帰した
でも・・・
和道一文字だけは、その場所へと帰る事は無かった
「そんな つもりはねえよ」
「だったら!」
「傷・・・大丈夫か」
「今は そんな事──っ!」
目を凝らさなければわからないほどの
ホントに小さなうっすらとした紫いろをした痕に
伸ばされたゾロの指先が触れる
無骨な指に感じられる女の温もりは、決して何者にも代えられなくて
弾かれたように、はっと面をあげ息を飲むように見上げているナミを
確実に瞳で捉える
「ラブコックから聞いた」
「え!?」
「この痕の理由 お前とあいつの間にあった出来事」
不安な顔をしているナミに一言“心配するな”と付け足し
「まあ・・・気持ちは分からんでもないがな」
「どういう意味・・」
「別に・・・深い意味はねえよ」
呟きながら脳裏を過ぎる苦しげに鼻でせせら笑う男
サンジの姿
『俺の前ではいい女を演じてる
腹巻の前でそれを演じるのは無意味なんだとよ
ナミさんの中にはてめえしか映し出されてなかったんだよ』
その男に少なからず同情にも似た気持ちを抱いた事は事実
ナミの中に、違う男の影がちらついていたら
考えも及ばなかった己自身の事実
引くに引けなくなっている現実
─── 俺も同じ事をしただろうからな
「何 それっ なんか気になる──っ!」
濁すゾロの言葉尻に不審の念を紡いだ
彼女を刹那に引き寄せて
「ルフィからも聞かされた お前があいつの前に飛び出した本当の訳」
はかり知ることも出来なかった彼女の唯一の願いは
『サンジのせいにしてまで、
他人を傷つけてまで
お前を好きでいたくは無かったんだ
無垢なお前の気持ちを
1番大事な1番大好きなナミの宝
ゾロ ナミはお前への気持ちを守りたかっただけなんだ』
この船長には心底かなわないと思った
潮風を全身に感じながらオレンジの香りが漂う彼女の髪に顔を埋め
そっと唇を落とした
「悪かったな」
「そう・・・じゃあ、私に対する誤解は無くなったんだ」
子猫のようにすっぽりと収まっているゾロの腕から彼女はスルリと抜け出る
そしてゾロを背にナミは揺れる波飛沫を見つめた
「考えてた・・・ずっと・・・あの夜の出来事から、」
今日の空に夏の匂いと風が通り過ぎて揺れる髪をゆっくりと掻き揚げながら
酷く月明かりが綺麗な夜の病室で1人孤独に負けそうになったとしても
大丈夫だって頷いた
「戻れることなど出来ないって分かってる」
ナミはゾロの名を愛とおしげな吐息をのせて呼び振り向く
泣き顔にも似た柔らかな微笑みを浮かべて
「だから、わたしは────」
もしも、運命というものがあるとするのならば
どこかでまた出会えると 信じるから
例え、船を降りても
──── あんたと離れても
「仲間に戻るつもりも更々ねぇよ・・・」
まるで独り言のようなゾロの呟きとともにナミの華奢な腰を抱き寄せて
彼女の頬をその肢体を己の胸へと腕の中へと押し付けた
「お前をここから放すつもりもねぇよ」
重々しく彼女の鼓膜が打ち震える
茶褐色の透き通る大きな瞳を尚、一層大きく見開いたナミの手から
ゾロは和道一文字を外して
「俺は、ラブコックみたくお前に接する事は出来ねえ」
「・・・うん 知ってる」
あんたは不器用だからね・・・
「だが・・・コイツと・・・」
戻るべき処に
戻るべき者の元へと帰ってきた白鞘に収められているその刀
ゾロは掌に置かれている和道一文字と回す彼女の身体の腕の力を込める
決して、この腕の中から彼女が逃れることなど出来もしないくらいに
「お前を失っちまったら 俺は俺じゃなくなるような気がする」
俺がそうであるように
「お前がお前らしくあり続けられる相手が、いつまでも俺で在り続けたいと・・・・」
お前もそうでありたいと
──── 願うだけ
本当は崩れてみたいのあんたの前では
泣き顔さえも愛されたいの
いつでも笑っていられる強さ
「ぶっっ」
「・・・なに笑ってるんだよっっ」
それを、くれるのは他でもない
あんたであって
「あんたが、そんな歯の浮くような事言うとなんか
鳥肌立っちゃって 気持ち悪いわ 」
「何だとっっ!!てめぇぇ」
わたしの心と思いを
わたし以上に信じてて
「あー寒い寒い」
「てめぇぇもっぺん斬るぞっっ!!」
あんたの言葉は未来と
勇気を分けてくれて
「やれるモンなら、やってみれば?」
「あ?」
ここにあんたがいてくれて
ほんとうにありがとう・・・
「にしても・・・よくも私を殺そうとしたわね」
「てめぇが勝手に飛び出してきたんだろーがっっ!!」
あんたがいてくれるから
のりこえてゆける
「だからって本気で斬るとは、どういう訳!?」
「なにっっ!?俺が斬ったからあの程度で済んで知っててそう言う事いうのかよっっ」
不確かな未来にも
「あーそー そんなに自分の腕に自信があるのに
どうして鷹の目に負けちゃったのかしらねぇ〜」
「(ブッチチチチチチチチチチ)」
「何の音かしら?」
「ナミっっっ てめぇって女はっっっっっっっ!!!!!」
あんたの弱さを知れば知るほど
あんたの強さを知れば知るほど
愛しさも募ってゆくけど
愛されたいの でも傷つきたくない
子供じみてる恋なんていらない
中途半端な愛し方なんて私には出来ない
腕組みをして勝ち誇った笑みを浮かべる
ああ言えばこう言う女にただただ閉口するしかない
その術しか知らない男がいて────
心底可笑しそうに笑う彼女は、腹立たしげに憮然とするゾロを真っ直ぐに見据えて
暖かいその男の首に手を回し絡めそっと耳元で囁けば
私が捧げるたったひとつの心は
あんたを想い鼓動しているから
希望や欲望や夢はそれぞれにあるけれど
それに応えるかのように男は折れそうなぐらい細い女の身体を抱きしめ続ける
二人の願いはひとつに交わると
信じていたから
「離れられずにいてよね ずっと・・・」
変わることなど永遠にない
見慣れた海の景色がそこには広がっている
END
皆さんの読後の感動を妨げたくないのですが一言
今改めて読み返して、この心に溢れる澄んだ泉に涙しておられる方もお出ででしょう。
深く突き詰められて傷ついても
それでも互いへの思いが溢れるナミ、サンジ、ゾロと
幾ら歯がゆくても手を出さずに
周囲でじっと見つめているルフィとウソップのそれぞれの心模様が
綾織り物のように流れていくお話です。
こんなに素敵な物をドンと預からせてくれて本当にありがとう。
まゆさんに心からの尊敬と愛を込めて
treasureに戻る