最下層の牢獄。明かりは最低限。降りてきたばかりの目の慣れていない獄卒が転ばぬようせいぜい程度にしか灯されていない。囚人たちはずっとここにいてその暗い灯りに目が慣れてはいても腕や体を拘束されているため視界は制限され正面の壁しか見えない。その壁の右手の方に上に繋がる唯一の階段がある。ほかに昇降機もあるという話だが降りてくるのは階段から雑魚ばかり。ここから出ていく奴が居るわけでもなく昇降機だろうが抜け穴だろうが他に幾つもある同じような伝説的な噂にすぎない。階段の扉は鉄製。獄卒の交代の時にだけ開けられ、油の切れた重い戸が動いて聞こえるかすれた音で交代の時間を知る。ただ特別なといえば聞こえはいいがやっかいなここの囚人相手に、あえてその時間も間隔も一定ではないとも聞かされる。がそれも定かではない。あくまで、噂、なのだ。


【黒髪の】


またギイと音がした。思わず頭が動いた。閉じこめられ、殴られて、動けぬようにと腕から海楼石の手錠に吊られ、体はきつく制限されている。
今、動かせぬ四肢に今はいらだちを殺せない。そして心の奥底の焦がれるような何かがが囁くように、苛むように縛られた手首に堪え難い疼きを加えている。

音のした扉は今はここからは目を凝らしても見ることはできない。体も動かない。判っている事だが、それでも今までになくそちらばかりを意識をしている自分がいる事に自嘲する。ましてや待ち人が降りてくるのではないかと考える自分がただ浅ましく愚かにしか思えない。この身など、黒髭一人処理できなかったこの身など腐りかけても構わないと思っていた。
今更だ。
こんな自分の命がどうなろうとそれはそれで構わない。だが、クソ爺に説教されたことも、自分の思い込みで親父の白髭の為にならないことをやってしまったことも。今は、ただ、皆一様に自分が忌々しい。そして今まで封をして捨てたつもりだった思い出したくもない自分の出生も過去の思いも何度も苦く思い出される。ましてや一番呼び込んではならないものをこんな所に呼び込んでしまった己のふがいなさに胃袋が中から煮えくりかえって終いには裏返りそうだ。


ただ。

繰り返される苦い想いの中で只一つだけ消えないものがある。
目を閉じれば浮かぶのは意志の強い瞳と黒い髪。

他の誰でもない。こんな自分でも入牢前には仲間も友もいた。心許し、信頼し、一緒にいた。他の影もいくらでも思いつくことはできるのに、観たい意志にも見たくない意志にも関わらず、消そうにもそのただ一つの影は瞼の裏に寝ても醒めてもつきまとう。繋がれた腕の痛みは無視しても、殴られた傷はなかったことにしても、ずっと消えないその残像にただ心騒がされるばかり。その闇に囚われている自分に嫌気がさして目を開けては映る壁の石組と繋がれている鎖に現実を観る。瞳の中に見えるものに歯咬みし、血の唾液が口内を満たす。そして満たされぬ苦い思いばかりが血の味に混じる。


「なぁエースさんや」
静かな声がした。ただいつもよりは言いにくそうな重さを隠せない声だ。
要観察として一番監視のきついこの部屋にはもう一人魚人が居る。親父の知り合いで七武海の一人だが付き合いはこれでいて長い。誰でも殺し合いを五日も続ければ相手の本質に気付くだろう。こいつは気の良い、そして漢気のあるきちんと信頼できる漢だ。仲間のために政府に従い縛られた身でありながら俺の捕縛一つに己の種族の未来を憂いその政府に逆らい、先刻までは緊縛された我が身を嘆き轟くばかりだった。そういえば今は奴も静かになっている。先ほどもたらされた情報ーつまり奴以外の七武海の全員集合が成立した今、彼の抵抗は意義を失いつつある。その事実も含めてそれらをどう思っているのかはその年輪を重ね、粘膜に覆われた青い肌からは一切読めない。


「やはり嘘だったんじゃなかろうか?」
「わざわざ?嘘を付きにきたってのかよ!!」
わざわざ。こんな所に。こんな俺に。
あれだけの女が。

いやあの女の事をこの男に怒鳴るのはお門違いだ。それは判ってる。だが、どういう意図でも自分の総毛がたっていた。
そう、あの女が俺に会いに降りて来た訳ではないことはわかる。
わかってる。

だがどういう意図にせよ現れた。鉄格子の向こうにではあるが一切他人を挟まず俺の目の前で立っていた。二人だけの間で、交わした言葉はほんの数言。内容はルフィのことばかり。
ただそれだけの女だというのに、彼女を軽視する言葉には耐えられなかった。

わざわざ、だ。
能力者にとっては動きを制限され、海賊としては屈辱としか言えない海軍の海楼石の手錠に縛られてあんな獄卒どもに鎖を取られてこの最下層に降りてきた。
最初は興味などなかったが名指しのお出ましに少しだけ面を上げた。どちらかと言えば隣の魚人の為に顔を見た。

そこには優美な漆黒の鶴が居た。





長い黒髪だった。この暗い中でも艶めき、しっとりと重い触感なのに宙を舞うような軽やかさで彼女の周囲を形成している。闇の中でなお澄んで見える白い肌の頬に柔らかな赤みが差し、深く彩られた喜色の浮かんだ瞳。

ルフィのためだけに。

どこで知り合ったのかは問題じゃない。他に目的があったのかもしれないが、あの物言いはルフィと共に居たことを疑いようがない。
そう。俺の小さな弟は、誰もを巻き込む魅力があるのだ。
おそらくは海賊女帝さえも。
彼女でさえも。


ルフィにならば誰でも惹かれる。それは昔からだったし、今も老若男女関係あるまい。

この魔窟にこれから降りてくるルフィが心配なのに、ルフィを思えば思うほど長い黒髪がふわりと心の中で翻る。
今でも瞼の裏にその姿が残っている。この牢獄の残像のような明かりの中でも光を纏ったように浮かび上がる長く黒い髪。
勝ち気な瞳。ただ黒く光る髪とあの瞳。



「・・・・未練だな。」
「エースさん?」
処刑まで後数時間。もはや助かろうとは思わない。ましてや命乞いなどする気はない。いっそここで絶命しても構わない。
だが二度と見ることはないと判っていながら、階段の方を見る俺がいる。

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