注意点:表記上ややグロいシーンもあります。スプラッタ物が駄目な方はご注意ください。


「澪」


いつもと変わらない夜。
雪は静かに降っている。
雪は全ての音を飲み込んで、森中の命の音も全て飲み込んだ。





湯気の立つ梅酒を片手に、めくっていた雑誌からふと目を上げた。
どさっと大きなものが雪の上に倒れる振動がかすかに伝わってきた。
そのわずかな衝撃にふと壁のカレンダーを見、
ふんと鼻を鳴らすと机に雑誌を放り投げ、右手のカップをを静かに置き立ち上がった。カップでは湯気が揺らぎながら真っ直ぐ静かに静かに登っていく。部屋の外にでると夜半に掛けて身も凍る温度に下がり、城壁も空気も氷を含んだように澄んで城の入り口からの物音をはっきり伝えてくる。その荒い息とは裏腹に視線は落ち着いたままくれはを見上げていた。

「来たのかい?忘れたかと思ってたよ。」




「何?ドクトリーヌどうした?」
チョッパーが匂いと音に外に飛び出すとくれはの目の前に大きな老馴鹿が横たわっていた。荒い息、下顎はもう落ちている。開眼すら困難なその様子は死相と言われる物を思い切り纏っていた。
この体でこの山を登ってきたのか。
野生の生き物はその本能で道を見つけ出すものだが普段でもこのドラムロックの崖をそう簡単に登れるものなど無い。
蹄を見れば、すでに血が褐色に固まって黒い凝りになっている。

それでも登ってきたのだ。


「・・・・・。 患者? ドクトリーヌ」
「いや・・・。もう半時間くらいで息を引き取るだろう。
 きっちり看取っておやり。」
「だって・・。」
「それも医者の仕事だよ。」
「・・・・・。」
「なんだい患者のえり好みでもしようってのかい?
 半人前が偉そうにすんじゃないよ。」
・・・・・・・・・・。
「でも・・・」
「四の五の言ってんじゃない!」
一瞬息を吸う音がしたと思うと雪の中を振り向いたくれはから一本包丁が飛んできた。
頭後の毛をこすって飛んでいって、後ろの壁に刺さるその勢いはこの至近距離でも一切容赦など無い。
こうなったドクトリーヌに逆らう馬鹿はいない。俺は馴鹿だし。
「お前の患者だ。まかせたよ。」
ただ・・いくらドクトリーヌでも積極的に動物を治しているわけじゃない。
彼女はあくまで自然の秩序には逆らわない。それをあえて受けるとすれば・・・
よそう。どんな関係なのか・・・・たぶん俺には教えてはもらえないんだ。


外の雪はいつものように止むことはない。
もうドクトリーヌは城に入ってしまった。
残されたのは俺と息も荒いこのトナカイで。
荒い息は白い息となって口の下の雪を溶かしては、また凍る。一息一息が炎を削るように吐き出され、横にこぼれる涎は、口すら閉じることができずにいるその苦しさを物語り、もう先が少ないことを語っていた。


黙ってそばに立ってみた。
老大馴鹿。
子供のときの記憶を辿れば
その影すら聳え立つ森の木のように大きかった気がする。
俺には遠かった群れの中でも
更に遠巻きに見ているだけの神のように遠かった存在だったような。

人型になってその大馴鹿を背負って城に運び入れた。
背中からささやかに漏れる息が言の葉のようにも聞こえたがそれはチョッパーにも判る形にならなかった。





「3年と75日・・か。よく覚えていたもんだ」


あのとき・・なんの縁か山中で怪我をした大馴鹿の治療を引き受ける羽目になった。
留守番のチョッパーは知らない話だ。
『薬の秘法は弟子でも簡単に見せてやるわけには行かないから勝手に盗むんだね。』
といつも言ってある。
どんな生き物も己で手にしたものの他は持てないのだ。教わるということは受身ではありえない。苦しんで手にしたものは決して生涯己の手から零れ落ちることはないのだから。

その日はそういってある手前自分の体調にも拘らず己が山に入って薬の原料を探す必要があった。

その山中で目的に辿り着く途中の道すがらに外傷だらけの獣が横たわっていた。
通り過ぎるつもりがそれに呼ばれた感じがあった。
目をやればその顔面に走る大きな傷と大きさからも素性は知れる馴鹿だった。
幸い脚の骨は折れていなかった。ガラにもなく手当をしてしまったのはそいつの静かな目のせいだった。

『なんだい。これで当座は大丈夫さね。
 何が心配だい?治療費はもちろん払って貰うよ。
 お前の肉と肝を貰うからね。
 ・・・何考えてんだ?今の話じゃないよ。
 今回の怪我でお前の寿命は後三年と二ヶ月と十六日だ。
 そん時にきちんと払いにくるんだね。』

群の新しいボスと老ボスの戦いはどの群にも絶えない。
ただこの一際大きな馴鹿はかなりの長期にわたって幾つかの群を統合していた。
それだけに人界でも氏も素性も有名な存在であった。
もう一度戦いの決着を付けに行くのだろう。
この老齢が戦う理由はもはや雌や、子孫ではない。子孫は限りなく広がっている。
誇り・・そう呼んでも良い物を賭けている、
それこそが今此処で手当てを受けて、去っていく理由なのだ。

『・・・そうだ、お前、青鼻のトナカイに心当たりはあるかい?』
立ち去りかけた馴鹿の振り向いた大きな目が語っていた。



********


「逝ったかい?」
「うん、いま。」
「・・・・何をするつもりだい?スコップもって。」
「さっさと埋めてやろうかと思って。」
雪を掘り、土を探す。雪の上に倒れたならその姿は凍ったままだが土に触れていればその肉は還ることができる。俺も見えなくなるほうがいい。そのほうがふさわしいと思ったのだ。

スコップを背負った俺をドクトリーヌは黙っていつものように好きにさせてくれると思ったが、持っていた温めた梅酒を入れた厚手のガラスのカップをテーブルに静かに置くといつもの声で告げた。
「馬鹿お言いじゃない。さっさと手術台の上に載せな。」
「え?もう死んでるんだよ?オペしたって何もならないし・・。」

「捌(さば)くよ。」

「!・・・だって・・・。」
「なんだいこの間もう人間になったって言ったのはあれは嘘かい?
 使えるものはみな使う。
 こんな良薬が目の前にあるんだ。人間が使わないはずはないだろう。
 遺体だって解剖を見るのにこれ以上のものはない。
 目の前の命をむざむざ捨てるのかい?
 死を知らなかったら生き物の命は救えないって
 いつも言い聞かせてるだろ?」
「だって・・・相手はトナカイだよ!」
俺と・・同じ・・・
「だからどうしたんだい?
 人間って言うのは業の深い生き物だ。
 他の命を吸い尽くして生きていく。
 そんな覚悟もないまま大言をほざいてたのかい?」

ごくり。
チョッパーは改めて息を呑んだ。
額に汗が浮かんできた。これは人の証だ。
俺はヒトになった。なったはずなんだ。
トナカイじゃない。


「肝は陰で干して、腱は膠に、皮膚は毛皮に、肉は干し肉に、骨はカルシウムの粉末に、髄は煮出して ・・・いくらでも使い道はあるんだ。
 今日は一人でおやり。」

「そんな!」
「うるさいね!
 そいつを使っていくらでもやることはあるんだよ!さっさとお行き!」





広い城だから部屋はいくつもあった。
ただ二人だけの生活で入院患者がいるでなし
寒いこともあって使う部屋は決まっていたが。
今からの作業用に向いている一番下のおそらくはもと大人数用の厨房と思われる部屋に運んだ。
そのまま血合いの処理をする低い台に乗せ
 ・・・しばらくの間静かな遺体を眺めていた。


・・こんなに小さかったろうか?
否定したい時代に遠くに垣間見たことがあるだけの存在を
自分が覚えていることに複雑な感情を否定することができない。
こいつは俺を覚えているんだろうか?
いや・・たかが群れの異端児の一匹だ。
しかも早くに群れから零れ落ちてしまった小さな一匹。
はじめから受け入れてすらもらえなかった青鼻の一匹。
そんな無駄な期待はとうに捨てた。
俺はトナカイじゃなかったんだ。



悪魔の実。
あれを食べたのは絶え間ない空腹のせいばかりじゃないんだ。
動物の直感って言うやつだろう。他の動物にはもちろん、俺にもわかってた。
あれの匂いを嗅いだときから
何か俺を根本から変えてしまう物だってことが。
変えられてしまったらもう二度と元には戻れないってことを。
誰でもそうだろう。外力で己を変えられる恐怖に進んで身を投げ出すものなどいない。

でも、あの時俺は変わりたかったんだ。
その変化がいいことなのか、悪いことなのかすら問題じゃなかった。
もうただ無視され、踏みにじられ続ける青っ鼻のトナカイでありたくなかった。
自分が何をしたってだめなのなら、外からの力で変われるものならそれを望んでいた。

そうして・・おれは“ヒトヒトの実”を喰ったんだ。


それでも望んだ変化など与えられなかった。
望めばなんでも手に入ると言うが、望むだけでは変わることができない。
自分で踏み出す力を持たないとそれは絵に描いた餅に過ぎないんだ。
でも俺には力もなく踏み出す方向すらわからないまま・・・。
もう、何を望んで良いのかわからなくなっていた。



今俺は人間になったんだ。成ったはずなんだ。
だからこいつはただの餌のトナカイでしかない。
頭で理解するんじゃない、体に叩き込め。
俺がトナカイを屠ることだってあるんだ。



それでもチョッパーが最初の一線を超える覚悟が決まるまで相当の時間を費やした。
遺体と語り、自分と語る。

それを人は通夜と呼んでいる。


決めてから真っ直ぐ遺体に向かって頭をたれる。
一度深呼吸して、体にメスを入れた。
軽い硬直が始まっているその身体に滑るようにメスが入る。
やや固めの皮膚から脂肪識を越え筋肉、骨の継ぎ目へとメスを差し入れ、選り分けていく。
既に亡くなっているとはいっても神経組織を切断するときには躊躇いがあった。ぷつっと切れ行く感覚の連続に次第に夢中になっていく。
その感触は一生忘れられないだろう。





彼此半日以上の時間がかかったはずだった。
というのにくれはの姿は先ほどとほとんど変わりなく、いつもの自分のいすに座ったままだった。横のテーブルには冷め切った梅酒とページの進んでいない本が膝の上にあった。
チョッパーはそれに気付かずにその膝元に駆け寄った。
「終わったよドクトリーヌ。
 きちんと全部捌いたよ。
 俺・・俺人間なんだよね!トナカイじゃないんだよね!」

真っ赤な目をしたチョッパーはすがる様に真っ直ぐくれはを見た。
かすかに口から吐物臭が漂う。
青ざめた微笑は震える体を押し隠しながらも
それでも一つの事を成し遂げた逞しさをはらんでいる。

・・だというのに。


「・・・・・。」
「俺やり遂げたんだから!!・・な・・そうだよね。」

人に確認してもらわねば、まだ自信がもてないのか・・・
おそらくそのことにすら自覚も無く。



「・・・お前は人間さね。」

この言葉もきっとお前の望むほどの力を与えてやれないことはわかっていた。



三日会わなければ人は変わるという。
それは自信に裏打ちされた者か、自分の求めていたものを手に入れた者の話だ。

今自分に自信のないこいつを救うのはどれだけのエネルギーか愛情か。
判ってはいるのだ、このトナカイを満たすものがあたしにはないことを。
与えられないことを。
ヒルルクよ。お前のように、
こいつの心に入り込むものとの出会いを待つには
どれくらいの時間が要るんだろうかね。
そしてそれは・・・すでにチョッパーの運一つにかかっている。



それでも
人を変えるのは何も大きなきっかけだけではない。

毎日の営みの中のほんの些細な一歩が。
ほんの少し我慢したことが。
微細すぎて気づかないくらいの踏ん張りが。

数年たっては自身の航海の澪としてひっそり残っていることに気がつくかもしれない。


だが気など付かないほうが良い。
でもこうやって日々お前に力を注いでやりたい。
打たれても立ち上がるその打たれ強さを信じてやりたい。
打たれることに慣れる事で独力で立てるように。
あたしに出来ることと言えばこのくらいだ。
その代わりにあたしがあげられるものは全て奪っていくがいい。
ついてくる者など殆ど居なかったこのやり方にお前ならついてこられるだろう。

チョッパーはいつしか膝に顔を埋めたまま眠っていた。その体を隣のチョッパーの部屋の寝床に運んで横たえる。
「明日から又こき使うからね。」
その声音は起きているチョッパーは聞いたことがなかった。




山中には人知れない領域がごまんとある。
ここはその一つだ。
温泉が湧いているために暖かく他の場所より雪が溶けて解放された緑が多い。
チョッパーは知っていたのだろう。
処理をおえた馴鹿の一部をここに持ってきて、大きな石をその上においていった。

今日くれはは片手に酒瓶を抱えてそこまで登ってきた。
彼が出航してかれこれ日が経った。
ゆっくりと熱い風がわき上がりつつある人々を遠目に臨みながら、くれはは城から引き上げる準備を考えていた。
ヒルルクのことはもう皆の心に刻まれている。
墓と称して敢えて彼女があの城にこだわる必要もないだろう。

目的の石は廻りの勢いよく育った草の中に埋もれつつあった。
その草を掻き分けて、前に座り込む。
墓石に持ってきた酒をざっとかけた。




結局はあいつはあんたが親だって気がつかなかったみたいだよ。
群れの生活もあまり知らない子だったから想像もつかなかったんだろう?
でも知らなくても一人でやった野辺送りとあんたの血肉は確実にあいつを大きくした。

あんたを売って薬を手に入れることも覚えた。
生き物の解剖も教えられた。
あんたを喰って生きていくしぶとさを身に付けた。

もうどこへ出しても大丈夫さね。

そしてあいつは行ったよ。
望んでいた海へ。
ヒッヒッヒッヒ。いっぱしに『男だ!』だとさ。


言葉一つやれなくても、受け継がれるもんもあるんだね。
約束を果たしに着たあんたの律儀さを
目的を果たすまで決してあきらめないしぶとさを
あいつはちゃんともらってるよ。

あいつもいつかわかるのかね。他の生き物からもらったものの大きさに。
知ったことじゃないがね。それをどう使うかはあいつ次第だ。

今のお前には遠くの海賊たちもみえるのかい?



〔おい、チョッパー自己紹介してみろよ!〕
〔照れるなよ!〕
〔えっと・・じゃあ・・俺はトニートニー・チョッパー!馴鹿で人間なこの海賊団の船医だ!!〕
〔・・乾杯!!!〕



これで満足かい?


end


チョッパーを支えたものは一つじゃないよ。と言いたくて。

シルバーマニアックス(ぜんまい稼働さん)投稿作品。