天使






「もう追ってこないでと私は何度も言ったはずよ!」
君は眦をあげて俺たちを睨みながらそう繰り返す。
優雅な車内の屋根は大損傷、壁もすっぽり抜け落ちている。列車の中まで吹き込む大嵐の中で、届かないはずの君の声がはっきり聞こえる。いつもは低く落ちついて甘いその声が今は、触れれば切れてしまいそうな殺気に似た圧力をはらんでいる。

真っ青な顔。唇をかみしめてただ拒絶の言葉を繰り返す。両の腕を前で組む戦いに向かうその姿勢ではその細い心は支えきれない。
顔色は青を通り越して白。そして絶望の黒。
片翼の折れた堕天使の姿で言葉をただ繰り返す。
そうだ、今の君は天使には見えない。嘘の下手なただの小さな女の子にしか見えないよ。

『最高の詐欺師は天使の顔で微笑むのよ。』

俺の傍らで着衣を直してそう言っていた君の謎めいた微笑みが剥がれ落ちている。












子供のような寝息が錯綜するいつもと同じ船底の夜。
遅くまで起きているのは昼間に寝る癖のある剣豪と明日の仕込みに余念のない料理人。大人の時間だとばかりに年の近い彼らの中で、やや年嵩の方に部類される二人である。隣り合わせの女部屋の気配はたまに談笑が聞こえることもあるが二人とも元来そう騒がしい女性達ではない。今夜も静かに物音一つ聞こえない。この部屋では他は様々なまるで子供のように……正直に言えばあり得ない姿勢で夢の世界に行っている。

ばたんと頂部の扉が開いてサンジが静かに降りてきた。膂力と卓越した運動神経で普段はほとんどマストのはしごなど使わない彼らであるが、今宵ばかりはいつもと違うサンジの足音に、階下で寝酒に仕入れた酒瓶を独りで傾けていたゾロの気がふっと引かれた。



サンジは落ち込んでいるようにも見える。だが微妙に浮かれているようでもある。
とにかくいつもの料理人とは何かが違う。




どちらかといわなくてもやや好戦的で、ある意味似たようなそりの合わない男二人、互いの領分を侵さない程度には相手を認めてはいるのがちょっと癪に障っているのも認めない共通項。普段は相手が落ち込めばそれを肴に一杯するくらいの仲ではあるのだが・・今夜のサンジは不思議に別者だった。
そんなふうに考えているゾロの気配を察知したのか、サンジの方も態度にトゲを出すことなくゾロの前に立った。


「・・・飲むか?」
「・・・ああ。」


ゾロの独り酒とあれば色気も食い気もない。脇には空島の岩塩。ただ度数の強めの酒瓶をそのまま飲っているだけだ。
男同士のこと、サンジもわざわざグラスを取ってくるようなことはしない。そのまま瓶を手で受け取ってぐいっと傾けた。

「ぐはっ!」

げほげほと加減が効かなかったのか喉に流れた酒の量の多さと強さにサンジがむせた。
涙が浮かんだ目は下に伏せて、むせたまま瓶をゾロの脇に戻すと胸ポケットからくしゃくしゃっと曲がったシケモクを取り出し、足下の床でマッチを擦り、点いた火を上に向けてちびたタバコの先に移した。むせた後でまだ軽く咳き込みながら、それでも煙をふかしている。

器用なものだと一連の流れをただ眺めていたゾロは思った。
だがそう思ったことが面白くない。にやりと哄笑を浮かべて言葉が出た。

「タバコは乳離れできてない奴が吸うんだってな。」

いつもになく静かにサンジは視線だけをゾロに返した。

「けっっっ勝手言ってやがら、だいたい乳ならたっぷり吸ってきた後だ。」
「ほう?」

予想外の返事にゾロの目が見開いた。

「ロビンか。」
「・・だよ。なんだ、いっそナミさんって答えりゃよかったか?」
「いや、むりだ。あいつぁ今生理中だしな。」
「てんめぇ・・・ナミさんは自分のモンだとでも言いたいのかよ!」

しれっと答えるゾロにサンジが苦虫をかみつぶした顔で食いついた。くたっと広めに開いたゾロの白いシャツの襟元をぐいっと引っ張り付けるサンジに向かってゾロが呟いた。

「いいや。ナミはナミのモンだ。」

視線は真っ直ぐで揺らぎもしない。
ーーー馬鹿だ。こいつは本物の馬鹿だーー

答えに脱力したのかサンジの手が弛んだ。天然と言うには腹立たしいゾロの答えに翻弄される自分が阿呆らしい。そう言うサンジの隙をこれ又素の顔でゾロは次の質問を続ける。

「で??やったにしては落ちこんでんな。・・・・・ああ、勃たなかったのか。」

「・・・・!誰がだ!」

もう一度つかんだ襟元をぐいっと引き寄せて噛みつかんばかりに顔を攻めたが、これも又興が乗らない。ゾロのせいだけではないことはサンジにもよくわかっている。

ーーーくっそぅこの緑頭と来たらこういうときばっかりはルフィと同じ天然で聞いているから質が悪いーー

そう心の中で呟いて手を離してサンジはゾロの横に座り込んだ。襟を緩められたとて全く意に介しない、ある意味無神経なゾロの横では胡座を組む気力が湧かない。しょぼんと立て膝にした両膝に顎を乗せてぼそぼそとサンジは話し始めた。

「俺だって男が廃るってモンだ、きっちり数回イッて貰って、終いにゃ飲んで貰ったよ。」
「ほう。そりゃ良かったな。」

本当に素直に感心しているらしい。答えるゾロには邪気がない。
いっそ羨ましがってくれればいいものをゾロは淡々とした瞳でいるだけだ。

「ああ、やるこたぁきっちりやったんだ。もう上も下も全部舐め倒して最初こそ余裕もなかったけど、二度目以降はこっちも彼女にも楽しんで貰ったさ!だがな!」
いつもの覇気は何処へやらのサンジも最初は同じように静かに素直に返していた。だが返しているうちに行き場のない感情がムクムクと湧き上がってくる。思わず語尾を荒げた。

「全部終わった後のピロ−トークでな。」
「てめぇやった後で口きいてんのか?」
「するぜ?・・普通、しねぇか?」
「いいや・・・・ナミの奴ぐったりして返事もしねぇぜ?・・・・・にすんだ!」

本気で腹が立ったから座ったままの一発蹴りは横顔にストレート。




**



灯りもない薄暗いキッチンでもその雪のような肌は窓からの月明かりにそのラインをゆるゆると現す。
サンジは口にした煙草をいちど深く吸い込んでからはぼんやり燻らせていた。
途中で舞台にした椅子が倒れたままだ。終わった後のけだるさ。
脱ぎ捨てた着衣の上に腰だけを置いて座っている。

「あなたは聞かないの?『良かったか?』って。」
「どうして?」
「・・男ってそうじゃないの?貴方は特に言いそう。」

くすくすと唇が少し揺れている。彼女は俯せからゆっくり頭を持ち上げた。
黒髪がさらりと肩に掛かる。その下から長く連なる白い肌の線。ゆっくりなぞろうと出した指を彼女や拒絶しなかった。
サンジの指は腕ごとゆっくりとその肌を楽しんでいく。

「俺は良かったよ?」
「判ってるわ。私もとても良かったもの。」

終わった後のけだるい空気の中で相手の満足が伝わることは、あの激しい一瞬の次くらいに気持ちいい。
途中の相手の反応に一喜一憂するのも興奮するし楽しいが、得られるゆったりした満足感は会心の料理を食べて貰ってるみたいだ。

「饒舌かと思ってたけど、ベッドの中では静かなのね。」
くすくすとロビンは自身から零れる笑いを口元で楽しんで居るみたいに見える。余裕というよりロビンらしい仕草に安堵を覚えながら興に乗る。
「じゃぁ喋ろうか? 俺の天使ロビンちゃんが微笑んでてくれたらそれだけで天国の気分。」




一瞬。
ホンの一瞬だった。

その言葉の後から今まですっかり外れていた鎧が体の上に薄くだけどびっしりとまとわりついたような気配がした。
「その一瞬の後にはもう普通の笑みに戻ってたんだけどな。俺・・・・不味いこと言ったのかなぁ?」



その瞬間を思い出す度に同じ疑問に心が戻る。
対応できなかった自分に悔いが残る。

「気にしすぎじゃねぇのか?大人の付き合いなんだろ?」
「いいや!違う!!」

突然の大きな声に驚いたのか寝ている面々が一斉に寝返りを打って……又静かになった。今度はゾロが黙っている。

「いくらおめぇが朴念仁でも判るだろ?ロビンちゃんは普通でも綺麗な顔だよな。
それがやった後はいつもより頬は上気して、なんちゅうか・・いい顔してたんだ。
俺もそれが嬉しくってさ。

けど。

その零れる笑顔が一瞬、完全に途切れたんだ。」







  「天使に見える??けど最高の詐欺師も天使の顔をしてるわよ。」





ロビンはいつもよりも謎めいた微笑みで。静かにそのまま着衣の乱れを直し始めた。振り向いてもう一度。サンジに向かって笑顔を見せてさらりとキッチンのドアから黙って出て行った。







「何が言いたかったんだろうなぁ。」

深い吸気が煙を伴って言葉と共に吐き出される。
「さぁな。」
「その最高の笑顔に骨の髄までとろけそうになるのにその台詞だけは一つ、尖った氷みたいに違和感を残すんだぜ。
まるで最高の身体の持ち主と寝てるのにイきそうでイけないようなそんな不快感に似てる。たまらんぜ。」

「そりゃ・・・・」
たまらんだろうなとゾロも想像しやすい。それはかなりの地獄だ。
ゾロの同意を得てかサンジの呟きは止まらない。
「あのロビンちゃんの美貌を言葉で褒めあげても足りないのと似てる。」
「それは・・・・」
わかんねぇよ。と思わず横を向いて口の中で言葉を握りつぶした。

サンジはそういうゾロを無視して言葉を続ける。
「でな。その天使ってのがルフィのことかとも思ったんだ。

 ま、俺が当て馬でも、ロビンちゃんがよけりゃそれはそれでいいかって。
 男と女のこった、身体がなじんでくりゃ気持ちも付いてくるって所あるじゃねぇか。
 俺とならそれでも良いかなって思った。」
自嘲気味に下を向いて半分笑みを浮かべてサンジが語っている。
普段は不快な奴だが知っている。これは奴の本音だろうとゾロは思った。ロビンが選んだ幸せならばサンジはどうあっても助けるだろう。
伝わった理解は、先ほどからサンジを支配していた重い空気だけはゾロにも移る。


重さだけが。

二人並んで腰掛けたまま言葉が続かなくなる。






「あーあれだ。」
沈黙を破ったのはゾロの方だった。
「俺に女が何考えてるかなんて判ると思うなよ。」
視線は逸らしたまま、面はゆそうに頬が一筋赤く染めながら。その上にぼそりと呟く一言。普段にない情けをかける様な言葉が妙に不似合いだ。負けたような気になってるんだろうか?言うだけ言ってそっぽを向いたゾロの横顔は微妙に照れを含んでいるようでもある。
ゾロらしくもありらしくもない殊勝さにサンジは最初は驚き・・そして吹き出すことだけようやく堪えて思わず両手を振る。

「あーそれはないない。お前さんがそんなことに気が回るくらいならナミさんは苦労はしねぇけど、とっくにお前を見限ってるだろうよ。」
「んだと?」
「可愛いのに見る目がなぁ。そこが可愛いナミさんの唯一最大の欠点だよなぁ。」
「てめぇ斬るぞ!」

頭を軽く振りながらしみじみ言ってのけるサンジの横で軽く震えたゾロが刀に手を伸ばしてサンジの足がそれを受ける。数合打ち合ううちにそちらに集中してしまいどたばたと音だけが大きくなった。そこへいきなり寝ぼけたルフィの手が伸びてきた。二人の間合いのちょうど真ん中に伸びてきた手に驚き、起きたのかと二人の視点動いたが向こうのハンモックのルフィはとんと高鼾。

間の悪さに思わず虚脱する。
そのまま二人座り込んだ。背中に壁。脇には酒瓶が零れもせずに立っている。
互いに相手の顔は見ずに口もきかない。
行き場のない酒にもタバコにも手が伸びないそんな空間に締め付けられる。



「ルフィは天使とか詐欺師ってより悪魔に見えるがな。」

間の悪い沈黙を破って突き抜けるようなゾロの言葉はそのままサンジに伝わった。
そのままの温度で。そのままの言葉で。すうっと。

その言葉は肌に直接染みこむようにサンジの体に収まった。


「食欲の化け物。」
くっくっとおかしそうにサンジも受けて返す。
「てめぇはエロ魔人。ナミも魔女以外の何もんでもねぇ。この船は魔物の巣窟だな。」
「いや、ナミさんは女神だ。」
「アホか。」
「でやっぱ、ロビンちゃんも天使だ。」
「ほざけ。ってことは詐欺師なのか?」
サンジはくるりと振り返って大きくにやりと笑ってのけた。
「いや、天使で、きっと何処までも天使だ。彼女は詐欺師なんかにゃなれねぇよ。」






「・・・おいもっとよこせ。」
「あ?」

サンジは片手を差し出した。

「あ・・?あ。ほれ。」
ゾロは気づいて酒瓶をぐいぐいとサンジの顔の前に押しつけてくる。これは多分ルフィが肉をくれるのと同じくらいの気遣いなのだろう。
だがそんな馬鹿の無骨な行動は嫌じゃない。

「おう。」
そのままぐいっとあおる。焼け付くように強めの酒が喉に染みる度にあの寂しげな瞳が浮かび上がる。ナミさんを暁の女神に例えるなら、微笑みの裏に苦渋を隠した幼い天使のような。
騙されるのが男の宿命なら俺がつきあってあげなきゃ駄目じゃん。











誰も渡れない大きな瀧の向こうに君が居る。
風を大きく受けて崩れ始めた。
見えるよ、君の大きな仮面と泣き顔が。

さぁ風を受けて立とう。笑顔のへたくそな俺たちの天使に向かって、今。








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