【嘘の日】 世界は白い靄のような明るさに輝き、思わず眼をこすった。そして半分開いた目を瞬きしながら気がついた。 その日ゾロがいつもの昼寝から起きると周囲の温度が違っていた。 まず海上にいたはずのサニー号は停泊していた。見知らぬ島の入江の切り立った崖の側に寄せてアンカーが下ろされている。甲板の上から海を覗くとフランキーとウソップが船底に付いた藻や貝の除去作業をやっていた。だがいつもの賑やかさはない。常にうるさい船の中でもうるさい方のこの二人が居て静かなのはやや違和感がある。居ないメンバーは船外かと目の前の崖を見上げてみれば島全体に人の気配はほとんどない。数人……つまりサンジは食料調達に、ルフィやその他少しは当然冒険に出ているということか。 だが背後の船内がなにやら寒々しい。 視界に入ったロビンに視線を送ると冷たい視線が帰ってきた。 こういうときにこの状態のこの女からは答えは期待できない。さてと他の気配を探すと女部屋の入り口の前に背中を震わせていた。 「チョッパー?どうした?」 「ゾロォ……」 ワナワナと両手を持ち上げゆっくりと俺を見あげる。潤んだ声とたっぷりの涙と鼻水付きで駆け寄ってきた。 「どうした?」 「今日は『嘘の日』だって。好きな人に嘘言って楽しんで貰う日だってウソップが。だから・・」 居残り組の中で天才的に嘘上手なあいつがナミに吐いた嘘が ニュース・クーに乗ってたぞ。お前の母親は生きていたらしいな。 客観的には笑って許せる程度の嘘だろうと思う。実際ウソップも親を亡くしていたはずだ。 ところがこれはナミは一瞬固まり、凍り付き、能面のように真っ青な顔をして部屋に引き上げた。そのまま出てこない。 つまりあの女には地雷だったらしい。 いつもならウソップの方が詫びを入れてあっさり決着する物だがナミは態度を変えず一切無視、ウソップはそこまで怒られることはない 、俺は怒ってねェけどなと言いつつ態度を硬化させた。双方にロビンの説得も意味をなさなかったらしい事はさっきの態度からも想像しやすい。誰もの間に入り損ねたチョッパーがゾロの膝の上でえぐえぐと鼻水を盛大に垂らしている。フランキーがウソップのフォローをして作業に誘ったのだろう。 「ゾロ」 「んだよ?」 「頼むよ」 見上げられても。 「……面倒くせェ。ほっときゃ良いだろ?」 半分は阿呆らしくて頭をボリボリ掻いた。ナミをどうにかしろと言われても皆目見当が付かなかった。ゾロは判っている。自身はルフィほど面倒見が良くないし、何をやってもあの女には怒られるばかりで何処があいつの怒りのポイントかなどさっぱり判らない。だがナミらしくない反応ではある。 「ルフィが帰れば空気も変わるだろ」 「俺、嫌だよあんなナミ見るの」 涙と鼻水が更に増える。見上げて潤んだ瞳はただ悲しみを訴える。 ゾロは腕を組んで天を仰いだ。このタヌキは確かに前より攻撃力も鍛えていやがる、と口の中で独り言を呟いた。 「ウソップに悪気なんて無かったんだし、こんな日じゃなけりゃこんな事起こらなかったのに……」 それでも最後の言葉にゾロの唇がむすっと動いた。 「男が起こっちまったことをグダグダ言っても仕方ねェだろ……嗚呼、もう面倒くせェな、おいナミ、入るぞ」 ゾロの筋肉質の大きな手がチョッパーの背中をポイっとつまみ上げた。そのままくるっと後ろに放り投げる。蜜柑の皮でも放るような軽やかなその強さに驚き、飛ばされた芝生の上でチョッパーの涙は一瞬で引っ込んで受け身を取った。 更に一歩踏み込むとゾロは一呼吸。ポケットに突っ込んでいた反対の手でドアノブを回した。 部屋の中から冷たい視線が帰ってくる。椅子の上に膝を立てた形でナミは座っていた。寝込んでいたとかではないらしい辺りが、ナミだ。椅子の前に地図やらなにやら書類を広げてはいるが心ここにあらずとはすぐに判る。ナミは読んでもいない書類に向かい眼を伏せた。 「……入室を許可した覚えはないわ」 「んなもん知るか。俺には関係ねェ」 短く告げると声は更に冷たく響く。 「あんたらうるっさいわ、みんな丸聞こえよ。大体関係無いあんたにまで説教される覚えないわよ」 険の立った声がびりびり響く。ナミは高音の時より低音で威圧を掛けるときの方が凄みを増す。だが今は自分が怒られている訳ではないし正直恐いとも五月蠅いとも思わない。 「誰が説教なんぞするか」 言葉に反応したのか頭の動きが止まった。ナミは胡散臭げにゾロを少し見上げた。死に体のようだった瞳の色が微かに変わっている。けぶるような瞳に少し好奇心が見えた。 「俺も前科持ちだ。ガキん時似たような事言われて一度に4人を病院送りにした」 見上げた瞳が丸くなる。ナミは黙ったままで表情も動かさない。 「なんならお前も殺るか?」 刀なら貸すぞと腰に手を伸ばすと不思議な沈黙がナミの上に数秒流れた。 「仲間相手に何言ってんのよ。あんたのは完全にやり過ぎでしょーが」 手を振りながら自分の右の書類に目をやり手を伸ばす。ナミの肩の力が抜けた気がした。その瞬間をゾロは見逃さなかった。 一瞬の隙にゾロはすっと足を進める。一気にナミの左から廻り込み自分の大きな片手で彼女の眼を覆った。 「な・・なにすんのよっ!」 「目ェ閉じろ」 「え?」 「閉じた方が面倒がねェだけだ。まぁ落ち着け」 手の中で筋肉が動いた。ナミが渋々なりと目を閉じたことを感じてゾロは眼を覆ったまま耳元に口を寄せた。 「けどそん時に言われた。『死んだ者達は生者が思い出してやる限り死なない。だからいつでも思い出してやれ、死者を生かすにはそれで良いんだ』と」 手の中の閉じた瞳の世界。 何かを思い出すには今の世界は見えない方が良いとその時に先生に教わった。 ゾロの手の温度は高い。その温かな手で覆われたナミの両眼の周囲の緊張は解れ始める。解れれば自分の思いでの中の世界は羽を広げ始める。そして声に導かれて心の中に羽ばたく。その世界が色濃ければ濃いほど心も、そして体も解れて行く。 「思い出してやれよ。嘘で良いじゃねェか」 ナミはしばらく動かなかった。 ゾロもは黙って自分の手をナミの顔から動かさなかった。 覆った手の中が濡れてゆく。両の眼から溢れてくる温かい物がある。 頑なになっていたナミが少しずつ緩む。 「段々薄れそうで」 ようやく口を開いた。また流れる物が増える。 「お前の中にしか居れねェ奴らだ。良いことばっか思い出すのが功徳ってもんだ。だから、許してやれ」 誰を、とゾロは言わない。そしてナミも聞かない。 少しして腕の中のナミが細長く息を吸った。細い両手がゾロの手ごと彼女の瞳を覆うように重ねられた。 「・・・・・・・嘘にも益がある」 とても早口で小声だった。 目の前の横顔の頬に薄く赤みが差す。口の端がゆっくりと持ち上がり濡れた頬が乾いてきてなにやら輝いて見える。 ゾロはほんの少しだけ腰の据わりの悪い感じとこのままこれを見続けたい気持ちの間に自分が居ることを発見したが黙っていた。 そろそろ良いかと声を掛け、手を放そうとしたがもう少しと言いナミは自分の両手でゾロの手を押しとどめた。 「お父さんってこんな感じかしらね って事でこれからあんたを『お父さん』って呼ぶわ」 予想外の言葉にゾロは思わず吹き出した。 「な・・?」 「良いでしょ、嘘の日なんだからこれっくらいの嘘」 手に添えられた柔らかくゾロの手を放さないこの熱と力は本物だと感じてなぜだか自分の中が混乱する。 嘘の日は案外罪深い。 end |
※ 20110401公開時よりやや加筆 |