「まだ、目を覚まさない?」
「うーーん。脈はしっかりしてきてるし顔色も落ち着いてるわ。もう直だと思うけど。」
二人の前で包帯にぐるぐる巻きの男が眠りに落ちている。
「ルフィなら食べ物の匂いとかで起きるんじゃない?」
「それもやってみた・・けどまだ。」
「やっぱり重傷なのね」
双方からほうっと溜息が漏れた。

マリンフォードから帰ってきた蛇姫がルフィをつれていることはささやかに、そしてあっという間に島に広がった。この島には王宮以外に受信機はなく電伝虫の放映は届かない。元来男も海軍も入れないこの島故に秘密の漏れる心配はない。それでも以前見知ったルフィの事、蛇姫を筆頭として島の皆でその回復を待っている。蛇姫自身は強く望んだがニョン婆に静止されて歯がみしつつも城に止まり会いに来る事を我慢している。
「苦悩される蛇姫様もまた美しい!」
蛇姫は浮かれたり彼の回復を危ぶんで落ち込んだりと忙しく動く。その感情に皆魅了されながらも微笑ましく思い、皆同じ気持ちで見守っている。

「じゃが変じゃ」
皆から少し離れてグロリオーサはなにやらため息をつく。杖の先で小蛇がうねる。
「ニョン婆どうしたの?」
「いや、わしの気にしすぎと思うがニョ」
ぶつぶつと誰に聞かせるでもない小さな声でなにやら唱えて目線をあげた。視線の先には頬を染める蛇姫がいる。彼女に熱狂するアマゾネスらに目を移しながらもう一度大きく肩をそびやかした。何があっても皆が居る。おそらくは心配すら杞憂であるだろう。そう考え唇に笑みを浮かべてグロリオーサはその場を去った。

「姫様うれしそう!」
「でも姫様が変と言えば・・」
以前と違うところが少しある。
帰ってきてから数日蛇姫は篝火を厭うようになった。侍女のいない入浴の時も以前は盛大に灯をともし時間を問わず入っていたというのに今では明るい陽の元、それも妹たちすらをも寄せ付けずに長く湯に浸かったままぼんやりしている。
まあ、ルフィの意識が戻らぬとあればそれも仕方有るまい。皆そうと納得しあってそれには触れぬようにした。
さらには気もそぞろで海賊業もとんと休みがちだ。
島の女たちのおかげで今九蛇の島では物資も豊富で飢える者もなく焦りはない。有能な部下などいくらでもいる。大きな事の最後の指示のみ蛇姫に求めるだけでも十分機能する。男などと違い女は有能だ。戦闘行為ばかりではない。戦うだけでない。その能力のない者は保護される者として擁護される。またその者ができることを見いだしてやることを仕事にする者もいる。皆が様々な形でこの国を支える力となる事に誇りを持っている。
ただ島一番の華、戦士の誉れとしての海賊としての行為も蛇姫の召集がかからぬまま、皆が島での長くなった休日に少しずつ様々な思いを抱えつつあった。






空の色が抜けるように青い。高い九蛇の城からの眺めは空に地にと壮観ではあるが今はそのどちらにも響かない。
ハンコックは気が付くと窓の外をぼんやり遠くを見てしまう。ルフィが同じ島の同じ空気を吸っていると思うだけで晴れ晴れと高揚した気持ちに包まれるのだがふとしたときに何か重い物が胸に去来する。先程侍女の持ってきたグラスを口に運びはするが唇に触れるだけ。口を付けようとしない。ただ遠くの空に思いを馳せているようで何を考えているのか余人には判らない憂いを隠した表情もこれまた特に美しい。

「姫様、その・・面会を求める船がきております」
床下でキキョウとエニシダが二人ひざまづいて、更には機嫌を損ねぬようにとおそるおそるそう告げた。ハンコックはそちらに目もくれない。さらには耳障りな歯切れの悪い二人の口上に今度はただ重く憂鬱になる。

「わらわは誰にも逢いとうない。追い返せ」

予想通りにべもない返事に二人は黙って顔を見合わせ互いに無言の問いを視線で交わした。どちらが口火を切るのかが争点だったようだ。蛇姫の内陸での身の回りの世話は主にエニシダだ。その彼女が口の端を歪ませてからあきらめ顔で重々しく口火を切る。
「それが・・その・・・・・」
言いにくそうに言葉を濁したエニシダをキキョウが脇を肘で突いた。覚悟を決めた顔はそれでも少し白く瞳が泳ぐ。
「相手は・・ルフィの・・」
「ルフィ?!」
その名を聞くだけで蛇姫の心臓は跳ね上がる。身体の細胞の一つ一つが踊り出す。頬が上気し声が艶を帯びる。エニシダの言葉を遮ってその名を呼び返し、振り向いて身を乗り出した。その上気した頬の可愛らしさに目を奪われながらも二人の顔色は冴えない。
目をとろけさせながらもハンコックの勢いから背中で逃げた姿勢でそれでも覚悟を決めたように二人は続けた。
「その・・本人ではなく・・・・身内と名乗っています。兄のポートガス・D・エー・・・・」


その瞬間だった。
変化一閃蕩けていたはずのハンコックは最後までを言わせなかった。


完璧な薔薇色に上気していた頬は一気に真白に落ちた。真っ白を通り越して土のような色。倒れるのではないかと思うくらいの変化だった。跳ね上がらんばかりだった潤んだ瞳は一気に光を失い沈んだ。沈んだどころか地に潜り闇に溶けるまで鎮静して見えた。闇を吸い込んだような暗い色。ブラックホールよりも深い闇の。

「あの・・姫様」

床を睨んだままハンコックが動かない。永遠のような空気の張りだったがそれはホンの一瞬。
突然微動すらしなかった彼女の肩がブルッとふるえた。髪の一本一本までもが震えている。腕も、指も。全身で震えたかと思うと憤怒の形相で面を上げた。

「兄・・じゃと!?あの男が来たとでも言うのか!誰がそんな謀りを!!!」

火がついたようにハンコックの髪は逆上がり怒りのオーラを隠さない。背後のサロメも同じように威嚇の声を上げる。隠されなかった怒気は部屋の中どころか外まで溢れ出す覇気になり、最優秀な戦士である二人をも圧倒する。彼女らとてその潰されそうな中で精一杯の気を保ちようやく意識を手放さないのが限界だった。
「蛇・・姫・様・・・・・違い・・ま・・・」
なんとか声を絞り出しても届くどころか力にねじ伏せられる。

遠い廊下で悲鳴が上がった。
「誰か!?侍女たちが次々倒れて泡を吹いているわ!!」

二人は愕然とした。いくらハンコックの覇気が覇王色でも彼女を見ないどころか廊下を越えた遠く離れた空間にいる人間に波及するなどの規模はみたことがない。
ところが悲鳴すら飲み込むようにその騒ぎすら徐々に静まってゆく。パタリ、ドサリとおそらくは人が倒れる音をエニシダの耳が捕らえた。隣の廊下で、そして階下の部屋でも同じように響いて声が悲鳴が一つ一つ消えてゆく。救いに行かねばと思うが冷や汗が体を流れ落ち視界が遠のいて己が意識を保つ事すらもう危うい。


ハンコックには周囲の声は聞こえなかったようだ。今だ滾る覇気を隠さず怒りを炎のように身にまとい続けている。
手の中にあった華奢なグラスは握りつぶされ砕けたガラスが落ちるとともに一筋血を垂らしている。
その痛々しさにそれを何とかしなくてはと思うのに目の前にいるはずの二人も身動きがとれない。放たれ続ける強き思いに永遠のような数合が経たかの思いがあった。

「あり得ぬ。あれは死んだ・・。死んでしまった!」
ハンコックの叫びは二人の耳にも届いた・・が既に聞き取る事は出来なかった。
口にしなくても何故かその言葉だけは肌に刻まれるような気配がしてる。
それでも蛇姫は止まらない。彼女が吐き出した怒りの力が彼女らに届く事すらおそらく考えてすらいないだろう。
呪詛のようにそれは紡がれている。


あの者は死んだ。
弟を守って死んだ。
悔いはないと、そういって最後は笑顔で。
そしていなくなった。
この世からあの美しい炎は消えてしまった。
消えてしまった。
もう二度と、逢うことはない。世界のどこにかけていっても。彼の姿はない。
姿は失われた。


世界の端から響いてくる悲鳴のようなうねり。

思うだけで重くふさがる心を止められない。煮えくりかえるような怒りは溢れ出しそうになる。重いやりきれなさは消えずいつまでもハンコックの苛立ちを荒ぶらせる。
ああそうだ、もう居ない。切ないやりきれなさが身を、周囲を切り裂く。


「そのような嘘を!世迷い事をわらわに聞かせるつもりか!!」
ハンコックの声が響いた。覇気に磨り潰されそうだった二人が意識を失ったのはその瞬間だった。






背後でゆっくり足音がした。
この島では履かない靴の音。
男の靴だ。
男の厚底な靴に飄々とした気配を感じさせる歩き方。

ハンコックの肌が粟立った。
まさかという気がする。ここにいるはずがない。
だって。嘘じゃ。


「でっけぇ覇気だったんで見に来たが・・・・・」

遠く窓の外から声が聞こえた。まさか有り得ないという想いと共に。大きく胸が鳴った。


男が一人立っていた。














よう と手を上げてオレンジ色の帽子の鍔を軽く親指で押す。
あの時のような傷もなく憂いもない不敵な笑顔。
判っている、これはただの幻だ。このような顔など自分は見た事がない。見せられた事がない。
でも心の中にずっと手放さずに持っている。
あれは両手の軛が外れた時。ルフィに向けられた笑顔。
だから自分の物ではない。そっと横から眺めただけ。
それなのに、後生大事にそっと心の中で抱えている。




目の前の霞んだように見えた世界がぼんやりと、しかしゆっくりと収束されてゆく。







思っていたのと違う男の声がした。
「ほほう、近くで見てもやはり別嬪さんじゃのう」

見据えたハンコックの目の前に立っていたのは、心が描いた姿とは全く異をなしていた。

巨漢。白髪。口髭。そして海軍のマント。
広間を風がガープの背後から流れて込み蛇姫の髪を一筋さらって巻き上げ吹き抜ける。両腕を堂々とその厚い胸の前で組みそのまま更に言を重ねた。

先程は謀られたのではなかったと理性が判った。だがどのみち自分の耳には届かなかっただろう。
だが先程からの怒りがまだ指の先にも耳朶にも残っている。その荒げた力を鎮めるどころか押さえきれないまま振り向き、腰に手を置き首を傾げる。下問するよりも冷たい声が出る。
「はて、そなたなど呼んだ覚えはないが。そもそもこの島に上陸を許した記憶もない。更迭された海軍中将が何をしておる?」
白髭の男は日に焼けた肌の下に憔悴したやつれを隠していなかった。それでもわかる偉丈夫。ルフィの祖父にして数十年前からの伝説の名を欲しいままにしていたと聞く。それももはや過去の物。あの戦場の遠吠えにも似た慟哭はまだ耳に残っている。それでもこの度の責任を取って引退したとは情報が入っている。引退程度であの責任が取れるのかと片腹痛い。失った物はそれだけでしかなかったのかと胸ぐらを掴みたいと思っていた気持ちと今が重なる。押さえきらない感情を持て余して、それでも胸に溢れそうな怒りを今は押さえておく。

「エースの代理人じゃと伝言せんかったか?」
ガープはひょいと足を挙げ、ハンコックの足下に倒れたままの二人の前にしゃがみ込んだ。触って確認するほどでもない。見るだけで覇気にやられたとわかる。ただおそらくはかなりの達人に違いない。首筋に浮かんだ血管の内出血痕にいかに彼らが抵抗したかが見えた。
そのまま手を触れもせず背後の窓際に立つハンコックを見上げた。

「怒っとっても可愛らしいが凄まじいのぉ。まぁわざわざ人払いをせんでいいが」
がははっと不適な笑いを浮かべて臨んでもそのハンコックの目は冷めている。だがガープは全く動じなかった。
「わしゃあんたに礼を言いに来たんじゃが」


ハンコックがまず感じたのは焦りだった。
「礼?」
有り得ない。ルフィの事が海軍にばれているのか。
帰路は後方に目配りをした。空からの撮影の可能性も含めて移動にも細心の注意を払った。
有り得ない。
それともインペルダウンの潜入の話か?ならば誰が語った?ジンベエか?それとも・・・・・
ぎゅっと胃の腑が締め付けられる。
どちらにしてもルフィをかくまっている事は隠し通さねばならない。うなじの辺りがチリチリする。

ガープの大きな口からは予想外の言葉が出た。
「インペルダウンで・・地下深くまで奴を見舞ってくれたそうじゃな」

奴。

誰の事かを判るのに数刻。ガープの深い声が何度も響いて今度は胸の音が一気に鳴りはじめた。無意識のうちに頬が紅潮する。目の中まで赤くなって居そうでいつもの海軍向けの態度が作れない。が、堪えねば。
下を向き声を絞る。

「・・礼など不要じゃ。出来るならあの男の事は忘れてしまいたい事に過ぎぬ」
ガープは黙った。ただ黙ってハンコックを見た。
ハンコックはその視線を肌に感じ、耐えかねて目を上げた。
途端、後悔した。この、裏のない瞳に自身の耐え難い姿が映って見えるようだ。
しまったとハンコックは軽く舌打ちし、歪んだ口元で忌々しそうに爪を噛んだ。そのまま口早に言葉が出る。
「ああ迷惑な男じゃ。眠れば夢に押し掛ける。起きていても空やら風呂の湯面にでも不意にでてくる」
これではゆっくり眠られぬとこぼすハンコックの姿をガープは奇妙そうな顔で見つめていた。そしてやおら目が醒めたようにハタと手を打った。
「ああ、奴の女じゃったのか??」
「なんじゃと!戯けた事を!」
あまりにも軽すぎる納得にハンコックが怒鳴った。
「あのような馬鹿とは知り合いなどですらない!見た事ですら地下で一回地上で一回だけじゃ。言葉すら交わしておらぬと言うに・・なのにほんの少し思い出すだけで胸が重くなる。苦い思いばかりが沸きあがってあの男の選択が腹立たしく苛立ちを覚える。忘れられたら如何ほど楽か」
息も荒く言葉が続いた。勢いで本気で怒ったことはガープにも伝わったらしい。呆然と口を開けてガープはハンコックを凝視した。
「やはり初対面なんじゃな?ではまさかとは思うが・・」
言い淀み、ボリボリと頭を掻いている。




「まぁ、面倒な事はやめじゃ 奴の遺言を貰ってくれんか?」
「はあ?」
思わぬ言葉に顰みつつもガープから目が離せない。ガープもまたハンコックから視線を逸らさない。
「遺言じゃと?」
「死んだ男の言葉は遺言じゃろう。まぁ正確には違う。救出される前の話だ。が、仮にも父親の代理として奴の心残りを払ってやりたくてな。」
ハンコックは肩で笑った。
「心残りとははて面妖な。あの男の最後の言葉は誰ともなく世界中が知っておるであろ?」

『くいはない』 あの若さでそう言い残したと。
最後にルフィに伝えていた言葉までは聞こえなかった。だから彼が語らぬ以上知りようはない。しかしそれでも周囲にいた者の伝聞を耳にした。
悲しい言葉すぎて微かに苦い物が口の中にこみ上げる。同時に腹が立つ。

何とも傲慢な。許してなどやらぬ。勝手に死んでしまったくせに。


「それとは違う。まぁ聞くくらいは良いじゃろう?」
「理は通っておるようじゃ。だが何故『わらわ』がそれを聞かねばならぬ?」
言葉と裏腹にハンコックが興味深げな視線をよこすとガープは口の両端を少し上げた。瞳は慈愛を含んだ色に煌めいた。その瞳の後ろに寂しさが隠れている。
「聞いてから忘れてくれてもかまわん。どのみちあんたが聞かなんだらただ消えてしまうだけの言葉じゃ。それでも構わんと思っておったが・・不憫でな。死んだ男はあんたにもう何もできん。じゃがあんたが聞いてくれれば奴はその言葉と一緒にあんたの中で生きていく。もう二度と死なん。から・・頼む」

破天荒、碌に説明は得られないと評判の漢とは思えぬ丁寧さだった。
蛇姫は他人の意見に左右されるような者ではない。だが彼の瞳に浮かんだ光にそれ以上は彼女も問えなくなり、そっと窓の外を仰いだ。美丈夫な訳でも可愛いわけでも無いのにどうしてだか他人に拒否をさせない男だ。人を巻き込むルフィの魅力はこの男に由来することも多いのだろうと思ってハンコックは肩の力を抜いた。
だが窓の外の雲一つない青天はあの日の空を思わせる・・と思うとまた何かが胸に重くのしかかる。その重みに耐える事が厭わしくなり唇をきゅっと結ぶ。重石が積み重なって呼吸まで止めてしまいそうになる。あの男が逃げる前に、あの運命が決まる前に何を残したというのか。聞いてはいけない気がする。だが聞かずにすませる事は今の心では耐えられないかも知れない。
心に風が吹く。

ガープの言葉がハンコックの身に柔らかく染みこんでくる。



「・・・美しい、炎であったな」

ぎゅぎゅっと引き結ぼうとしていた美しい唇から、心が零れた。
零れた言葉は止まらなくなった。
「余の物は知らぬ。島では遠くに目にしただけじゃ。だがあんな綺麗な物をわらわは見た事がない。優美な、人の物とは思えぬ美しさであった」
その言葉に少し反応したガープが口元には穏やかな笑みを浮かべている。ハンコックは穏やかにガープを見つめ返した。

「・・・聞こう。その・・遺言とやらを」
サラリと髪を流して振り向いた。立ったまま相手の顔を見つめる。どちらも背が高くどちらも一軍の長である。引くつもりのないハンコックの強い視線を軽く流してガープは瞳を閉じた。声は深くなり、彼は思い出を繋いだ。





「『インペルダウンでこの世の物には思えない綺麗なものを見た』 とこれだけはほんの一瞬嬉しそうじゃった」
ガープの眼の裏に即座にあの時のはにかんだようなそれでいて紅潮した表情が浮かんだ。言葉と同時にあの日に見た遠い空を仰いだ。

『すべて受け入れる。みんなに悪い』

囁くような声がそれでもガープの腹に響いた。
その表情からは昔から見ていた小僧の姿は想像もできなかった。縛につき、今まさに処刑されようとする漢の筈がそれまでの屈辱を払拭した表情だった。己の足下から遠くまですべてを俯瞰する王の瞳が隅々までを見据える。
だがその言葉をこぼしたその一瞬だけ、瞳が柔らかい色に緩んだ。
はにかみを含んだ僅かな動きは今までにみたことのないもので目が離せなかった。 

『この世の地獄と言われたところでこれまで見た事ねぇくらいの、世界で一番綺麗なものがみられた。俺ァ見ただけで幸せになれる物はそれしか知らねェ。この世の地獄程度でも闇の色があれだけ綺麗ならこれから行き着く先も悪くねェ。けどもし生きてここを出たら今度は会いに行けるかもしれねぇ・・・だからプライドも何もねェ。助けにきてくれる仲間の手は絶対に取る』

ごう・・と風が強く吹いたかと思った。その風で海楼石に抑圧された筈の背に炎が大きく燃え上がる様に見えた。

「あんたのことじゃな」








ハンコックの目からはらはら涙が溢れていた。

本人は泣いていることも最初は気がつかなかった。ただ視界が歪んだと思っていた。鼻に流れる温かいものもつぅと流れるだけ。頬の上にはぽろぽろぽろぽろ止まらない。
暖かい物がサラサラと頬の上を滑るだけ。胸に形にならない思いが次々とこみ上がる。込み上がっては溢れてくる。
いつの間にかハンコックは大きな腕に抱かれていた。涙は白のスーツに染み込んでゆく。
幾つも幾つも流れる涙をガープはただ受け止めている。


ガープがふっーーと横を向き長い溜息が出た。
「一瞬の出会いでも・・一目見交わしただけでも、互いが恋に落ちる事があるんじゃな。年甲斐もなくくだらぬ事を願ってしまいそうじゃわい」
重い声にここに奴が居さえすれば、と思っている事が感じられた。だが軽く自嘲する。冗談ではない、そのような事があったら我が身が保たぬ、逃げるなど選びたくもないがおそらくは席を同じくする事も出来ないだろうとハンコックには思われる。
「恋の筈がない。わらわは知っておる。恋とはもっと楽しくわらわを幸せにする物じゃ。蕩けんばかりに身悶えする・・」
ルフィに会った時のように。ルフィの事を思う時のように。
こんなに辛い心が恋の筈はない。



「わらわは、・・ルフィが好きなのじゃ」
突然の言葉にガープは驚いたのだろうか。
「・・・それは、ありがたいのう。孫に替わって礼を言っておくぞ」

ああ・・軽すぎる答えの中にひたすら重い響きがある。これ以上言わなくてもこの男はハンコックの気持ちに気が付いている。

涙がはらはらとこぼれて止まらない。彼のスーツに染み込み黒い影を次々作る。

「本当に、ルフィが、好きなのじゃ あの者では・・なく」
瞳の栓が抜けたかのように、こぼれ落ちる涙は溢れて溢れて止まらない。

「ああ、泣いてやってくれる事に感謝するわい。流された涙は天にも届く。死んだら会える黄泉路の恋人への便りだそうな」

ハンコックはもう言葉が出なくなった。涙ばかりがただ溢れて溢れて止まらない。ガープもそれ以上は何も言わなかった。
彼を永遠に失ってしまったことをこの男は共有してくれる。二人の間には身をもがれる喪失感が横たわっている事を繰り返し噛みしめていた。蛇姫と呼ばれる身にとって男の胸にすがるという初めての行為であることも意に介さずただ涙が溢れてくる。



今はただ涙が止まらなかった。









「蛇姫様!?・・・っっ違うのです!誤解なさらないで下さいませっ」
エニシダが意識を取り戻した。戻した途端先からの言葉を繋げていた。はっと我に返りぼんやりとした頭を振ると蛇姫の揺らいだ姿が像を結んだ。
「よい。片付けを頼む」
指した先にはグラスの破片が光っていた。キキョウが叫んだ。
「・・蛇姫様、お怪我はありませんか?」
「もう乾いた」
蛇姫は眩しそうに窓から空を仰ぐ。女性すら見惚れるほど美しい横顔に慣れたはずの戦士も動悸がする。
「お診せ下さい!」
「よい、案ずるな」
いつもの声ではなかった。何かを払拭したような穏やかなそして晴れやかな。
そしていつにも増して美しい。

二人は顔を見あわせた。廊下の方でも人の声がし始めた。痺れたようになっていた自分の指先にも熱が行き渡り、ザワザワした日常が戻ってきた。
「そう言えば海軍の客人の事ですが・・」
「そのような者はおらぬ」
「は?」
「おらぬのじゃ。放置しておけ」
蛇姫が立ち去った後、近海の滞在を疑われていた海軍の船が何事もなく沿岸を離れた報が届いた。




end






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