【Rumble Drug】   真牙さん   (ゾロ)

ゴリゴリと固い植物をすり潰す断続的な音が響いている。
メリーのメインマスト近くでは、いつもこの船の船医を預かる小さなトナカイの作業風景を垣間見ることができる。
平穏な航海が続いてるので、その空き時間を利用してあれこれ研究に勤しんでいるらしかった。

それは、自らのランブルボールの効力を上げるものであったり。
体力増強や何か目新しい効果を得ることができないかとの新開発であったり。

「えーと、この間作ったのはこの興奮剤にもなる木の実をひとつしか入れなかったけど、今日はふたつ入れてみるか。今度はこっちの効果も見てみたいしな」

最初は物珍しげにルフィが隣に張りついていたのだが、飽きたのかいつしかその場からギャラリーは消えていた。
ウソップも最近は自分の工房であれこれ新開発をしているらしく、負けていられないとの気合いは十分だ。
キッチンからはいい香りが漏れているので、もう少しすればおやつの時間だとサンジが声を掛けてくれるだろう。
みかん畑の方ではナミが手入れに勤しみ、その傍らでデッキチェアーに掛けたロビンは分厚い歴史書に視線を落としたままだ。
重々しい重りのぶつかる音がするので、後方の砲列甲板の方ではゾロがいつものトレーニングに励んでいるに違いない。

いつもの喧騒、いつもの風景。

それにふっと頬を緩ませ、チョッパーは完成した丸薬を梱包用のシートに並べ、試薬に作った液体のそれは別の機会に効果を試そうと一旦保管を思い立つ。
原液のこのまま保存するか、それとも蒸留水で希釈してすぐに使えるようにしておくべきか。
いずれにしても保存収納するための瓶を探せば、まだそこには出していなかったことを思い出す。

あまり大荷物になってしまうと仕事の効率が落ちると思ったので、機材は最低限しか用意しなかったのだ。
やれやれと思いつつ、倉庫の方へ荷物を取りに立ち上がる。
ついでにいらない機材は片づけてしまおう。
いつもの人獣型から人型に変形し、あれこれ散らかしていた機材を一気に肩へと担ぎ上げる。

マストの傍ら、甲板には完成した液体のそれと丸薬の試験用ランブルボールのみが放置された。





Rumble Drug






いつものトレーニングをきちんと終え、巨大なダンベルを置いて上半身裸のままタオルで拭いながら踵を返す。

夏島の気候区域を航行しているせいだろうか、今日はやけに汗が噴き出して仕方がなかった。
修行が足りないからこうした気温に体調を振り回されるのだと勝手に思い、ゾロはタオルに埋めた口許で大きく息を吐いた。

「は〜い、素敵なお嬢様方〜、愛のデザートタイムですよ〜。うら、野郎どもはとっととキッチンでぶん取り合いやがれ!」

タイミングがいいのか、丁度サンジのおやつタイムの声が上がる。
それに真っ先に反応したのか、船首の方からルフィが勇んで飛んでいく気配がした。
きっと近場であれこれ作業していたウソップも慌てて腰を上げただろう。

「ゾロ、トレーニング終わったんなら先にお風呂くらい入りなさいよね。汗臭いわよ」

みかん畑を通り過ぎた際、そこで手入れを終わらせようとしていたナミが眉間に皺を寄せながら言う。
肌を重ねる時ならそのまま抱きしめる行為も興奮材料のひとつになるが、すぐ近くにロビンもいることを考慮すれば、今その行動を起こすことは得策ではなかった。

それでなくともそういった行為を人前に晒すことを嫌がるので、ゾロとしても少しは気遣うところか。

暑さで辟易しているので反抗する言葉もなく、ただ後ろ手に掌をひらつかせてその場を通り過ぎる。
その背後でロビンがナミに対し、「お熱いのね」といつものくすくす笑いを漏らしているのが聞こえた。
ナミは照れた勢いで憤慨している様子だったが、余計なツッコミを入れてヤブヘビにしたくなかったので、ゾロは何もなかったことにしてそこから立ち去った。


そうして――ふと、目に入る。
階段を降り切ったところに、これみよがしに置かれた飲み物が。

「何だ、これ。コックの奴が置いといてくれたのか? ・・・そんな殊勝な奴か?」

それ以前に、今日のおやつとやらが何であったのかは知らないが、トレーニングしているのはいつものことなので女性陣への差し入れついでに置いて行ってくれたのかもしれない。
ことグランドラインにおいては、本気で雪でも槍でもガレオン船でも降りそうだが。

何気なくカップを持ち上げる。
淡い薔薇色のそれは、渇きを訴える者にはひどく魅惑的な色に見えた。
微かに漂う甘い香りもさして悪くはない。

見てしまうとそれはひどい渇きに変わり、ゾロはそれを躊躇うことなく一気に飲み干した。





「――はっ、オレ何やってんだ。探し物しに来たってのに、こんな本読んでる場合じゃないだろ!」

チョッパーは倉庫の片隅で、ふと取り上げた本に読み耽っていたことに慌てて我に返ってそれを閉じた。
ふたつ前の港街の本屋でこれを見つけ、どうしても欲しかった医学書だったのでナミに強請り倒して買って貰ったのだ。
その分貸しだと言われてしまったが、追々その辺りは細かなサービスと女性を喜ばせるクリームやらオイルやらで採算を合わせていくつもりだった。

さっきの実験の試薬に使えそうな処方方法も載っていたので、更にそれを試してみようとそれも抱えて茶色の空瓶を数本持ち出す。
とてとてと足音をたてながら戻れば、そこにはいつの間にかゾロが立っていた。
トレーニングの時間を思えば甲板にいること自体は珍しくなかったが、チョッパーは彼が手にしているものを見てぎょっと目を見開いた。

「ちょ、ちょっとゾロ? お前ナニ持ってんだ!?」
「ああ、いつもの鍛錬終わって喉渇いてたんでな。クソコック辺りが用意しといてくれたんだろ、ありがたく頂だいしたぞ」
「それおやつの飲み物じゃないし! ってか、それ以前にグラスじゃなくてビーカーに入ってんだろ! そうした代物がオレの実験道具だって知ってんだろうに、何わけ判んないことしてんだよ〜〜ッ!」
「・・・お前の?」
「そうだよ! ランブルボールや今後の試薬にってあれこれ新薬考えてたのに!」

チョッパーは慌ててその手にあるビーカーを奪い取り、鼻を近づけて残り香を確認する。
いくつか並べておいたそれのうち、ゾロが手にしていたその中身の成分を頭の中で確認する。

(ええと、この匂いはあの淡い薔薇色の試薬だから・・・確か成分には興奮作用のとあれこれ増強剤混ぜて、他には何入れたっけか・・・)

さほど突飛な成分は混入しなかった筈だが、元々は自分のランブルボールの原型を作ろうとしたおまけのような代物だ。
もしかして生物個体によっても効果の出方は違うかもしれないし、種族の相違からこのまま何の反応もないまま通り過ぎてくれるかもしれない。

訝るような表情はしていたが、飲んでしまったものは仕方がないと未だ平然としている男の様子を逐一必死に窺う。
何も変化は起きないか、このまま何事もなくスルーしてくれるか。

おそらく数分はたっているだろうに、未だ何も変化は訪れない。
もしかしたら本当に何も起こらず過ぎ去ってくれるかもしれないと、安堵の溜息を漏らしながらそっと問い掛ける。

「ゾロ、何とも・・・ないのか?」
「あ? 別に何ともねぇじゃねぇかよ、驚かしやがって――あ?」

瞬間――ゾロはどくり、と心臓が大きく脈打ったような感覚に捉われた。

突然大きくなる鼓動の気配に、こめかみから一筋の冷や汗が滴る。
何もない筈ではなかったのかとチョッパーを睨めば、「お、オレか、やっぱりオレのせいなのか!?」と半ば混乱してお約束通り「医者ァァァ〜〜ッッ!」と叫んでいる。

(だから、てめぇが医者だっつーの・・・)

「ま、待ってろゾロ! 今それを調合した奴の成分から逆算してすぐに解毒剤作って来るから! それまで我慢して待ってろよな、やっぱ落ち着いて観察してる場合じゃなかった〜〜!」

(観察してたのかよ・・・ッ)

ゾロは慌てて駆け出す小さなトナカイの背中を、傾きつつある視界の隅で他人事のように眺めていた。

ドサリ、と何かが倒れる音が近くで聞こえる。
痛みすら感じなかったが、それが自分が倒れた音だと自覚する間はなかった。





(・・・寒い。一体これは何の反応なんだ? チョッパーはいつもこんな思いしながらあの変化玉齧ってんのか・・・?)

あれほど陽射しの降り注ぐ甲板で大汗をかいた後だというのに、その身体からは悉く体温が奪われ、今や裸で酷寒の豪雪地帯にでも迷い込んだかのような寒気に襲われていた。
修行が足りないとぼやいてみても、寒さを自覚した身体がその意思を汲んでくれる筈もなく、ゾロは濁って暗くなった狭い視界に何も映らないことにすら気を回す余裕はなかった。

ただ、寒かった。
自らを抱くように腕を回してみても、それらは何の解決にもならない。

暗く寂しい世界にぽつんとひとり取り残され、呆然としつつも寒さに打ち震える――と、そこにひとつの光が見えた。
青白い清廉な海のような色に、ゾロはこの広い海原の幻影を見た気がした。



女性陣におやつを差し入れ、少し蜜柑を見回ってキッチンに戻ろうと甲板に下りれば、そこにはいつも悠然と構えているのが常だった剣士が転がっていた。
またこの上天気をこれ幸いにと惰眠でも貪っていたのだろう。
いつもならどこかの壁に凭れ掛かっているところだが、今日は甲板に身体を丸めて転がっている。
心境の変化だろうかその能天気ぶりに腹が立ち、蹴りのひとつもくれてやろうかと近づく。

だが、それがうつ伏せて肩を震わせていることに気づいてしまった後では、本気で実力行使に出ることはできなかった。

明らかに様子がおかしかった。
この夏仕様の気候区域にいるというのに、ゾロは上半身裸の肌に明らかに熱からとは違う汗をかいて真っ青になっている。
呼吸も浅い上に荒く、一目でそれが何かの体調異常を訴えていることが見て取れた。

「・・・おい、クソ剣士? お前大丈夫か? 何か変なモンにでも当たったのか?」

四六時中冷蔵庫を荒らそうと狙っているルフィでもあるまいし、この男が空腹にそんなことをしたとも思えない。
せいぜい酒をくすねるくらいが関の山だが、今日はずっとサンジがキッチンに詰めていたので船長ですらその隙はなかった筈だ。

ならば一体どうしたというのか。
以前ナミが倒れた時のことが不意に脳裏を掠め、一瞬寒気が背筋を走る。

「おい、ゾロ? おま・・・本気で大丈夫なのか?」
「あ、あ? 寒、ィ・・・」

億劫そうに上げたその顔は真っ青で、鋭い眼光を放つ翡翠の双眸は焦点の合わないまま何かを求めるように甘く潤んでいた。
いつもなら他者を睨みつけることしかしない瞳が、どこか縋るようにサンジを見ている。
それともそれは錯覚で、彼を通り越した別の何かを見ているのだろうか。

ともかく尋常ではないと判断し、とにかくチョッパーを呼ぶべきだと踵を返す。
その、瞬間――凄まじい力で腕を掴まれた。

ぎょっとなって振り向いた途端ぶつかって来た身体は、いつも子供のように体温が高いと揶揄されるそれではなく異様に冷たく感じられた。
その異常さに目を剥いている間もなくサンジを心底驚かせたのは、その剣士が何を思ったのかクソコックと呼んで憚らない彼に抱きついて来たからに他ならなかった。

ゾロにすれば、手を伸ばした先に見えた“光”を掴めばこの冷え切った身体が何とかできると本能的に悟ったからの行動だったが、傍から見れば「男が男に抱きついた奇行」以外の何物でもなく、サンジは近づけばケンカばかりしている相手のあり得ない行動に半ばパニックになった。

「な、何とち狂ってやがる、クソ剣士! 俺の相手はレディ専門だ、野郎に抱きつかれてヨロコブ趣味はねぇ!」
「・・・・・!」

それすらも今のゾロの耳には届かず、彼は捕まえた熱を貪るように首筋に噛みついて唇を這わせた。
何をするかと慌ててそれを押し退けようとした瞬間、ふっと緩んだ力の関係で強引に抱き込まれ、髪を掴んで面差しを引っ繰り返された勢いでそのまま唇を塞がれる――唇で。
もはや理解不能の行為に総毛立った身体は一気に理性の糸を切らし、サンジは反射的に大きく足を振り被って全力でそれを振り払った。


ムートン・ショットォ―――ッッ!!


凄まじい勢いで壁に叩きつけられる剣士を顧みもせず、サンジは意味不明の悲鳴を上げながらキッチンへと飛び込んで行った。
うがいだ消毒だとの雄叫びが微かに聞こえたが、それは誰の耳にも届かなかった。





「・・・何だぁ? えらく前甲板の方が騒がしいな」

細かい作業のために下ろしていたゴーグルを一旦上げ、船を揺るがしたのではないかと思うくらいに激しい衝撃音を聞いて思わずウソップは顔を上げた。
手元の仕事の大まかなところは片づいたので、それを脇に避けて立ち上がる。

「ナミ、何かあったのか?」
「んー、さあ? さっきサンジくんが何だか大技叫んでたけど、またゾロとケンカでもしてるんじゃないの? 毎度のことよ、いちいち首突っ込んでなんていられないわ」
「・・・お説ごもっとも」

それでも大事なメリーを壊される前に、良識の持ち主として形だけでも止めてやらねばなるまいかと、半ばびくびくしながら大きく張り出した蜜柑の枝を掻き分けて通り抜ける。

前甲板の広い場所には誰もいない。
デッキ上部の手摺から身を乗り出して見れば、船室への壁際にぐったりと力を失って凭れ掛かっている緑髪の剣士の姿があった。

「サンジが大技を叫んでいた」というナミの証言が正しいのなら、ドアの脇の壁についた大きな傷痕にも納得がいく。
一体何が原因で揉め事を起こし、サンジの痛烈な一撃を喰らうハメになったのか言い分くらい聞いてやろうと階段を降りる。

「おいおいゾロ、どうしたんだ? まぁた素敵眉毛クンと何かやらかしたのか? ま、ここは8千人のよろず厄介事を解決したウソップ様に打ち明けてくれてもいいんだぞ?」
「・・・・・・・」

気を失っていたとばかりに俯いていたゾロは、その声に反応するかのようにゆっくりと顔を上げた。
ウソップは気づかなかったが、そこに浮かんでいたのはやはり尋常な色ではなかった。

ゾロの目には「ウソップ」は「ウソップ」として見えていなかった。
未だ暗がりの中を手探りで進むような中、そこに見えたのは春の光を凝縮したかのような柔らかな黄色い光の塊だったのだから。

当然のようにゾロは、身体から失われた熱を求めるようにそれに――ウソップに手を伸ばした。
咄嗟のことに何のことだか判らない彼はあっさり拘束され、あまりの挙動不審に絶叫レベルの雄叫びを上げた。
圧し掛かるように押し倒されれば、相手が「男」だということ以前に「ゾロ」というだけで既に状況がおかしいことに気づかされる。

「ぞぞぞ、ゾロ、俺は男だ! や、キャプテンに心酔してくれんのは嬉しいが、俺には既に心に決めた女がいるわけで、そいでもって俺には男の趣味はなくって――!」
「うわああ、ウソップが襲われてる! ゾロ、やめろ、それはウソップだ、ナミじゃないぞ!」
「や、それは判ってっから! ってか早く助けてェェ〜〜〜ッッ!!」

もちろんそんな悲鳴もゾロの意識の中にはまったく届いておらず、目に映って認識できたのは淡く桜色に輝く光が増えたということだけだ。

「せせせ、せんちょ〜、ルフィ船長〜〜! たぁすけぇてぇぇ〜〜ッッ!!」
「・・・んあ? 何だ? 敵襲か?」

いつもならメリーのヘッドに座っているルフィだったが、たまたま見張り台に上っていてこの上天気に誘われうたた寝していたらしかった。
眠気眼で甲板の喧騒を眺めていたが、ゾロががっしりとウソップを押さえつけ、それを必死に引き剥がそうとしている人型に変化したチョッパーを見て、ルフィは嬉々として立ち上がった。

「おう、組み手やってんのか? 面白そうだから混ぜろよ♪」
「んな悠長な代物じゃねぇッ!」

寸でのところで男の貞操を守り、ウソップはチョッパーの助けを得て正に命からがらその拘束から逃れた。
僅差で喰らった首筋への熱い吐息と唇の感触は、さすがに「人に言えないウソップ様の10大秘密」として墓場まで持って行くことに決定した。


ゴム状に伸びる身体を利用して、腕ひとつで反動をつけ一気に見張り台から舞い降りる。
間合いを取りながら嬉しそうに構えるルフィは、もちろんゾロの鬼気迫る様子には気づいていない。

そうして突然上空から舞い降りた赤い光は、まるで太陽の光を凝縮したかのように鮮烈な熱を発しているようにゾロの目には映り、これに触れればもしかしたら相当楽になるのではないかとの勝手な思い込みが出来上がった。
完全には捕え切れなかったが、今まで三つの光玉に触れたことにより少しは熱への渇望が解消されたように思う。

だが、まだ足りない。
身体の芯が冷え切っているようで、本当の意味でまだ身体が思うように動かない。
いつもならもっと素早くしなやかに動く筈の身体が、全神経に無粋な棒を通されているようで思うように動けない。

ほんの少し蓄積できた熱が身体の芯に留まり、その奥深い場所で渦を巻いているようにも感じる。
寒いのか熱いのか、それでなくとも麻痺している身体の感覚がより不明瞭になる。

もう少しあれらの熱に触れられれば解消できるだろうか。
もう少し貪るようにそれらを取り込めばこの辛さから解き放たれるだろうか。

解放したい。
解放されたい。

あの赤い光ならそれを解消してくれるかもしれない。
そんな思いから、猛然とそれを求めて手を伸ばす。
なのに「それ」は、素気無くすばしこかった。



「ルフィ、捕まえて押さえつけろ! 野放しにしとくと何しでかすか判らねぇ!」
「あ? 組み手なんだろ? 押さえりゃフォールだ、俺の勝ちじゃん」
「だぁから、コトはもうそんな簡単なレベルの話じゃねぇんだよ!」

意味不明ながらも伸ばした手足をしならせて鞭のように扱い、猛然と走り込むゾロの手足を絡め取る。
普段なら一旦KOとなってそこから再び仕切り直すのだが、今日のゾロはそれでも抵抗をやめようとはしなかった。

そうして気づく。
間近に見たその面差しが、苦しげに歪んでこの場にいる誰のことをも“見て”いないことに。

「ゾロ・・・?」

訝るように呟いたルフィの言葉も、もちろん今のゾロにはまったく届いていない。
極太のロープで縛られたかのように転がりながらもその抵抗は激しく、手負いの獣さながらに意味をなさない呻き声を漏らしながら苦しそうな顔を見せていた。

「一体ゾロの奴どうしちまったんだよ、こんな突然! いくら本能的で獣っぽいからって、急に理由もなくこんなケダモノになるわけねぇだろ!?」
「お・・オレのせいなんだ。オレがあれこれ薬の研究に材料置いといて、それの試薬をゾロが勘違いして飲んじゃって・・・」
「何ィィィッ? な、ならそれの解毒剤はッ? つつつ、作れるよな、な!?」
「そ、それが・・・鎮静効果のある薬草が足りなくて、今の状態を鎮められるだけの解毒剤は作れないんだ!」
「何だ? ゾロ病気なのか?」

この異様な興奮状態の正体がそれならば、船長たる彼が全力で押さえていてもその拘束から逃れようともがくその様子も判らないではない。
原因が判っても解決策が見つからなくては、一体この拘束した手足をどうしていいのか判断に困った。
まさかずっとこのままでいるわけにもいかないだろうし、それ以前に正直なところそこまで男にしがみついていたくないというのも事実だ。

「う〜ん、俺このままでいるにはちっと腹が減って来たぞ? それに抱きついてんのもナミやロビンならともかく、ごつい筋肉ダルマのゾロじゃあな〜」
「ル、ルフィ、頼むからそのままでいてくれ! 今その手を解いたら、平和なメリーの中に野獣を解き放つことになるぞ!」
「んなこと言ったって腹減ったもんは減ったんだもんよ」

その隙をつき――今度はその口許にゾロの唇が寄せられた。






「「ぎゃ〜〜〜ッ、今度はルフィが毒牙に〜〜〜〜ッッ!!!」」


――ゴムゴムの、バズーカァァァ!!


さしものルフィもコレには堪らない。
サンジではないが絡めていた手を速攻解き、一瞬にして溜められた反動が爆発的な力となってゾロの身体へ押し出される。
まともにバズーカを喰らった身体は吹っ飛び、ゾロは蜜柑畑の方へと放り出された。

「やべッ! ナミ、ロビン、逃げろ! ゾロの餌食になるぞ!」




ばたばたとした喧騒が続いているなと思っていたら、今度はウソップが切羽詰った声を上げてこちらに叫んでいる。
何をどうしたのかと思っていると突然蜜柑の葉が激しく鳴り、何本かの枝を犠牲に僅差でナミのすぐ脇に逞しい男の身体が上空から降って来た。

らしからぬ醜態に何事かと眉間に皺を寄せれば、緩慢な動きで顔を上げたその瞳に宿っていた色はいつもの鋭利なそれではなかった。

薄い紗幕を通したような双眸。
どこかぼんやりとしているというのに、その奥で微かな欲望が渦巻いている。
混濁した意識がそこにあるのか、目の前にいるふたりの女をはっきり認識しているかどうかは怪しかった。

「ロビン、押さえろ! 後生だから捕まえてくれ!」
「とりあえず剣士さんの動きを止めればいいのかしら? 二十輪咲き(ベインテフルール)」

瞬時にして二十対の手がゾロの身体に花開き、物憂げに動こうとした剣士はそこで拘束された。

何が起こったのか理解できていないゾロは緩慢な動きでもがいたが、そのくらいで添えられた手が緩むことはない。
目の前にやんわりと輝く淡い紫とオレンジの光があるというのに、それに触れることも近づくこともできない。

だが――自分の身体を拘束している、この淡く小さな光は何なのか。
ゾロは未だ判然としない思考と、鈍くもどかしい身体にじれていた。



「あ・・・あー、びっくりした。何なんだよ、ゾロの奴。いつの間にあんな趣味作ったんだ、俺はナミじゃねぇぞ」
「大雑把なあんたと繊細な私を一緒にしないで、それってかなり失礼よ」

さり気にそういった意味の部分は否定せずにルフィの文句へ応酬する。

「お? サンジ今までどこにいたんだ――って、何だその格好。顔から頭からびしょ濡れじゃねぇか。キッチンで水浴びでもしてたのか?」
「・・・みなまで聞くな」

湿気った煙草を口をへの字にしながら歯噛みしている。
どうやら第1号の「犠牲者」はこの金髪の料理人だったらしい。

もがくゾロを蜜柑畑の隅に転がし、他のクルーは早急に甲板の隅に集まって作戦会議を招集する。
1歩遅れて参加したサンジも、今ひとつ顔色が優れないながらも何とかその場に留まる。

「手っ取り早く話しましょう、抵抗が強いからあまり保たないわ」

チラリと視線を動かしてロビンが先を促す。

「そもそどうしてこんなことになったんだ?」
「・・・オレが甲板であれこれ作ってた試薬のうちのひとつを、ゾロがおやつの差し入れと勘違いして飲んじゃったんだ。ちゃんと実験用のビーカーに入れといたのに・・・」
「何それ? ったく、何でそんな鬱陶しいことになるのよ!?」
「剣士さんにしてみれば、黄金の杯もビーカーも単なる器にすぎないのね」
「んで、肝心の解毒剤は? それがあれば一気にカタがつくんだろ?」
「それもウソップには言ったんだけど、鎮静効果のある薬草が足りなくてあの症状を緩和する薬は現時点では作れないんだ・・・」

「「「「「「・・・・・・・・・」」」」」」

嫌な沈黙が周囲に下りる。

そうなって来ると問題は効果の持続時間だ。
試薬だと言うからにはその効果は薄いのかもしれなかったが、その間クルーたちはずっと身の危険に晒され続け、しかもその対象はナミやロビンといった女限定ではないところがまた頭痛の種だ。

「・・・チョッパー、ちなみに効果はどのくらいで切れるんだ?」
「それが・・・」

口篭るところがまた周囲に不安の種を撒き散らし、そしてそれは悪い方へと予感的中してくれた。

「あれは希釈して使おうと思ってたものだから、それでなくとも色の割に中身の成分が濃いんだ。オレはいつも試してたし、いろんな薬に耐性や免疫ができてるから。でもゾロは人間で、それでなくとも薬なんて飲まないだろ? 効果は覿面だった、と思う・・・」
「だから、持続時間は!?」
「最低で数時間・・・悪くすれば半日以上は余裕で続くかと・・・」

「「「「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」」」」

「・・・・ッ」
「どうした、ロビンちゃん?」
「ダメ、剣士さんもう脱走しようとしているわ。もうこれ、解除してもいいかしら?」

そう言って指し示しているのは当然彼女の能力で咲かせたハナの手のことで、そんなにも強い抵抗を受けているのかと誰もが心配げな面持ちになる。
だが、そこでロビンが呟いたのは、

「剣士さん、手だけでもいいらしくて・・・」
「ゾロの野郎、本気で見境なくしてハナの手でもいいってか――ッッ!!」
「許せねぇ、あんのクソ剣士が、ロビンちゃんのあの麗しい手を相手に一体ナニやらかしてんだ――ッッ!」
「コックさん、ナニだなんてそんな激しいことはまだしてないのだけれど」
「まだって何だよ、まだって!」

青くなって吼えるウソップに、チョッパーは呟くように言い添える。

「でも、今考えてみれば、ゾロも何も本当に誰彼構わずいいってわけじゃなくて、ただ状況がちゃんと視覚として見えてないんだと思う。でなきゃサンジやルフィにキスしたりしないだろ?」
「「言うんじゃねぇ〜〜ッッ!!」」
「あれは人間が好意を持った相手に示す行動なんだから、おそらく視覚で個々のオレたちは捉えられていないんだ。きっともっと抽象的な感覚で見てるんだよ、おそらく」

ならばどうすればいいのか。
結局舞い戻る根本的な問題に、クルーの誰もが頭を抱えて唸った。

「やっぱり誰かひとり、差し出すべきかしらね」

ぽつりと恐ろしげもなく呟かれたロビンの独白に、誰もが目を剥いて言葉を失った。
確かにそれが最良な手段のような気もするが、その白羽の矢の役に一体誰が名乗りを上げてくれるというのか。

だがそうして悠長に頭をつき合わせていられる時間も余裕もなく、クルーたちは蜜柑畑の端に肩を弾ませて一同を見ているゾロの姿を認めた。

一縷の望みを抱いてその顔を見たが、やはりその身体から薬の効果はまったく抜けておらず、どこか霧の中を彷徨っているような剣士はまっすぐかれらを捉えていた。

「うわああ、来たぁぁぁッッ!」
「あらいやだ、時間切れなのね。それで、どうするの? このまま全員で剣士さんの薬の効果が切れるまで逃げ回る? それはそれで楽しそうだけれど」
「楽しくねぇ! 半日以上だなんて絶対無理だーッ!」
「それなら」

妖しい光を湛えた紫色の双眸が細められ、後退しながら傍らの航海士を見つめる。

「やはりここは、航海士さんが適任かしら?」
何で私がッ!?
「そうですよ、ロビンちゃん! 何もナミさんを生贄に差し出さなくとも、何かいい方法が他にもある筈ですよ!」
「なら、剣士さんの衝動が収まるまで船の中に放置しておく? 姿を見つけられたら、今回ばかりは本気で最後だと思った方がいいわね。それでいいなら構わないし、もしも誰も嫌だと言うのなら私が行って鎮めてあげてもいいのだけれど。それでは航海士さんが納得しないでしょう?」
「そ、それは・・・!」

それぞれの思惑と視線が交錯し、思いがそれぞれに入り乱れる。

「ウ、ウソップ、今ロビンさり気にとんでもないこと言わなかった、か・・・?」
「ききき、聞かなかった、俺は何も聞こえなかったぞ!」

耳を塞いで頭を振る視界の隅では、ナミまでもあんぐりと口を開いているのが見えた。
冗談か本気か審議したい気持ちはあったかもしれないが、野獣と化したゾロが目前に迫っていることを思えばそれはいずれもほんの一瞬の出来事にすぎなかった。

意見は、ふたりを除いて呆気なく決まった。

「「「ナミ、頼む」」」
「だから、何で私がッッ!? あんたら全員10万ベリーの罰金よ! ロビン、あんただけは3倍だからね!」
「ええ、とっておきの宝石を差し上げるから頑張って」
「え、そうなのッ? それならちょっと頑張るかも――ってそういう問題? 全然違うし!」
「しょんな〜、んナミすわ〜ん、ロビンちゅわ〜ん!」

ふたりの仲は船内でも暗黙の公認とされていたので今更のような気もしたが、それでもナミにしてもあれこれ気分的な葛藤や弊害はある。
何をどう頑張れと言うのか、袈裟懸けの言葉を最後に周囲にハナの手が群がり、にじり寄ってくるゾロへと一気に身体を押しやられる。

それを抱き止めたのを幸いと、ゾロはしっかりと逃さぬ力で抱きしめた。


ゾロにしてみれば、その時の光景は集団で固まっていた光のうち、オレンジのそれが単独で飛び出して来たように見えていた。
そしてそれを腕に収めてみれば、今まで触れたどの光よりもしっとり肌に馴染むものだった。

自分が求めていたのはこれだったのかもしれない。
本能的に悟った腕は、より強固な力でそれを拘束した。
そうすることがすべてにおいて正しいと言わんばかりに。


いつもより強引な抱擁、いつもより性急な仕草。
それらは今のゾロにまったく余裕がないことを無言のうちに知らしめていた。
触れてみて初めて知る、ゾロの身体の異様な冷たさに。

いつも子供のように体温の高いこの男のこと、もしかしたら無意識のうちにそれらを埋める“熱”を求めていたのではないかとふと思う。

だがそれらが確証を得る暇もなく、無骨な手はオレンジの髪を掻き乱すように差し入れられ強引にわし掴んで上を向かせる。
そのまま噛みつくような口づけに思考も止まり、ナミは荒波のようなゾロの仕草に酔わされた。

「あらあら、こんなところでいきなり濡れ場を演じてしまうのかしら? 私はそれでも構わないけれど、船医さんたちにはちょっと刺激が強すぎるわね。せっかくだから女部屋までお送りするわ」
「ちょ・・ロビ・・・んん!」

唇の端から叫ぶが、荒々しく塞ぐ口づけの嵐の前ではそれすらも切れて迫力も何もあったものではなかった。

確かにこんな真昼間に甲板で押し倒されるのは堪らないが、それをクルー周知の下に送り届けられるのも如何なものか。
だが男の逞しい腕に拘束されて自由にならない身体は既に言うことを聞かず、そこへロビンの咲き乱れる腕に次々とリレーの要領で運ばれてしまっては何もなす術がなかった。

「ロビン、後で覚えてなさいよー!」

その声を最後に、女部屋の扉は無情な音をたてて閉じられた。





霧の中を彷徨っていた。
ふわふわと現実感がなく、あまりにも頼りない感覚ばかりの世界に掴めるものなど何もなかった。
襲い来る不安から闇雲に手を伸ばせば、不意にしっかりとした質感が掌や腕の中に納まるのを感じた。
ここぞとばかりに両腕でしっかりと絡め取れば、“それ”は喘ぐような甘い吐息を漏らして震えるように小さく跳ねた。

(・・・・・・?)

何事かと必死に目を凝らせば、オレンジ色の光にすぎなかったそれは徐々に形をなし、徐々に柔らかな質感と甘い香りを伴って腕の中に出現する。

白い躯。
甘い吐息と唇。
誘うように潤んだ蠱惑的なヘイゼルの瞳。

そのすべてが、今この瞬間己が身体の下で荒い吐息に震えている。

「ゾロ・・も、許して・・・」

弱々しく喘ぐ吐息すら甘くて、それだけで背筋を寒気に似た感覚が走り抜ける。
自分の意識の飛んでいた間どれだけ彼女を翻弄したのか、日焼けを知らないその素肌には既にいくつもの朱印が刻みつけられている。

意識の伴わない身体の満足など、本当の意味での満足になどなるものか。

そんな身勝手な自己完結が行動となって現れ、再びその唇から言葉を吸い上げ奪い取る。

「・・・ゾロ?」
「黙って全部感じてろ、ナミ・・・」
「ちょ・・・あんた、まさか・・・ぁあ!」

言葉を紡がせる暇もなく、再び荒々しく瑞々しい肢体を貪り喰らう。

何がどうあっても構わない。
今与えられている好機があるのなら、それを存分に生かさせてもらうのが得策だ。
それが身勝手な振る舞いと判っていながら、ゾロは再びナミを嬌声の嵐へと突き落とした。





「・・・チョッパー、薬の持続時間はどのくらいだって?」
「えと、長くても半日くらいかと・・・」
「なら何で、ふたりとも丸1日以上たってんのに部屋から出て来ねぇんだ!?」
「持ちつ持たれつ、予想以上に盛り上がっているのかもしれないわね」
「いやああ、ロビンちゃん言わないでぇぇぇッ!」
「どーでもいーじゃんよ、飽きれば勝手に出て来んだろうし。それより肉! サンジ、飯にしよーぜぇ」
「アホ猿! あの素晴らしいナミさんの身体に飽きるわけネェだろうが! ってナニ言わすんだ、想像しちまったじゃねーか!!」
「や、言ったのはサンジで・・・」
「やっぱり医学的見地から分析すると、あの薬にはこれだけ効果があるんだからやっぱ追加研究の余地があるってことで、その際人間とトナカイの体内変化の反応速度や度合いも含めて今後課題が――」
「やめんか、長っ鼻に非常食! んなこと言ってると、あンのクソ緑よりも先にてめぇらから料理すんぞッッ!」

キッチンは未だ阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈していた。





そうして、女部屋では――。

「あ゛〜も゛〜・・・こいつ、絶対途中から正気だったに違いないんだから〜・・・」

ナミは甘く痺れる身体を指の1本すら動かすこともできず、たらふく食って満足げに眠る獣のように安らかに目を閉じるゾロを隣に見つめながら、小さく吐息を漏らすしかできなかった。

・・・それでも。

(・・・こういうのも、いつもと違って刺激的で悪くはなかったかも。ってちょっとだけよ、ちょっとだけ・・・)

そんな思いがチラリと胸を過ぎったのは、誰にも言えない彼女だけの秘密である。



   <FIN>