溜息よりは腹に気合いを込めて唾を飲み込んで薦をばっと跳ね上げた。背後から降り注ぐ空に近い太陽の勢いも借りて。勢いがなかったらとても足が踏み出せない。それでも汗はぐっしょりと背中を濡らしている。闇の中の暗さに慣れた目にはあたしの細かい表情は見えないことを祈る。
むっとくる獣臭い饐えた匂い。
闇の匂い。
肌が嗅覚を感じるようなそう言いたくなるほどの深い闇。
入ってきた光を拒絶してなかで蠢くものがある。


入り口から一歩踏み込むと背後で薦はばさっと落ちて日を遮った。
また闇がこの空間を支配する。
目が慣れてきて、あたしもこの中に取り込まれそうになる。
中に、蠢くもの、動かないもの。光が無くとも闇の中で己を主張する百麗が空気のなかで私にまとわりついて誘いをかける。


「また女潰したんだね。あんたの相手じゃ保たないって判ってる癖に。」
「・・・ああ?」
床に敷いた雲で織られた薄敷物の上で三人裸体の女達が倒れている。独りは意識がない。その方が幸せかもしれない。だらりと開きながらも濡れた唇、焦点を結ばないまま虚空も見ていない瞳、それでも上がる上向きの口端。その表情は苦悶に彩られながらもどこか恍惚の後にも見える。残る二人も何とか呼吸は保っているもののぐったりしたまま起きあがる気配すらない。その癖に己の深い一呼吸毎に肌を震わせ、その滑らかな曲線が身じろぎする。一人の艶めいた髪がばさりと垂れ下がった。髪が肌に触れることすら彼女たちには某の快感を呼ぶのか。先日までは雄々しく命の美に溢れた女達だったと言うのに。

ほんの三ヶ月の間に覚えたはずの女なのに既にこの男と幾人もが共寝してそのうち元に戻ったものはほんの一握り。
まだ年齢的には少年でも通り、酋長の入れ墨をようやく昨日入れたばかりだというのに既にその悪名はとどろき逆らうものはない。昨日、彫りの作業が終わった時からずっと次の昼までも籠もっているあいつを諫めて欲しいと言ってきたのはそこに横たわる女性の母親だった。お前ならば連れてこられるだろう・・と。

「殺(つぶ)し足りないからって仲間を殺してどうするんだい?」
闇の奥に生き物がいる。
獰猛な、全てに飢えた生き物が。
乾いた、絞り出す声が人の言葉を語る。
「こんなもの生死の儀式にも悖る。」
ワイパーは嘯いたかと思うと立ち上がった。顔に掘られたばかりの彫り物がまだ赤い疼きを伴い腫れている。腫れたまま筋肉の上でまるで生き物のように脈打っている。見せた背の羽根もその周囲の彫り物も背中の筋肉の上でゆっくり揺れている。
その腕は側にある水飲みに手を伸ばすとぎゅっと握った。優雅でしなやかな動作のにどうしても殺伐とした印象をぬぐえない。しなやかに腕を伸ばせばその上の文様も闇の中で命を保ったかのようにせせら笑う。

(怖い)
その強さを尊敬しているのに何故か怖い。



早く出て行った方が良い。女を抱えようと更に数歩足を踏み入れる。
手近な女に布を被せてくるむ。
ワイパーの顔を見ないように足元ばかりを見ていても傷の腫れ具合がどうしても目に付く。目を見ている訳ではないのが楽なのかもしれない。彫りの儀式は生死を超える為の儀式だ。彫りが終わると再生が約束される。その痛みは産みの傷み。己を産み直すことの痛みだ。その彫りが大きければ大きいほど苦痛も大きくそれを受けて祖霊の護りも強くなる。
「腫れてるよ。まだじっとしてろって彫り師に言われたろ?」

「・・・・・顔が疼く。」
右手を彫り物ごと顔を握りつぶさんばかりの勢いで押しつける。
飲み込んだ水の音と共に喉が高く上下する。そこから絞られた声。
「え?」
「呼んでいる声がする。急げ急げと。」




カルガラの血を継いだのはワイパーの母だった。
猛々しくも大きな人であったと朧気に覚えている。凛とした厳しさとその強さはワイパーの上に今も見られる。カルガラの血への誇りと島への郷愁に、むしろ野心的でもあった彼女は登ってきた青海人に近づき、彼らの島に違う力を導入した。男達はおそらくは海賊と呼ばれる生き物だった。仲間を見捨てても野心の為に登ってきた男達をダイアルを餌に懐柔し、その空島にはない鉄という武器と彼を手に入れた。
二つの力は最初互いに穏やかだった。だが数年後彼らは豹変した。
隠れ里の破壊と蹂躙。それを止めたのは海賊達が味方と信じて人質とも当てにしていた、まだいと幼きワイパーだった。
カルガラの血は狂気を帯びた海賊のそれと重なって化け物を産み出したという訳だ。
回りの男達も次第にその狂気にひきずられていくのだろうか?この闇の中に。



新しく彫られた入れ墨は産まれたときに跡継ぎの証として彫られた古いものの側でよりはっきりした色を光らせている。
昨日彫り師が新たなる色を載せた。
闇の色。
深い深い闇の色。
受け継がれてきた酋長の色。
先祖の祖霊達はこの闇の中に妄執を埋め込んだ。
この男にぬぐえない怖さは祖霊達の狂気故になされるのだろうか?

心ならず空に連れてこられ、着の身着のまま追い出された祖先達は地に血を残す為に選んで空島の人間を襲ったという。地に在りしものは雲の上では命を結ぶことが出来なかった。今も植物は次代に命を繋げない。
奴らは欲の為に我らを追い、我らは命の為に命を奪った。それ故に400年を越えた我らの命があり、確執がある。






いけない。
体の中で警鐘が鳴る。
このままここにいてはいけない。





ぐったりと動かないが呼吸だけ認められる二人の女を刳るんだ布ごと抱えてくるりと振り向いて薦の入り口に向かう。

重い。
暖かくて重い。

命の重みをこの男はなんと思っているのだろうか?
それは男だけのものではない。女だけのものでもない。ただ生きていればいいという訳ではない。野望さえ在ればいいとも言えない。
始めにワイパーの相手をした女は先日命を落とした。腹に宿った子を呪いながら狂気のうちに。命を産み出す女の子宮はヴァースと同じく崇められ尊ばれているというのに。その畏敬すらもワイパーには届かない。
ラキが肩抱きに抱えた女の太股を濁った液が流れ落ちていくのがつんと来た匂いで判った。女を闇に落とす匂いだ。



「おいラキ!早くしろ!」
焦れたカマキリの声がした。女達の家族に遠慮して入ってこなかったカマキリは何を焦っているのか覗き込みそうな勢いで入り込もうとする。押しとどめる家族の啜り声が聞こえて、ようやく外界と空間が繋がった。
外にいるカマキリを押しのけて二人をさっさと家族に渡してから戻り、最後に意識のない彼女を抱きかかえた。

振り向いて奴の顔を見てはいけない。だが何も言わないとその重みでテントごと潰れそうな重圧感が背後にある。一言残さないと飲み込まれてしまう。せめて背中越しに。
「皆困ってる。」
「ふん。ではお前が相手をするか?ラキ。」

警鐘は鳴り続ける。闇から触手が伸びてくる。

薦をまた跳ね上げる。光が眩しい。その光は届かずただ瞳の色が闇にぎらついた。
「あたしは戦士だ。仲間のカマ全部掘った後なら相手しても良いけど。」
「・・ふん。そんなに暇じゃない。」



薦の中は闇が深い。
闇はとてつもなく恐ろしく、そして熟れた甘さの匂いを放っている。



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