「おいルフィ。おれちょっと…」
夕食後、街の明かりがどんどん鮮やかになる頃。
喰ったら出す。当たり前の生理現象がウソップの下腹あたりを襲った。
「んあ?ここですれば?」
「こら、ここじゃ後の始末に困るじゃねえか。ちょい行ってくる。」
妙なところで律儀な狙撃手はそそくさと立ち去った。
「あちゃーーしょーがねえなあ。」
宝の帽子に手をやりながら、見送るルフィの耳に優しげな響きが聞こえてきた。
「?」
その音に惹かれて足を向ける。薄暮から漆黒の闇に移るその狭間の時間。
街の石畳に染み込む音と弾かれて遊ぶ音。微妙なバランスで繰り広げられるハーモニーに誘われるように脚を進めたルフィの前に男の子が立っていた。
足下に置かれたケースの中には小銭が少し入っている。手にしたバイオリンから流れる音にルフィが耳を傾けてもその楽器の名前までは知りうるべくもない。
「お前上手めえな〜。」
ルフィは演奏が一段落して付いたその呼吸に合わせたように声を掛ける。何の計算もなく人の心にそのまま受け入れられるタイミングを知っている。
「あなただったんですね?」
少年は微笑み目を瞑った。怪訝そうなルフィにかまわず話し続ける。
にこりと微笑む少年の顔は少し誇らしげに紅潮している。年の頃ならルフィより幼い感じだ。
灰色の真っ直ぐな髪を持った少年は目を伏せることなく、また睨むこともなく真直ぐにルフィの方へ顔を向けた。
素直な雰囲気の中に一抹の不自然な違和感をルフィは感じた。
何だろう。
でも・・・自分の中の感覚は警告しない。だから大丈夫。
「探していました。
数日前からあなたの音が聞こえたんです。
低音の・・心をもぎ取ってしまうような甘い音・・その元があなたでした。」
「ええっ??
俺が音をだしてんのか?うるさいのか?」
ルフィは言葉をそのまま受け取って吃驚して聞きかえす。
「ああ済みません。音なら皆さんが出していますよ。
僕の耳は視力が無い代わりに普通の人には聞こえない音を僕にくれるんです。
だから一人一人が出す音の違いで、僕は人を見分けているんです。」
超常現象をさも当たり前のように笑って少年は語った。
ルフィのそれは聞こえると言うよりも身体に直接振動を与える音のようだ、と彼は語った。
そしてこの音の心地よさは皆を麻痺させ、巻き込むだろう、この音に逆らうことの出来る人間はいるだろうか?と直感し、身体の赴くまま探し続けたといった。
「あなたは…海からいらしたんですか?潮の香りがしますね。」
「ああ。グランドラインを旅してんだ。」
その誇らしげな口調に少年の口元もゆるむ。
「何処まで行くんですか…?」
「決まってるだろ?海賊王になるまでだ。」
いつもと変わらないルフィは腕に拳を作りながら答える。
本人にとっては当然の答え。疑いなど付け入る隙間がない。
そんなルフィでも静かにくすくす笑う少年の不可思議さに頭をひねった。
そして思案顔の後に顔を輝かせる。
「何だ?お前も海に出たいのか?」
「海・・ですか?」
「じゃあ一緒に行こう!お前音楽家だろ?ずっと探してたんだ!」
僕の身体自身が彼の音に惹かれている。
自分の
直感が当たっていたことが解る。
彼の言葉が、彼がそこにいることが僕の身体を捕まえた。
何という気持ちの良い音だろう。
幼児が虫を捕まえるがごとき真直ぐさで、ルフィは仲間を捕まえる。
ナミが言っていたことがある。
「こんなに面倒な連中なのになんであんたの『仲間だ』って言葉に逆らえないのかしら?」
言った当人は半ばあきらめ顔で呟いていた。
その優しい顔がルフィは大好きだった。
少年の目の前を光る虫がぼうっと飛んでいった。
顔に触らんばかりの近距離で・・なのに少年は顔を退くこともせず瞬きもしない。
ルフィは自分の顔を側に持っていっても動かない彼の、やや下向きに伏せた目の焦点があっていない事にようやく気が付いた。
「あれ??おめえ、見えてねえの?」
彼は自分の弾くバイオリンの音と同じ柔らかい笑顔を浮かべた。
最初に述べた彼の言葉も、彼が納得するまでは彼に届かないのだ。
その純粋なまでの己に対する一種愚かと言ってもよいような集中力も彼の魅力なのだろうと笑みが浮かんだ。
その顔が虫の光に照らされる。
暗くなった街の灯よりも柔らかい虫の灯りが彼を照らし彼は瞼をあげた。
灰色の髪、白い肌、そして・・
「晴れの海の青だ。」
瞑り気味の目だった。細い目なのだと思っていた。笑うときも、こちらを見る時も。
それが表を開けたとき船乗りが求めて止まない色がその双眸にあった。
この色を求めて船乗りは海へと出る。
「お前イイぞ。一緒に行こう!」
この顔をした船長を止められるものはいない。
はずだった。
光る虫は少年の身体の周りに集まってきた。ルフィの手の中にも、足にも増えてきて、二人の周りが明るくなってくる。
あたりの闇は深まり少年達の周りに飛ぶ虫達の光がよりいっそう鮮やかになっていく。
「この虫達が光って綺麗なのも見られねえのか?」
「解りますよ。カネムシの音はものすごく高い澄んだ音なんです。薄い金属の板が響き合うような…今年はいつもよりたくさんいるみたいですね。それに・・・・僕たちの周りに集まって来ていませんか?」
「うんこの虫、凄えぞ。人が好きなのか?」
「え?カネムシは鉄が好きなんですよ?人なんて眼中にないはずです。それとも彼らにもこの音が聞こえるのかな?僕みたいにあなたに惹かれて集まるのかも・・」
少年は構えたバイオリンを弾く。
今度は虫の歌に合わせた即興の曲を。
音が身体を包み込み、ぐるぐる回る。
近くの虫に、遠くの光に音が伝わり、響いていきますように。
弾きながら少年はバイオリンにのめり込んでいった。
次第に魂も正気も皆連れて行かれたように弾く。弾かされる。
周りにルフィがいることも、彼が呼ぶ海にも行ってみたいという身体の叫びも自分の気持ちも全てが遠くなっていく。
そして
「……!!」
少年の頭の中で何かが炸裂した。感電したときのように、ものすごい情報が頭の中に飛び込んであふれてくる。知らない音をごちゃ混ぜに頭の奥にぶち込んだように身体が痙攣して止まらない。
痛く・・はない。暑くも、冷たくもない始めての感覚。
腕が握られている。
握られた両腕が暑い。
感触から握られていることが解る。いったい誰に?
「おい!お前!大丈夫かっっ!」声が聞こえる。
(この声は・・)
自分はその音のエネルギーの出ている場所が解る。
でも今までの聴こえ、香り、触覚とは違う感覚が脳内を真っ直ぐ突き抜けて説明できない。
(これは口・・?まさか僕は・・今・・見え・・ている・・?)
そしてその側にもの凄い圧迫感と力のある物がある。
(これが目?・・なんて力強い・・ああっ・・この力・・僕が巻き込まれて僕でなくなってしまう・・恐い・・こわ・・い・・)
「うわあああああああああ。」
「おい!っどうした!」
一瞬確かに少年の視線が目の前のルフィの顔に焦点を合わせた。
「これが・・?あなたの・・かお?・・」
蒼い目を大きく見開いて凝視し、耐えきれずに堅く瞑った。身体の震えは止まらない。足は立っていることが出来ずに力が入らない。
両手に残っているものは・・僕のバイオリン!
海難事故にあったときに浮遊木の切れ端にすがるように弦をなぞる。
力無い音からやがて出てくる単音一つずつが周りに広がっていく。
一音、更に一音と重ねていくと周りの音が戻ってくる。
いつもの日常の・・街の建物や石畳、木々の音、風の音。僕自身の・・音。
自分の手が弾くに任せていると身体の震えは止まり、足に力が戻ってきた。
カネムシの音、遠くに聞こえる人の喧噪。
「おい!大丈夫か?俺と一緒に行くんだろう?こんなところで負けるな!」
捕まれていた両手は熱く痛い。
この手と僕の未来は一緒じゃないんだ。
付いて行きたがっていた身体が示すその事実。
この人の音と僕は共鳴できない…。
でもそして気が付いた。周りの音が僕に優しく注いでいた。
この街を作る物全てから奏でられている音がカネムシの音とともに響いている。
僕のいるところは・・ここなんだ。
「僕は行けません。」
静かに優しげにそしてきっぱりと少年は告げていた。口元の微笑みは変わらない。
少年の周りに光る虫がふわふわとまとわりついては、離れていく。
少年は一人で立っていた。
「なんでだ?行こう!」
ルフィは変わらず腕を胸前で組みながら堂々と言ってのける。
少年は答えの代わりにそっとバイオリンを構えて弾いた。
柔らかい音が、虫が飛んでいく街に染み込んでいく。
「街の石にも音があるんです。建物だとか・・敷石とかにも。僕はその音とも響き合うことが出来る音を出したいんです。人や、動物だけでなく、街に響く音楽を。
ここが僕の演場なんです。」
最初に聞いたよりも優しい調べが街に溶け込んでいく。弾いて、跳ねて巻き込んでいく。
新しく僕が得た音は海の魔性に呼ばれた彼さえも街の中に溶け込ませて風景にしてしまう力がある。
黙って聞いていたルフィがそっと答えた。
「音って言われたらわかんねえけど、でも解る。お前ここを大事に思ってるんだな。」
「あ〜あ・・虫のやつ飛んでっちまった。」
彼の手は何かを拾った。手の中でかすかにこするような回っている音がしている。
それを頭に乗せて『じゃあな』と自分の船へと戻っていく。
遠くからおーいと彼に声を掛ける人が近づいて連れだっていく足音が聞こえる。その音は心地よいハーモニーを奏でていた。
虫達がそれぞれに散っていく。
さっきのはきっと彼の音に反応したカネムシが僕に見せた奇跡に違いない。
彼に付いていくことの出来る人はきっと最上の音楽を彼と作るんだろう。僕もそうありたかった。
身体と一緒に心も泣いていた。
「ホアン。申し訳ないけれどやっぱり君の目の神経は反応が全くない。そもそも産まれた時から見るという訓練をしてきていない君の目と脳では、もし見ることが出来てもそれを見たと感じることは出来るはずがないんだ。」
島一番のお医者さんは産まれたときからのつき合いで、僕のために色々調べたりしてくれた良い先生だ。そしてとっても正直者だ。
でも僕は『見た』んです。海賊王の顔を。そして・・一緒に行けなかったんです。
The End